第33話 ミメーシス②

「風景画として地図を描く男に、観光パンフレットを描く女。まさにこれ以上ないほどの夫婦でしたね」


「そうですね。きっとプロポーズされても迷いはなかったんでしょうね」


「では、あの夫婦に生まれてくる子供の描く風景画は、設計図ですかね」


 華怜さんと目が合った途端、堪えきれずに二人とも笑ってしまった。


 穏やかな湖の上、俺たちはひとつの小舟に乗っていた。向かい合う形で座り、水面は鏡のようになめらかで、漕ぐたびにゆっくりと波紋が広がる。遠くに見える霧は淡く、まるで異世界へ足を踏み入れたようだった。

 湖の沖へ進むほど、周囲の景色は静けさを増していった。


 人々がそれぞれの小舟に乗り、さまざまな風景を楽しんでいる。

 その近くを通れば、彼らの見ている景色が見える。そんな偶然が、この旅の魅力だった。


「色んな人の景色を楽しむことができるんですね」


 俺が幻影を見ながら呟く。


「ええ。でも……、カナタさんと二人で見る景色が楽しいですから、それだけで十分です」


 華怜さんは、小舟の縁に手を添えて、俺を見据えた。

 それから視線を落とし、じっと湖を見つめていた。その横顔はどこか幻想的で、今この瞬間を心に刻み込もうとしているようにも見える。


「ここまで来ると、まるで別の世界みたいですね」


 俺には、華怜さんのこの言葉一つで、さっきまでの雰囲気の色がらりと変わった。

 彼女の言葉の方が、俺の世界をより鮮やかに塗り替える。


「さっそく試してみましょう」


 彼女はそう言って、一枚の写真を取り出し、湖面へと手を伸ばして水面に浸した。


 その途端、景色は一変した。

 そこは、華怜さんと二人で講習を受けたあの豪華な部屋だった。


「二人の思い出の場所にしては、味気ないかもしれませんね」


 きっと華怜さんが湖面に浸した写真が、この景色を生み出したのだろう。


「十分サプライズになってます。見てください。あの時計。きっと今でも時刻が遅れていますよ」


 俺の言葉に静かにうなずくと、次の写真を華怜さんが浸す。


 今度は、花畑が一面に広がった広場だった。

 5階層ボス扉の前の広場だ。


「カナタさんと一緒に思い出せる思い出は そう多くないですね」


 華怜さんは、静かに湖面を見つめた。その目には、どこか遠くを見つめるような光が宿っている。そして次の瞬間、彼女はゆっくりと視線を動かし、俺の目をじっと見つめた。


「湖面と同じ澄んだ色をしてますね」


「ええ、華怜さんを見つめていましたから」


 華怜さんは頬を染め、湖面を視線を落としたまま動かない。

 指先がわずかに揺れていて、彼女が言葉を探していることを静かに伝えていた。

 しかし、この無言の時間は不思議なほど心地よかった。


「写真……。写真だけでなく、風景画でも、この光景を再び呼び起こすことができるんですね」


 周りの景色を見ながら、俺がそう口にした。

 華怜さんの答えを待たずに、


「きっと、あの風景画を描いてる時も既にこんな気持ちになれる素敵な時間なんでしょうね。だから、船にも乗らずわざわざあのほとりで描いてるんでしょう」


「写真……。写真なしの風景を、一緒に見てみたいです」


 華怜さんが言葉を紡ぐと、そっと湖面に手を伸ばした瞬間、それはまるで魔法のように湖へと溶け込んだ。澄んだ水面が揺らぎ、その波紋が広がるたびに、まるで別の空間へと踏み込んでいくような感覚がした。

 霧が淡く漂い、光が水の上を優しく跳ねる。湖は鏡のようになり、空と水、現実と幻想の境界が曖昧になっていく。


 闇の帳がゆっくりと降り、目の前に広がったのは、果てしなく続く夜の空。湖は鏡のようになり、月の光を映しながら、穏やかに揺れている。

 天に浮かぶ満月は、どこまでも澄んでいた。その輝きは水面へと溶け込み、まるで水と光が一体となっているようだった。

 星々が瞬きながら降り注ぐ。湖面に映るそれらは、波とともにゆらぎ、まるで銀の粒が踊るように散っていく。

 華怜さんは静かにその景色を眺め、そっと息を吐いた。

「……綺麗ですね。この風景は、カナタさんと二人だけの景色です……」

 彼女の声は夜風にのって、どこか遠くへと流れていく。

 俺はしばらく何も言えず、ただこの世界を目に焼き付けた。

 湖の上に浮かぶ小舟は静かに漂い、まるで星の海の中をゆっくりと航海しているようだった。


 俺は目の前の景色を見つめながらも、華怜さんへと視線を戻していた。


 この幻想的な世界の中で、彼女はただただ美しかった。

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