無音の恐怖

 足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。


 まず最初に気づいたのは、足音が消えたことだった。床に靴が触れているのは確実に感じられるのに、その音が一切聞こえない。四人が手をつないだまま教室に入っても、足音も衣擦れの音も、なにもかもが完全に無音だった。


 陽菜乃が振り返ろうとして、首元のお守り袋が揺れた。しかし、いつもなら聞こえるはずの銀の鈴の音が全く聞こえない。鈴は確実に動いているのに、その美しい音色は完全に失われていた。


「え?」


 湊がなにかを言おうとして口を動かしたが、声が出ない。正確には、声は出ているのかもしれないが、一切聞こえないのだ。彼の表情が困惑に変わった。


 泰河がなにかを叫ぼうとしている。口を大きく開けて、明らかに大声を上げているようだったが、やはりなんの音も聞こえない。彼の顔は恐怖で歪み、全身が激しく震えていた。


 遼が慌てて測定器を確認している。機器の画面は光っているが、当然ながら操作音は聞こえない。彼は何度もボタンを押し、機器を振ってみるが、全ての音が無に飲み込まれている。


 陽菜乃は冷静さを保とうと努力した。これが資料に書かれていた現象なのだ。『一切の音が聞こえなくなる』という、あの記述の通りの状況。


 しかし、実際に体験してみると、その恐怖は想像以上だった。音のない世界は、こんなにも不安で、こんなにも孤独感を与えるものなのか。


 泰河が陽菜乃の腕を激しく揺さぶっている。彼の口が「出よう、出よう」と言っているのが読み取れた。しかし、陽菜乃は教室の奥を見つめていた。


 黒板に、文字が浮かび上がっていた。


 最初は薄っすらとしていたが、だんだんとはっきりしてくる。白いチョークで書かれたような文字が、ゆっくりと現れていく。


『声を失くした者たちへ』


 その文字を見た途端、机の上になにかが現れ始めた。古い学生証だった。一枚、また一枚と、次々に学生証が机の上に散らばっていく。どれも昭和年代の古いデザインで、写真の学生たちは皆、若々しい笑顔を浮かべている。


 湊が学生証の一枚を手に取ろうとしたが、指が触れる寸前に学生証は消えた。そしてまた別の場所に現れる。まるで幻のように、触れることができない存在だった。


 遼が測定器の画面を他の三人に見せた。全ての数値が異常を示している。音響レベルはゼロ、電磁波は通常の十倍、温度は急激に下がっている。しかし、そんな科学的なデータよりも、今起こっている現象のほうがはるかに現実的で、はるかに恐ろしかった。


 泰河がなにかを見つめて、さらに激しく震え始めた。陽菜乃には視えないが、彼の目にはなにかが映っているのだろう。泰河の顔は青ざめを通り越して真っ白になり、涙すら浮かべていた。


 陽菜乃は泰河の視線を追った。教室の後ろのほう、そこに誰かがいるのだろうか。泰河の反応から察するに、相当な数の霊的存在がいるに違いない。


 黒板の文字が変化した。


『私たちは声を失いました』


『助けを呼ぶことができませんでした』


『誰にも気づいてもらえませんでした』


 次々と現れる文字を読んで、陽菜乃は状況を理解し始めた。これは単なる怪現象ではない。過去になんらかの事故で声を失った学生たちの、無念の想いが残っているのだ。


 湊が資料を取り出して、なにかを確認しようとしていた。しかし、紙をめくる音も聞こえない無音の世界では、資料の内容を他の人と共有することも難しい。


 また学生証の散らばりかたが変わった。今度は一定のパターンを持って配置されている。よく見ると、文字を形作っているようだった。


『火事』


『煙』


『声が出ない』


 学生証で作られた文字を読んで、陽菜乃は全てを理解した。昭和四十五年の火災事故。煙を吸って声を失った学生たち。その後、心理的なトラウマで長期間声が出なくなった学生もいたという記録。


 彼らの無念が、この教室に残っているのだ。


 陽菜乃は首元のお守り袋に手を当てた。銀の鈴は音こそ聞こえないが、確実に震えている。それも、いつもより強く、まるで彼女に音を伝えようとするかのように。


 泰河が陽菜乃の袖を引っ張って、必死になにかを伝えようとしている。彼の口の動きを読み取ると、「たくさんいる」「学生がたくさん」「みんな口を動かしてる」「でも声が出てない」ということのようだった。


 陽菜乃は深呼吸した。音は聞こえないが、空気は肺に入ってくる。心臓の鼓動も感じられる。完全に感覚を失ったわけではない。


 彼女は他の三人に向かって、手話で「手をつないで」と伝えた。四人は再び手をつなぎ、輪を作る。


 陽菜乃のお守り袋が、強く光り始めた。


 音は聞こえないが、光は見える。銀の鈴を包む布袋が、温かい光を放っている。その光に照らされて、教室の様子がより鮮明に見えるようになった。


 そして陽菜乃にも、ついに見えた。


 教室の至る所に、学生たちの姿があった。古いファッションの若い男女が、口を動かしながら必死に訴えようとしている。しかし、彼らの声も全く聞こえない。彼らもまた、この無音の世界に囚われているのだ。


 一人の女子学生が陽菜乃に近づいてきた。彼女の口が動いている。何度も、何度も同じ言葉を繰り返している。


『助けて』


 口の動きを読み取って、陽菜乃は理解した。この学生たちは、長い間この教室で声を失ったまま、誰かに助けを求め続けていたのだ。


 陽菜乃は目を閉じた。音は聞こえないが、心は静かだった。お守り袋の鈴が、無音の中で確実に震えている。その振動を通して、陽菜乃は霊たちの想いを感じ取ることができた。


 悲しみ。無念。そして、長い間誰にも気づいてもらえなかった孤独感。


 でも、それだけではなかった。希望もあった。ついに自分たちに気づいてくれる人が現れたという、小さな希望の光。


 陽菜乃は心の中で祈った。声に出すことはできないが、心から祈った。


『あなたたちの想いは届いています。もう一人ではありません。安らかに、向こうの世界へ行ってください』


 お守り袋の光が、さらに強くなった。教室全体が温かい光に包まれていく。

 黒板の文字が、再び変化した。


『ありがとう』


『やっと聞こえました』


『あなたの心の声が』


 学生たちの表情が、苦悶から安らぎへと変わっていく。一人ずつ、光に包まれて消えていく。最後に残った女子学生が、陽菜乃に向かって深くお辞儀をした。


 そして、彼女も光の中に消えていった。


 机の上の学生証が、一枚ずつ光って消えていく。まるで卒業証書を受け取るかのように、静かに、穏やかに。


「あ……あああ……」


 泰河が恐る恐る声を出してみると、かすれてはいるものの確かに自分の声が聞こえた。


「聞こえる……聞こえるよ!」


 安堵のあまり涙声になりながら、泰河が大きく声を上げる。その声が教室に響くと、まるで呪縛が解けたように、一気に音の世界が戻ってきた。


「機器の音も戻ったよ」


 遼が手元の騒音計を確認しながら、冷静にそう呟く。針が正常な値を示している。


「本当に……戻った」


 湊もまた、自分の声を確かめるように小さく呟いた。

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