第42話 定められた結末
転移結晶の光が私たちを包み込んだ。
全身が柔らかな光の波に飲み込まれる。
やがて——光が収まる。
視界がクリアになり、周囲を見渡す。
しかし——そこに広がっていたのは、さきほどと同じ広い部屋だった。
変わらない。何も…。まるで時間が巻き戻されたかのような錯覚に襲われる。
『……ふう、やれやれ……』
父は息を吐くように言った。
『まあ、落ち着け。慌てる必要はない。これで逃げる必要はなくなった』
父の言葉に逃げる必要がなくなったことを確かに感じた。
それは安堵感ではなく、絶望として……。
「お姉ちゃん……!」
私は震える声で呼びかけながら、あかねお姉ちゃんの手を強く引いた。
その瞬間——お姉ちゃんも、力強く握り返してくる。
ただの反射ではない。そこには、確かな意思があった。
私たちは、一歩、そしてもう一歩と後ずさる。
父との距離がじわじわと開いていく。
光の余韻がまだ瞳の奥に残る中——。私たちは、何も言わずに父を見つめていた。
その姿は、確かに父だった——。
『あれ?もう気が付いたの?転移結晶に細工したのバレてたもんな』
——父だったものが、にたにたと笑い出す。
その笑みには、父の面影がない。唇だけが不気味に歪み、表情の奥に冷たい違和感が滲んでいる。
じわり——額から、頬から、静かに滴る水。衣服の端からも、濡れた雫が落ちる。まるで、泉の底からそのまま這い上がってきたかのように。
皮膚の下で何かが蠢くような感覚——。借り物の身体をうまく動かそうとするかのように、ぎこちなく肩が揺れる。
濁った瞳は、じっと私たちを見据えている。
父ではない。そこにいるのは、父の形をした何かだ——。
「どうすればいい。どうすればいい?」
頭の中で言葉がぐるぐると回る。考えなきゃ。決断しなきゃ。でも——どうすればいい?
逃げる?それしかない? いや、違う。
父が乗っ取られた。ただの囚われじゃない。人質に——取られたようなものだ。
私たちだけ逃げても、意味がない。それじゃあ何も解決しない。
呼吸が浅くなる。足がすくむ。
でも、止まっている暇はない。何かを——決めなきゃいけない。
お姉ちゃんの手は、強く私の手を握り返してくる。その指先には、迷いはなかった。決意が、しっかりとその握力に込められている。
お姉ちゃんは静かに息を整え、ゆっくりと一歩前へ出た。父だったものをまっすぐ見据える。
そして——毅然とした声で問いかけた。
「あなたの目的は何?なぜ、外へ出たいの?」
その言葉は、問いではなく詰問だった。亡霊はしばらく沈黙し——そして、低く笑った。
『……知りたいのか?』
その声に、お姉ちゃんは微動だにしない。ただ、強い視線で亡霊を捉え続けていた。
お姉ちゃんの指が、ほんのわずかに私の手を引いた。一度——そして、もう一度。
不自然な動き。ただの無意識の仕草ではない。
それは、逃げるという意思の合図。この会話が何も解決を見出せなかった場合——即座に離脱する準備。
私は息を詰める。お姉ちゃんは、視線を逸らさず亡霊と対峙している。それなのに、その指先だけが密かに私に警告を送っていた。
——準備して、と。
『私は、このダンジョンの敗者だよ。ダンジョンエネルギーを利用しようとしたが——逆に、ダンジョンに囚われた。気づけば、こうしてモンスターにまで堕ちてしまった……』
お姉ちゃんは微動だにせず、静かに問いを返した。
「敗者……?それは、何かと争った結果?」
亡霊の唇がわずかに歪む。
『争い……そうだな。だが、それよりも"人の手"が大きな要因だったよ。利用され、切り捨てられ——やがて私はここへ。"定められた結末"だったのさ』
お姉ちゃんはほんのわずかに眉をひそめる。
「人に?それは……誰かに裏切られた、ということ?」
亡霊はくつくつと喉を鳴らす。
『裏切り、と言えば聞こえはいいが……フフ、奴らにとって私は"ただの道具"だったのさ。目的を果たせば不要なものは捨てられる。それだけの話だろう?』
濡れた衣服の端から、雫がぽたりと落ちる。
『だが、私はまだこの力を使える。 ダンジョンエネルギー——それは閉ざされた者にとって呪いであり、同時に力でもある。転移結晶を封じることも、こうして私自身を転移させることも——今の私には造作もない』
お姉ちゃんは静かに息を整えながら、亡霊の言葉を整理する。
「つまり……このエネルギーを使う方法を知っている、ということね?」
亡霊の瞳が微かに揺らぐ。
『後は、外へ出るだけだ……それでいい。 人として戻れれば、いくらでもこの力を——好きに使える。そう、私ならね……』
お姉ちゃんの視線が、わずかに鋭くなる。
「人として……戻れる?それは本当に可能なの?」
亡霊は何も答えない。ただ、嗤うように口角を上げる。
やがて口を開く、
『今、こうして人として話しているだろう?』
「お父さん…」
私は、気づけばその言葉を零していた。
この手を伸ばせば——父を取り戻せる気がした。
『そうだろう?私が——"お父さん"だよ』
「違うっ——お父さんなんかじゃない!」
お姉ちゃんの叫びが、空気を切り裂いた。その声には迷いがなかった。
次の瞬間、お姉ちゃんが手にしていたアイテムを強く握り込む。じわりと空間に作用し始める。
壁が淡く揺らぎ、まるで水面のように波打った。その揺らぎが、徐々に透明に変わっていく——ダンジョンの構造が露わになる。
目の前に広がるのは、ただの石壁ではない。閉ざされた部屋の中で扉が露わになる。——逃げ道が、今、視界に現れた。
姉は透壁スコープを使ったのだ。
お姉ちゃんは私の手を強く引く。
「……開かない!?」
お姉ちゃんの手が扉の取っ手を強く掴む。そして、一気に引く——が、びくともしない。
焦燥が滲む。力任せに扉を押し、引き、捻る。それでも——まるで壁の一部のように、扉は動かない。
「なんで……開いてよ!」
ガチャッ、ガチャッ——。 金属の軋む音が響く。お姉ちゃんは何度も取っ手を揺さぶる。
私は息を詰めながら、その様子を見ていた。 焦りが伝染する。
――なんで開かないの?
『ここはボス部屋だ。本来、このダンジョンはボス部屋の出入りは自由だ。だけど、ほら造作もない…。なんなら、扉ごと消して差し上げようか?それこそ、親子水入らずではないか…』
次の瞬間——目の前の扉は消えていた。代わりに、そこにあるのはただの壁。
そう——絶望の色に染められた、冷たい壁だった。
「なんで……なんで!?」
お姉ちゃんの手が、虚空を掴むように動いた。そこにあるはずの扉はもうない。ただ冷たい壁が、静かに私たちを拒んでいる。
「菜々花だけでも……!」
お姉ちゃんの声が震える。拳を握り、壁を叩く。何度も、何度も——けれど、何も変わらない。
私はじっとその姿を見つめていた。背中越しに、焦燥が伝わってくる。ここから、もう逃げられない。
そっと息を吸い込む。そして、静かに言葉を紡ぐ。
「……もういいよ。」
お姉ちゃんの動きが止まる。肩が、ほんのわずかに揺れる。
「ありがとう、お姉ちゃん。」
その言葉とともに——私は、お姉ちゃんの腕の中へと飛び込んだ。
お姉ちゃんも、強く私を抱きしめる。その腕の震えが伝わる。ぎゅっと力を込められるたびに、ただ涙がこぼれた。
「ごめん……ごめんね……!」
お姉ちゃんの声は、震えていた。私の肩に顔を埋め、何度も何度も謝る。
でも、私はただ、首を振るしかなかった。
胸の奥が締め付けられる。この場から逃げられない静かな空間……絶望の中で、二人の涙の音だけが響く。ゆっくりと、ただ泣いた。何も言えず、何もできず、ただ抱き合いながら——。
そして、時間が止まるような感覚の中で、静かに沈んでいく——。
私のために、何度も壁を殴っていたお姉ちゃんの手は、すっかり冷たくなっていた。その指先を握ると、ひやりとした感触が伝わる。
私はそっと、お姉ちゃんの手を包み込む。冷えた肌を温めるように——ぎゅっと、指を絡めた。
お姉ちゃんは、一瞬驚いたように私を見つめる。でも、何も言わない。
ただ、握り返してくれる。ゆっくりと、確かめるように。
そして、二人の手は少しずつ温かくなっていく——。
バンッ――!
鋭い音が、閉ざされた空間を貫いた。
壁だったはずの場所に――闇を切り裂くように、扉が開かれている。
その先に広がる光は、ただの明かりではなかった。
それは、存在そのものを焼き付ける輝き。すべての光が――ただ、一人の男の姿へと吸い込まれていく。
その中心に立つ者が、まるで世界の均衡を変えたかのようだった。
私たちが一番望んでいたカナタさんの登場だった。
どれほど、この瞬間を願っただろう。何度も、何度も祈った。あかねお姉ちゃんの手の震えを感じるたびに、私の心も軋んだ。絶望しかないこの場所で——その名を、何度呼びたかったか。
閉ざされた壁を前に、ただ涙を零した。希望を手放しかけた時間。そのすべてを塗り替えるように——カナタさんは、そこにいた。
扉は開いた。光は闇を裂いた。そして、あの人が——ただ、私たちを見つめている。
だから、私たちは、もう震えてはいない。
彼のセリフが私たちには一番に響いた。
こんな登場のシーンで恰好いいセリフを言わないわけがない。
一番頼りになる男のセリフ。覇王の言葉。
この場の支配を一気に塗り替える、そんなセリフが吐ける人だ……。
彼が一言口にすれば、絶望を打ち砕く"宣告"だった。
この空間に刻み込まれる言葉。
耳に届いた瞬間、世界の流れが変わる。
重く、鋭く、逃れられない——まるですべてを切り裂く"剣"のような一言。
そして、その剣が、今——振り下ろされる。
「華怜さん。彼女たちの傷を治してくれる?」
そう、彼は私たちの想像の上……遥か上を行くとても優しい人だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
皆さんは、カナタがどんな一言を発するのか想像されましたか?
作中での言葉に対し、いい意味で裏切られたと感じてくだされば幸いです!
さて、カナタが救いの光として登場しましたが、これ以降の戦闘や結末は不要だと判断しました。
読者の皆さんには、この選択が物語の完成度を高め、より鮮烈な印象を残せると信じています。
次回の話は、既にこの事件が解決した以降の話となります。
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