第41話 定められた結末

 ~25階層癒しの泉~


 足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。湿り気を帯びた風が背筋を撫でるように流れ、泉の冷たい水が肌をじわじわと締め付ける。

 なのに——どこからか水滴の音が響いている。

 いやな予感が背筋を駆け上がる。この場所には、水面しかないはずなのに。

 ぽつん……ぽつん……。 音の発生源がわからない。それはまるで、私のすぐ傍で何かが滴り落ちているかのようだった。

 背後で軋む音がした。

 私は息を詰める——次の瞬間、それは跡形もなく消えた。


 悪意は私のすぐ後ろにいた。


「逃げろ!」 父の叫びが耳を貫いた瞬間、本能的に体が動いた。

 考えるよりも先に——私は、走り出していた。

 水辺から陸へと駆け上がる。


 背後から、水面が異様にざわめく音が響いた。波が立ち、ざわざわと蠢くように水が盛り上がる。

 ぬるりと、濡れた腕が波の中から浮かび上がった。その瞬間——水が弾けるように裂け、人の形がそこに現れる。


 否——それは人ではない。


 虚ろな目が私を捉えた。肌は青白く、どこかぼんやりと透けている。濡れた髪が重たげに垂れ、ずるずると足元の水を引きずるように立ち上がった。


「嘆きの亡霊…グレイヴディクト……」

 お姉ちゃんの声が震える。


 濁った瞳でじっとこちらを見据え、亡霊の唇がゆっくりと動く。ひび割れた口から、低く湿った声が漏れた。


『……二度も罠にかかる奴がいるとは……間抜けだな。せっかく逃げ出せたのに…贄になるのは嫌だったんだろ?今度は人質にでもなりに来たのか?』


 亡霊はゆっくりと口角を歪ませ、薄く笑った。その笑みには、どこか乾いた飢えが滲んでいる。


 二度?誰かと間違えてる?

 いや、今はそんなことより……。


『俺が再びダンジョンの外に出るのに協力してくれ。冒険者に戻りたいんだ……』


 水面が不気味に揺れ、じわじわとうねる。


『何……ほんの少し命を貸してもらえれば……それだけでいい』


 かすれた声が響くたびに、湿った空気がじわりと肌に張り付く。亡霊の瞳は濁ったまま、どこか楽しげに微かに揺れていた。それはまるで、獲物が逃げ場を失った瞬間を味わう捕食者のようだった——。


「菜々花!耳を貸すな——奴の足は速くない。すぐに逃げるんだ!」父の叫びが、空気を切り裂くように響いた。

 その瞬間、お姉ちゃんの手が私の腕を強く引いた。「走って!早く!」

 頭が追いつかない。恐怖が足に絡みつき、動きが鈍る。でも、お姉ちゃんの力強い手に引かれ、私は駆け出した。


 背後では、何かが水を踏みしめる音がした——。


『二度あることは三度ある……』

 背後から、ぞわりと空気が揺らぐ。水の匂いが濃くなる——いや、それだけじゃない。 冷たい何かがまとわりついてくる。


『……逃げることに意味はない』

 水の奥深くから滲み出すような声が、肌に絡みつく。ただの言葉のはずなのに、耳の奥で重たく響く。


『どれだけもがこうと——結末は決まっている』

 じわり、足元が沈むような錯覚に陥る。亡霊の気配が濃くなっていく。水の底に引きずり込まれるような——。


 どれほど走っただろうか——息が荒い。胸が焼けるように痛い。それでも、立ち止まることは許されなかった。追われている。逃げるしかない。ただ、走るしかなかった。


「待て……!」 父の声が鋭く響いた。焦りが滲み、息を切らしながらも強く告げる。

「転移結晶だ。転移結晶を使うぞ!」父は素早く手を伸ばし、結晶を取り出した——頼みの綱を握る、その手が微かに震えていた。


 転移結晶が、微かに光を帯びる——。

 しかし、何も起こらなかった。

 沈黙が落ちる。鼓動が強く鳴り響く。


『使用できないだろう?……それは三度目に当たるのか?』


 耳の奥に染み込むような声。亡霊の姿は見えない。なのに——確かにそこにいる。

 影もない。気配もない。それなのに、声だけがはっきりと存在していた。


 私たちはまた走り出す。


 泉からはだいぶ遠ざかり、周囲は静寂に包まれている。亡霊の気配はもう遠くなったはずなのに——。

 なのに——耳の奥で、かすかな囁きが響いた。これは確かな幻聴だった……。

『……逃げられると、本当に思っているのか……?』

 私は息を詰める。何も聞こえないはずなのに、声だけが染み込むように耳の奥へ入り込んでくる。

 喉が引きつる。全身が冷たくなる。

 亡霊の言葉が、頭の中にねっとりと残る。

 それならば——。


 私はブローチを握り締めた。その手にあかねお姉ちゃんの温かい温度が伝わってきた。

「大丈夫。覚えてる……。そして、二度あることは三度ある」

 あかねお姉ちゃんがそう言葉にする。

 言葉通り――それを実行した。


 まばゆい光が視界を覆う。瞬間、すべての気配が消えた。

 亡霊の囁きも、水の底から響くようなあの声も—— 何も聞こえない。

 ただ、光だけがあった。音も恐怖も塗りつぶされ、私たちはその中に飲み込まれる。


「逃げ切った……」


 私は息を吐き出した。喉が焼けるように痛い。足が震えて、力が入らない。

 それでも、まだどこか遠くで亡霊の囁きが響いているような気がして、思わず耳を澄ませる。

 ……聞こえない。何も。

 静寂が広がる。 風が頬を撫でる。この空気は、もう私のものだ——。

 膝ががくりと折れる。立っていられない。私はその場にへたり込んだ。


 ふと横を見ると、お姉ちゃんも、肩で大きく息をしていた。その手はまだ私の手を掴んでいる。強く、必死に。その力に救われたことを、今さらながら実感する。

 父は、額の汗を拭いながら立ち尽くしていた。手に握りしめた転移結晶は、何の反応もないまま。それでも、彼の目は私たちを見ていた。生きていることを確認するように——。

 じわじわと、安堵が胸に染み渡る。逃げ切ったんだ。本当に。


 逃げることができた種明かしは、実に単純だ。

 カナタさんと25階層を探索した時、あかねお姉ちゃんが二度踏んだ罠——それをもう一度踏んだ。

 そう、三度目の罠の発動だ。

「二度あることは三度ある……」あかねお姉ちゃんが、息を整えながら呟く。

 私は思わず口元をほころばせる。「いや、三度目の正直かな?」

 お姉ちゃんが目を細める。その仕草には、緊張から解き放たれた安堵と疲れが滲んでいた。

 私は肩で息をしながら、心の奥に広がる達成感を噛みしめる。恐怖に呑まれそうだった時間が、ようやく過去になろうとしていた——。


 父の手に持っていた転移結晶が、今頃になって輝きだした。


「「今更、遅いよ」」


 あかねお姉ちゃんと私は、同時にそう口にした。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

 あとがき


 あかね、おぼえてた。


 さて、また種明かし回ですね。


 と言うことは、種明かし回も三度目ってことになりますね。(どや顔

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