第34話 ミメーシス③
湖の沖から戻ると、浜辺に立つ美佐江さんの姿が目に入った。
彼女はゆっくりと歩み寄り、俺と華怜さんを見つめながら、
「旦那の地図…風景画の中の宝の場所が変更しなくちゃいけないね。だって本当の宝物は、あなたたち二人が過ごしたこの湖の時間だったんだから」
そう言うと彼女は、俺たちがいた沖の方へと目を向けた。
「ええ、ですが、俺たちが過ごした場所…他人の宝より、美佐江さんにとっては、いつも隣にあるんですから、宝の場所は描く必要ないんじゃないですか?」
俺は彼女の言葉にそう返した。
「「さっ、さすが閣下」」
こんな時だけ、夫婦揃っていた。
ドンッ! 突然、沖の方から轟音が響き渡った。
静かな湖面が衝撃に揺らぎ、波が大きく弾け飛ぶ。水しぶきが勢いよく舞い上がり、反射した水面の光が一瞬、砕けるように散った。
俺は反射的に息を呑み、華怜さんと目を合わせる。
「今の音……なんだ?」
湖の奥から、静寂を切り裂くようなざわめきが広がっていく。
そして——湖が吠えた。巨大な波がうねりながら隆起し、暗闇の中で鋭い水の壁を作り出す。
激しく押し寄せる波は、湖面に浮かぶ船を次々に巻き込み、まるで深遠の闇へと誘うかのように呑み込んでいった。
船の上では悲鳴が交錯していた。
「うわぁぁ!」 「助けて!」 泣き叫ぶ声が夜の静寂を引き裂く。船にしがみつく者、必死に手を伸ばす者——それぞれの表情には恐怖が刻まれていた。
風が荒々しく吹き抜け、水しぶきが光を散らす。波の轟音がすべての音をかき消し、湖は静寂から混沌へと一瞬にして姿を変えた。
渦の中心に、船が一隻浮かんでいた。激しく荒れ狂う湖の中、その船の周囲だけは不気味なほど静かだった。
波はそこだけ避けるように収まり、まるで見えない力に守られているかのようだった。
そして、その船の上に男が立っていた。
——トラブルを起こしていたあのスーツ姿の男だ。
「がははっ。すべての冒険者よ。俺の経験値の糧となれ。どうせ生き返るんだ。いくら死んでも構わないだろ?なんなら生き返った後にもう一度死にに戻ってこい。がははっ」
なんだあの男の異様な力は?しかも、経験値の糧になれだ?人を殺したって経験値にならないはずだ。だが、それを目的で事件を起こしてるように思える。
男が周りを見渡す。 その視線がある一点で止まった。 湖畔の混乱の中、目をつけたのは——誰かの姿。
スーツ姿の男の口元が、ゆっくりと歪む。
「おっ?さっき俺に順番がどうたらといちゃもん付けてきた奴じゃねぇか。死ぬ順番は譲ってやるよ」
スーツ姿の男が湖面に何かを浸した瞬間、水が不気味に揺らぎ始めた。小さな波紋が広がる——しかしそれは、ただの風によるものではなかった。
次の瞬間、水面が裂けるように押し広げられ、ぬめりとした大きな影がゆっくりと浮かび上がる。
——モンスターが出現した。
突然の異変に、人々の悲鳴が上がる。
「!?っ」
そのモンスターは、ためらうことなく人を襲った。爪が閃き、水しぶきとともに人々が逃げ惑う。
湖に浸した風景画が見せるのは、ただの幻影だった…。
それがあの男が浸したのものは?なんだ?
おそらく、モンスターだ。
ただ、それは幻ではない。実際に人を傷つけている。
つまり——
実体化したモンスターだ。
俺はスーツ姿の男をじっと見据えた。
モンスターの出現に混乱する人々の声が響く中、ただ一人、男は余裕の表情を崩さない。
その態度が異様だった。
宝田夫婦の顔は蒼白だった。波にのまれそうになりながら、かろうじて足元を踏みしめる。
「か、カナタ公爵…!」
震える声が湖畔に響いた。
二人の視線は、混乱と恐怖に揺れていた。モンスターの圧倒的な存在感を前に、ただ無力さを痛感するしかなかったのだろう。
男は笑っていた。スーツ姿のまま、まるでこの状況を楽しんでいるかのように。
「た、助けてください、公爵…!」
宝田夫婦は俺…いや、カナタ公爵にすがるように、その名を呼んだ。
彼らの頼る眼差しは切実だった。ここにはただの恐怖ではない—— 「この人ならば何とかしてくれる」、そう信じているのが伝わってくる。
今、この湖畔で唯一希望となる存在——それは、カナタ公爵だった。
俺は静かに湖へと向き直り、そしてゆっくりと右手を掲げた。
その動きは、慌ただしさも力みもなく、ただ流れるように滑らかだった。指先に至るまで洗練され、迷いのない動作——それは場の空気すら変えてしまうほどだった。
途端に、湖面のざわめきがおさまる。
荒れ狂っていた水は、まるで何かに導かれるかのように静まり返り、波は落ち着きを取り戻していく。それまで恐怖と混乱に包まれていた人々も、一瞬その異変に息を呑んだ。
人々が気付く——そして、スーツ姿の男も。
ざわめきは消え去り、静寂が落ちる。荒れ狂っていた湖も、混乱していた群衆も、ただ沈黙の中で息をひそめる。
その静けさの中心に、俺が立っていた。
まるで、世界の流れが一瞬止まったかのようだった。鳥たちですら鳴くのを忘れ、風に乗る羽音だけが微かに響く。
スーツ姿の男も動きを止め、俺へとゆっくりと視線を向けた。
俺の存在だけが、この場を支配していた。
「この麗しき湖に、今の喧噪はいかにも不似合いだ」
俺は視線をゆっくりと巡らせる
怯える者、驚く者、息を呑む者——すべての目が俺を捉えていた。
「ここは、穏やかな時の流れにこそふさわしい」
「……は?」
言葉が詰まるのがわかる。最初は余裕を持っていたはずの男の顔に、僅かな歪みが走る。
「お、お前……何なんだ?」
動揺を隠そうとするかのように、男は唇を噛む。だが、その指先が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
俺はただ静かに湖畔を見つめる。だが、確かにこの場の空気は変わっていた。
この男も、それを感じていることが、俺にははっきりと伝わった。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
「ここは、風が囁き、鳥がさえずり語らう静寂の調べが響く場所だ。」
一拍置き、目を細める。
「ガラガラ蛇の迷い出るところではない」
その瞬間、場の空気が凍りつく。
「ふっ……ふざけるな。」
男は息を詰まらせる。
「おっ、お前が……出る幕じゃない!」
喉から絞り出すような声だった。
震えを隠すように声を荒げるが、吐き出される言葉には力がない。
「お、俺こそが……この場を支配する力を持つものの……はずだ……!」
彼は大きな声を出した——いや、出そうとした。 しかし、その声には不思議な重みが欠けていた。
言葉に込めるべき威厳が、どこか空回りしている。まるで、己の立場を必死に証明しようとしているかのようだった。
俺は、黙ってその様子を見ていた。
それは、もはや宣言ではなく——
ただの叫びだった。
男の動きが乱れる。
「くっ……!」
焦りを隠しきれないまま、男は荒々しく手を伸ばし、水の中へ突っ込む。
水面が突如として輝き出す。
最初は一点に集まるかのような光だった。だが、次の瞬間——
ドグォンッ……!
爆発的な光が水中で弾けた。
金色の閃光が四方へと駆け抜け、水面がまるで生き物のように波打ち始める。湖の深淵から吹き上がる光の柱——それは、ただの光ではなかった。
グォォォォォ……!
次の瞬間、轟音が天地を揺らし、水面が裂けるように荒れ狂う。
巨大な影が、光の中心から浮かび上がる。
水の奔流を押しのけるように、異形の姿がゆっくりと姿を現す。煌めく鱗、鋭い双眸——それは紛れもなく、ドラゴンの威容だった。
水飛沫が霧のように舞い上がり、湖畔全体に邪悪な空気が満ちていく。
誰もが、その光景に息を呑んでいた。
「は……はは……!」
焦燥と興奮が入り混じった笑いが漏れる。
「見たか……!俺が、俺が呼び出してやったんだ……!」
男は濡れたスーツの袖を乱暴に払うと、ぐっと前へ踏み出す。水飛沫が舞い散る中、その顔には確かな勝ち誇った色が浮かんでいた。
「これが……俺の力だ!この場を支配するのは……この俺だ!!」
声はどこか上ずり、微かに震えを帯びていた。
男が見上げた先——そこにあるのは、闇の光をまとった巨躯の影。
湖の波に押し上げられるように、ドラゴンが姿を現す。
その瞬間、風が逆巻き、圧倒的な威圧感が場を覆った。
俺は、ゆったりとした動作で口元に手を当てた。
次の瞬間——
音が消えた。
周囲のざわめきも、風の唸りも、湖のさざ波さえも。
それだけではない——
禍々しい光すら消えた。
そして、目の前のドラゴンだけが、跡形もなく消し飛ぶ。
すべての者たち、この異様さ驚く。
音も、光も、何一つない——そんな演出さえないのに、巨大のドラゴンが消し飛んでいく過程を目の当たりにしているのだから……。
「所詮、蛇の子が生み出したものは、蛇の子しか産まぬな」
俺の言葉は、湖畔に静かに響いた。だが、その静寂が、かえって場の緊張を極限まで高めていく。
「巨大なドラゴンさえ、カナタ公爵にとっては……蛇の子扱い……。」
「たはは……。」
宝田さんたちは腰を抜かし、その場に崩れ落ちながら、わずかに震えた声で呟く。
彼らの驚愕に満ちた表情が、すべてを物語っていた。
俺は湖面に一枚の絵を浸す。その瞬間、波紋が広がる。
ただの静寂が、生命のあふれる静寂へと変わっていく。
波に巻き込まれたもの、怪我を負ったもの、命を落とした人さえ元に戻っていた。
水面に残る波紋は、静かに広がり、やがて消えていく。
湖の深くから湧き上がるかのような静けさが、空気に染み渡る。
生と死の境界が曖昧になるような、不思議な感覚が漂っていた。
人々はただ、その奇跡がもたらす余韻に飲まれながら、息を潜めていた。
誰も声を発することはなかった。
……その場にいた者たちは、ただそれを見ていた。
風が静かに湖を撫で、鳥はそれに乗る。
風のささやきと、小鳥のさえずりだけが——
目の前の奇跡について、ひっそりと語っていたのかもしれない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
前話では、あえて後書きを書きませんでした。
あの二人の中に割って入ることが、たとえ後書きでもできませんでした。
読者「お前、それこそ評価をもらうチャンスだっただろう?」
作者「えっ?……(絶句)」
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