ある男の一日

ポチョムキン卿

第1話 朝のバス停

 春とは名ばかりの、まだ肌寒さが残る朝。佐藤徹は、自宅から歩いて十分ほどのバス停に、いつも通りの時間に立っていた。腕時計の針は七時十五分を指している。市役所勤めの彼にとって、この時間、この場所、この空気感は、もはや一日のリズムの一部になっていた。


 バス停にはすでに数人が並んでいたが、顔ぶれはほとんど変わらない。歳の頃、十七、八といった女子高生がひとり。制服のスカートの裾から覗く脚はまだ冷たそうで、彼女はイヤホンをつけたままスマホの画面を見つめている。田中美咲という名前だと、以前に彼女が友人と話しているのを聞いて知った。会話を交わしたことはないが、毎朝の「おなじみ」だ。


 やがて、遠くの交差点の角から、オレンジ色の車体が姿を現す。バスが近づいてくると、徹は背筋を正した。バスの運転手は、これもまた見慣れた顔――山根修司。定年を過ぎてなお現役で働くその姿勢と、変わらぬ笑顔は、乗客に安心を与える。


 バスが停車し、前方の扉が開いた。徹は一歩踏み出し、自然な動作で軽く頭を下げる。


「おはようございます」


 静かながらもはっきりとした声。その一言が、車内の空気を優しく揺らす。


 すぐ後ろにいた美咲が、ふと顔を上げた。目が一瞬だけ泳いで、戸惑ったように口を開く。


「……おはようございます」


 小さな声だったが、その言葉は確かに届いた。


 山根は微笑みながら、明るい声で返した。


「おはようございます。今日もいい日になりますように」


 バスの中に春の陽だまりが差し込んだような、あたたかなひとときだった。


 美咲は少し恥ずかしそうに頬を染めながらも、静かに座席についた。徹も、空いていた席に腰を下ろす。


 それぞれが、それぞれの一日を始めようとしていた。けれど、その朝の挨拶が、ほんの少しだけ、誰かの心をほどいた。些細なやりとりの中に宿る、言葉のぬくもり。


 それが、佐藤徹の一日の始まりだった。

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