第2話 無言の論争
バスの車内には、独特の静けさがあった。
話し声がないわけではない。電話は禁止だが、小さく友人と会話する学生、咳払いをひとつ、ふたつ……それらが静寂のなかに、音楽のように織り込まれている。ただし、それ以上に強く、目に見えない“空気”が支配しているのだった。
その空気には、ルールがあった。明文化されてはいないが、誰もがそれを感じ取っていた。
イヤホンの音漏れは最小限に。リュックは前に抱えるか、足元に置く。座席の隣に荷物を置かない。混んできたら自然に席を詰める。優先席ではスマホの電源を切るか、せめて音を消す。年配の人が乗ってきたら――
バスが大通りを右折した頃、次の停留所に差しかかった。
ドアが開くと、杖をついた白髪の老人がゆっくりと乗り込んできた。佐藤徹はすぐに腰を浮かせ、すでに座っていた席を差し出す。
「どうぞ、おかけください」
老人はふわりと微笑み、軽く頭を下げた。
「ありがとう。助かるよ」
その一言に、徹も微笑み返した。
何も特別なことではなかった。だが、そうしたやりとりが、バスという空間の居心地を決めるのだ。
その数秒後、車内の後方で、ぼそっと低い声が漏れた。
「……金払ってんのに、なんで挨拶せなあかんねん」
無遠慮なその言葉に、空気がわずかに揺らいだ。誰かが振り向きかけてやめ、誰かがイヤホンの音量を下げた。
声の主は森本隆だった。徹の職場の同僚。偶然にも同じバス路線を使っており、ときどきこうして顔を合わせる。
合理主義で、無駄を嫌う。人付き合いも、最低限で済ませたがる。礼儀やマナーは、あくまで「損得」の範囲でしか理解しない男だった。
徹は何も言わなかった。が、森本の言葉に胸を波立たせるような何かを感じていた。単なる“意見の違い”ではない。もっと根の深い、価値観のずれだ。
だがそれを責めようとは思わない。言葉で変わるものもあれば、変わらないものもあるからだ。
バスは、無言のまま次の停留所へと進んでいった。車窓には春の光が差し込み、街路樹の若葉が風に揺れていた。
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