第6話「悪魔の契約」




1


ミナとの関係が悪化して以来、洸は深い孤独感に苛まれていた。


大学でも、以前のような充実感を得られない。確かに語学やピアノの才能で注目は集めているが、それらはすべて夢で得た借り物の能力だという自覚があった。


そして何より、ミナの冷たい視線が辛かった。


「俺は何をやってるんだ」


洸は図書館の一角で、頭を抱えていた。他人の夢を覗くなんて、確かに最低の行為だった。ミナの怒りは当然だった。


しかし、後悔と同時に、もっと大きな力への渇望も感じていた。


もし完璧な能力があれば、ミナを見返すことができるかもしれない。彼女が認めざるを得ないほどの才能を身につけることができれば。


その夜、洸は意図的にDream Dwellerとの接触を求めた。


「出てこい」


夢の中で洸は叫んだ。「お前に聞きたいことがある」


すると、洸の前に光が現れた。


そして、その光の中から、一つの人影が浮かび上がった。





2


それは確かに人間の形をしていたが、どこか歪んで見える存在だった。


白い仮面で顔を隠し、黒いローブを纏っている。身長は洸と同じくらいだが、その存在感は圧倒的だった。


「ようやく直接会えたね」


Dream Dwellerの声は、男性とも女性ともつかない、不思議な響きを持っていた。


「お前が俺に力を与えてくれた存在か」


「その通りだ。私は君の潜在能力を開花させている」


洸は恐怖を感じながらも、興味深く相手を観察した。これが自分の運命を変えた存在なのだ。


「なぜ俺を選んだ?」


「君には特別な資質がある」Dream Dwellerが近づいてくる。「夢と現実を繋ぐ才能。それは稀有な能力だ」


「でも最近、上手くいかないことばかりで」


洸は正直に打ち明けた。ミナとの関係、友人の疑念、自分への失望。


「それは君の力が足りないからだ」Dream Dwellerが言う。「今の君には、まだ中途半端な能力しか与えていない」


「中途半端?」


「そうだ。本当の力を与えれば、君はあらゆる分野で頂点に立つことができる」


洸の心臓が高鳴った。本当の力。


「どんな力だ?」


「絵画、数学、スポーツ、音楽、学問。すべての分野で天才的な能力を発揮できる」Dream Dwellerの声に誘惑が込められている。「君は真の完璧な人間になれるのだ」


洸は息を呑んだ。そんなことが可能なのか。


「ただし」Dream Dwellerが続ける。「相応の対価が必要だ」





3


「対価?」


洸は警戒した。これまでも何らかの代償を払っていたのだろうが、それが何なのかよく分からなかった。


「どんな対価だ?」


「それは後で分かる」Dream Dwellerが曖昧に答える。「今は才能を受け取ることだけ考えればいい」


「いや、先に教えてくれ。俺は何を失うんだ?」


洸は慎重になった。これまでの経験で、Dream Dwellerが完全に善意の存在でないことは理解していた。


「君が失うものは、大したものではない」Dream Dwellerが保証する。「君の平凡な過去、無価値な記憶、そして普通の人間でいる権利だけだ」


「普通の人間でいる権利?」


「君は特別な存在になる。もう平凡な人間として生きる必要はない」


洸は迷った。確かに平凡な人間でいることに、もう価値を感じていない。しかし、「普通の人間でいる権利を失う」という表現が気になった。


「もし断ったら?」


「君は今のまま、中途半端な能力で一生を過ごすことになる」Dream Dwellerが脅すように言う。「そして最終的には、すべての才能を失う」


洸は恐怖した。今の能力さえ失うのか。


「考える時間をくれ」


「時間はない」Dream Dwellerが迫る。「今この瞬間に決断しなければ、二度とこの機会は訪れない」


洸は焦った。ミナとの関係、将来への不安、平凡な自分への嫌悪。すべてが頭の中で渦巻いた。


そして、才能への渇望が、恐怖を上回った。


「分かった。契約する」


洸は決断した。


「賢い選択だ」


Dream Dwellerが手を差し出す。洸がその手を握った瞬間、激しい光が夢の世界を包んだ。





4


目覚めた洸は、明らかに身体の変化を感じていた。


頭がクリアで、身体が軽い。まるで新しい肉体を得たかのような感覚だった。


「これが新しい力か」


洸は試しに数学の問題集を開いた。大学院レベルの複雑な数式が、まるで小学生の算数のように簡単に解ける。


絵を描いてみると、プロの画家のような作品が瞬時に完成した。


腕立て伏せをしてみると、疲れることなく100回以上続けることができた。


「信じられない」


洸は興奮していた。これまでとは次元の違う能力を得ていた。


大学に向かう途中、洸は自信に満ち溢れていた。今日から新しい人生が始まる。


大学では、洸の変化が即座に注目を集めた。


数学の授業では、教授も解けない難問を瞬時に解いてみせた。体育の時間では、これまで運動音痴だった洸が、陸上部の記録を軽々と更新した。


美術の授業では、見る者を圧倒する作品を制作し、学生だけでなく教授までもが絶賛した。


「新田君、君は天才だ」


「信じられない成長だ」


「どうやってそんなに短期間で」


称賛の言葉が洸を包んだ。これまで味わったことのない優越感だった。





5


昼休み、洸が食堂で食事をしていると、ミナが近づいてきた。


「洸くん」


ミナの表情は複雑だった。怒りは残っているが、同時に驚愕もあった。


「先輩」


「今日の数学の授業、見てたわ。すごかったです」


ミナが認めている。洸は嬉しかった。


「ありがとうございます」


「でも、どうして急にそんなに?昨日までは」


「努力の成果です」


洸は嘘をついた。しかし、ミナの関心を引き戻すことができた。


「私たちの関係について、改めて話したいの」ミナが言う。「あなたの変化を見ていると、私の判断が間違っていたのかもしれない」


洸は内心で喜んだ。計画通りだった。


「先輩、僕は」


「でも、まだ信頼を取り戻すには時間が必要」ミナが続ける。「ゆっくりと関係を修復していきましょう」


洸は頷いた。これで第一歩は成功だった。


しかし、その時だった。


田口が洸の前に現れた。


「洸、話があるんだ」


田口の表情は深刻だった。





6


「お前、最近おかしいぞ」


田口が単刀直入に切り出した。ミナも心配そうな表情で洸を見ている。


「おかしいって、何が?」


「時々、別人みたいになってるんだ」田口が説明する。「昨日なんて、俺のことを知らない人みたいな目で見てた」


洸は困惑した。そんな記憶はない。


「そんなことないよ」


「嘘つけ。それに、お前の記憶、ところどころ抜けてないか?」


田口の指摘に、洸は愕然とした。確かに、最近記憶が曖昧な時間が多い。


「昨日の午後、何してたか覚えてるか?」


洸は思い出そうとしたが、昨日の午後の記憶が全くなかった。


「え」


「ほら、やっぱり覚えてない」田口が心配そうに言う。「お前、マジで病院行った方がいいって」


洸は混乱した。記憶の空白。それは契約の代償なのか。


「大丈夫だよ、田口。ちょっと疲れてるだけで」


「疲れてるだけであんなに能力向上するか?」田口が詰め寄る。「お前の変化、人間的じゃないんだよ」


ミナも不安そうな表情を浮かべている。


「洸くん、確かに変化が急激すぎるかも」


二人の心配が、逆に洸を苛立たせた。せっかく才能を得たのに、なぜ素直に喜んでくれないのか。


「俺の何が悪いんだよ」洸の声に苛立ちが混じる。「成長することがそんなにおかしいか?」


「成長と突然変異は違うんだよ」田口が言い返す。「お前はお前じゃなくなってる」


その時、洸の頭の中で別の声が響いた。


『彼らは君の才能を妬んでいる。無視しろ』


洸は驚いた。Dream Dwellerの声だった。




7


その夜、洸は自分の部屋で鏡の前に立っていた。


田口の言葉が気になっていた。記憶の空白、性格の変化。確かに異常だった。


鏡の中の自分を見つめていると、ふと違和感を覚えた。


鏡の中の洸が、わずかに笑っているように見えたのだ。


「え?」


洸は表情を確認したが、自分は笑っていない。しかし、鏡の中の洸は確かに笑っていた。


そして、その笑みは次第に邪悪なものに変わっていった。


「何だ、これは」


洸は鏡に近づいた。鏡の中の洸が、口を開いた。


『ようやく気づいたか』


鏡の中の洸が話しかけてきた。


「お前は誰だ?」


『君の新しい人格だ』鏡の中の洸が答える。『契約の代償として生まれた』


洸は恐怖した。契約の代償は、記憶の喪失だけではなかったのだ。


『心配するな。君よりもはるかに優秀だ』鏡の洸が続ける。『君の代わりに活動する時間が増えていく』


「代わりに活動?」


『そうだ。君が眠っている間、そして君が弱い時に、私が表に出る』


洸は理解した。記憶の空白は、この別人格が活動していた時間だったのだ。


『君は私に感謝すべきだ。私のおかげで君は完璧になれるのだから』


「俺は君なんか望んでいない!」


洸が叫ぶと、鏡が一瞬歪んだ。しかし、すぐに元に戻った。


『拒否権はない。契約は完了している』鏡の洸が冷酷に言う。『君は既に、普通の人間ではないのだ』


洸は絶望した。Dream Dwellerに騙されたのだ。


契約の代償は、自分自身を失うことだった。


しかし、もう手遅れだった。


鏡の中の邪悪な笑みが、洸の運命を物語っていた。


甘い才能の代償は、洸が想像していたよりもはるかに重いものだった。


洸はもう、完全に一人の人間ではなくなっていた。


そして、この変化は始まりに過ぎなかった。


Dream Dwellerの真の計画が、これから明らかになろうとしていた。




*悪魔の契約の恐ろしい真実が、ついに明らかになる。*

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