第3話 降車のマナー
バスはいつものように、町の中心部へと進んでいた。窓の外には、通勤通学の人々がせわしなく行き交う。信号待ちの車列、コンビニに吸い込まれていくサラリーマン。変わり映えのしない風景だけれど、どこかほっとする。
佐藤徹は、降車ボタンのある手すりに手を伸ばした。自分の降りる停留所が近づいている。押し慣れたそのボタンは、まるで長年の友人のように、軽くカチリと鳴った。
バスがゆっくりと停まる。タイヤがアスファルトをこする音。ドアの開く、柔らかな空気の抜けるような音。
徹は立ち上がり、ICカードを手に前方へと進む。いつも通りの手順、けれど毎朝少しだけ緊張するこの一瞬。無意識のうちに、彼は背筋を伸ばしていた。
運転席の脇に差しかかり、徹はカードをタッチすると、はっきりとした声で言った。
「ありがとうございました」
その言葉に反応して、運転席の山根修司が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、穏やかに細められる。
「ありがとうございます。行ってらっしゃい!」
力みすぎない、けれど確かに心を込めた声だった。その響きが、ふっと背中を押してくるようだった。
ただの挨拶に思えるかもしれない。けれど、毎日の積み重ねの中で、このやりとりは、徹にとってひとつの“儀式”のようになっていた。
ほんの少しのぬくもりを、人の声から受け取る。それは、コーヒー一杯の温かさにも似ていた。冷えた心に、ぽつりと灯る火のような。
後ろからは、美咲の声が聞こえた。
「ありがとうございました……」
少しだけ緊張したような、それでいて真っすぐな声だった。
そして最後に、森本が降りてきた。彼はカードを無言でタッチし、そのまま無表情でバスを降りていった。
山根はとくに何も言わず、次の乗客に視線を向けた。
徹は歩道に降り立ち、背後から扉が閉まる音を聞いた。街の雑踏の中に、静かな余韻が残る。
小さな挨拶が、小さな背中を押す。そんなことを、彼はふと思った。
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