第5話「共有する悪夢」
1
その日の朝、洸は重い頭痛と共に目覚めた。
昨夜はルブラン教授の夢に侵入し、高度なフランス語の文学理論を学んだはずだった。しかし、妙な違和感が残っていた。
夢の最後で、誰かが自分を見ているような気配を感じたのだ。
「気のせいかな」
洸は頭を振って身支度を整えた。最近、夢での学習や他人の夢への侵入が日常となり、現実と夢の境界が曖昧になっている。そのせいで、変な感覚を覚えるのかもしれない。
大学に向かう電車の中で、洸は昨夜教授から学んだフランス文学の知識を復習していた。頭の中で流暢なフランス語が流れる。完璧に習得していた。
しかし、その時ふと不安になった。
もし誰かに夢への侵入を気づかれたらどうなるのだろう。
2
大学に着くと、洸はいつものように図書館に向かった。フランス文学のコーナーで、昨夜学んだ知識を確認するためだった。
「洸くん」
後ろから声をかけられて振り返ると、ミナが立っていた。しかし、いつもの明るい表情ではなく、どこか困惑したような顔をしている。
「先輩、おはようございます」
「おはよう」ミナは洸の隣に座る。「ねえ、洸くん。昨日の夜、変な夢を見たの」
洸の心臓が跳ね上がった。まさか。
「変な夢?」
「洸くんの夢を見たの。とてもリアルで」ミナが困ったような表情を浮かべる。「図書館にいる洸くんを見てた。でも普通の図書館じゃなくて、本が宙に浮いている不思議な場所で」
洸は青ざめた。それは確実に、昨夜洸が体験した夢の図書館の描写だった。
「それで、洸くんがフランス語の本を読んでいたの。とても難しそうな内容で」ミナが続ける。「私にはフランス語は分からないけど、なぜかその内容が理解できて」
洸は立ち上がりそうになった。これは偶然ではない。ミナが洸の夢を見ていたのだ。
「先輩、もしかして」
「うん、私も同じことを考えてる」ミナが洸を見つめる。「私たち、同じ夢を見てたよね?」
洸は認めざるを得なかった。
「そうだと思います」
二人は顔を見合わせた。共有夢という現象に巻き込まれたのだ。
3
「すごいことが起きてるのね」
ミナは最初、この現象に驚きながらも興味深そうだった。
「私たち、特別な絆で結ばれてるのかも」
ミナの言葉に、洸は複雑な気持ちになった。確かに特別な現象だが、洸にとっては都合の悪いことでもあった。
自分が他人の夢を覗いていることがバレる可能性があるからだ。
「でも、どうしてこんなことが?」ミナが首をかしげる。
「分からないです」洸は曖昧に答える。「でも、確かに不思議ですね」
「今度は意識的に、同じ夢を見てみない?」ミナが提案する。「もしかしたら、夢の中で一緒に勉強できるかも」
洸は迷った。ミナとの共有夢は魅力的だが、同時に危険でもあった。自分の秘密がバレる可能性がある。
しかし、ミナの期待に満ちた表情を見ると、断ることができなかった。
「やってみましょう」
「楽しみ」ミナが笑顔を浮かべる。「今夜、同じ時間に眠りましょう。11時に」
洸は頷いた。しかし、不安が心を支配していた。
4
その夜、洸は11時きっかりにベッドに入った。ミナとの共有夢を意識しながら眠りにつく。
夢の中で洸は、美しい草原にいた。青い空、白い雲、風に揺れる花々。穏やかで美しい風景だった。
「洸くん」
振り返ると、ミナが立っていた。夢の中の彼女は、現実以上に美しく見えた。
「先輩、本当に会えましたね」
「すごい。本当に同じ夢を見てる」ミナが感動している。「こんなことって、本当にあるのね」
二人は草原を歩いた。現実では不可能な、完全にプライベートな空間を共有している。
「洸くん、私たちって運命で結ばれてるのかも」
ミナの言葉に、洸の心は高鳴った。憧れの女性との特別な絆。これまで夢見ていたことが現実になっている。
しかし、その時だった。
草原の風景が急に暗くなった。
5
「あれ?」
ミナが困惑の声を上げる。美しい草原が、暗く陰鬱な場所に変わりつつあった。
そして、ミナの表情も変わった。
最初の困惑から、恐怖へと。
「洸くん、あなた」
ミナが洸を見つめる目に、明確な恐怖が宿っていた。
「私の夢を覗いていたでしょう」
洸は愕然とした。バレていたのだ。
「先輩、それは」
「ユリのことを見たでしょう」ミナの声が震えている。「私の一番見られたくない記憶を」
洸は否定できなかった。確かに彼女の妹の事故の記憶を覗いていた。
「すみません」洸が謝る。「でも、先輩のことをもっと知りたくて」
「知りたくて?」ミナの目に怒りが宿る。「人の心を勝手に覗き見することが、知ることなの?」
夢の風景が更に暗くなった。そして、ミナの怒りと恐怖が、具現化し始めた。
草原の向こうから、黒い影がにじみ出てくる。それは洸に向かって这い寄ってくる怪物だった。
「先輩、落ち着いて」
「あなたは信じていた人に裏切られる恐怖を知らない」ミナの声が冷たくなる。「私がどんな気持ちでいるか、分からないでしょう」
怪物は洸の前に立ちはだかった。それは洸自身の姿をしていたが、目は赤く光り、口は邪悪に歪んでいた。ミナの心の中の洸の姿だった。
「これがあなたの本当の姿よ」
怪物が洸に襲いかかった。
6
洸は必死に逃げたが、怪物は容赦なく襲ってくる。爪で引っ掻かれ、牙で噛まれる。夢の中なのに、痛みがリアルに感じられた。
「先輩、やめてください!」
洸が叫ぶが、ミナの怒りは収まらない。
「人の心を踏みにじっておいて、何を今更」
怪物の爪が洸の頬を深く切り裂いた。激痛が走る。
その時、洸は目覚めた。
現実の世界に戻った洸は、頬に激しい痛みを感じた。鏡を見ると、確かに傷がついていた。夢の中で受けた傷が、現実でも残っていたのだ。
「そんな馬鹿な」
洸は傷を触った。確実に血が出ている。夢と現実の境界が、本当に崩れ始めていた。
スマートフォンを見ると、ミナからメッセージが来ていた。
「私も傷ができました。あなたの爪で引っ掻かれた跡が」
洸は恐怖した。ミナも同じ体験をしていたのだ。
「話があります。明日、屋上で」
短いメッセージの後に、もう一通。
「信じていたのに、裏切られました」
洸は深い後悔に襲われた。ミナとの関係が、最悪の形で変化してしまった。
7
翌日、洸は約束の屋上でミナを待った。彼女は時間通りに現れたが、いつもの明るさは微塵もなかった。
「おはようございます」
洸が挨拶すると、ミナは無言で頬の傷を見せた。確かに洸の爪でつけられた傷があった。
「なぜ私の夢を覗いたの?」
ミナの問いに、洸は正直に答えるしかなかった。
「先輩のことを、もっと知りたかったんです」
「知るって、勝手に人の心を覗くこと?」
「違います。でも、その、表面的な会話だけでは分からないことがあって」
「それは私が話したくないから話さないの」ミナの声に怒りが混じる。「話したくないことを無理やり知ろうとするのは、暴力よ」
洸は言葉を失った。確かにミナの言う通りだった。
「ユリのことは、私の一番の秘密だった」ミナが続ける。「誰にも話したことがない。それを勝手に見られて」
ミナの目に涙が浮かんでいた。洸は自分の行為の重大さを理解した。
「本当に申し訳ありませんでした」
洸が深く頭を下げる。しかし、ミナの怒りは簡単には収まらなかった。
「私たちの関係は、もう前とは同じじゃない」
その時、洸のスマートフォンに通知が来た。
Dream Dwellerからのメッセージだった。
「君たちは選ばれた存在だ。この絆を大切にしろ」
洸は不安になった。Dream Dwellerは二人の関係を監視していたのだ。
「どうしたの?」ミナが気づく。
「いえ、何でもないです」
洸は慌ててスマートフォンをしまった。しかし、Dream Dwellerのメッセージが脅しのように感じられた。
「私たち、この奇妙な現象に巻き込まれてる」ミナが呟く。「共有夢なんて、普通じゃない」
「そうですね」
「でも、だからといって人の心を覗いていい理由にはならない」
ミナの言葉が、洸の胸に刺さった。
その時、田口が屋上に現れた。
「おお、洸。こんなところにいたのか」
田口は二人の緊張した雰囲気に気づいた。
「なんか、雰囲気重くない?」
「いえ、何でもないです」洸が慌てて答える。
しかし田口は、二人の関係の変化を敏感に感じ取っていた。最近の洸の異常な変化と、ミナとの不自然な親密さ。
「お前ら、何か隠してないか?」
田口の鋭い質問に、洸とミナは顔を見合わせた。
共有夢のことは、誰にも話せない秘密だった。
しかし、その秘密が二人の関係を歪め始めていた。
洸は気づいていなかった。
Dream Dwellerが仕組んだ罠にはまり始めていることを。
共有夢は、偶然ではなく意図的に作り出されたものだった。
洸とミナを引き離し、孤立させるために。
そして、洸をより深く夢の世界に引きずり込むために。
甘い誘惑は、確実に洸を破滅へと導いていく。
もう逃げ道はなかった。
*特別な絆は、呪いの始まりだったのか。*
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