4-4


 向かう先は笹山家ではなく、三日前に行ったばかりの野瀬病院の隣、つまり悠里の家だった。たった三日前に訪れた場所なのに、辿り着くまでにやたらと時間がかかってしまった。脳内の地図が、上手く働かない。

 チャイムを押すと、玄関から出てきたのは悠里ではなかった。

「何の用かな?」

 悠里の父親が、玄関前の屋根の下で俺を見下ろした。

「あの……、悠里に会いたくて」

「HAIならHAIらしく、状況を俯瞰してみてはいかがだろうか」

 冷笑を浮かべた口元から飛び出した単語に、どきりとした。「笹山愁」と悠里の父親が俺を見下ろした。

「君の素性については、興信所を使って調べさせてもらったよ」

「興信所……」

「人間は人間なりに知恵を使って、HAIの情報を集めるくらい容易いという事だよ」

 手に持った傘にパタパタと雨水が跳ねる。俺がHAIであるという事を悠里が知った経緯を示され、喉の奥で燻ぶっていた何かがすとんと解消された気がした。

 秘密は想像よりもずっと大きく、脳内のシステムに負担をかけていたのだ。悠里の声がこだまする。

「過ち、ですよね……」

 残された声を追いかけるようにつぶやくと、悠里の父親は馬鹿馬鹿しそうに笑った。

「何を今更。HAIは人間にとって忌み嫌われている存在だ。だから君達は正体を隠して、ヒューマン地区に住み着いているんだろう」

「悠里がHAIを嫌っているのも、あなたによる教育のせいですか」

「何を馬鹿なことを。人間による正しい価値観だよ、笹山愁」

 悠里の父親がそう言い放ち、俺を置いて玄関のドアの向こうへと消えようとした時、

「そうじゃない!」

 頭上から声が降ってきて、俺は頭上から傘を避けた。悠里の声だった。二階の開いた窓から、悠里が顔を覗かせている。

「悠里……」

 雨によって濡れた前髪を掻き上げると、悠里の表情が雨空の下で鮮明になった。

「愁君。お父さんの言いなりの私は、頼りなかったですか」

 斜めに持ったままの傘を伝って、水滴が俺の頭に落ち続ける。

「愁君にとっての私は、騙しやすくて馬鹿な人間でしたか」

「違う!」

 否定の叫びはあっけなく空中分解してしまい、俺は喉元を抑えた。声が、上手く出ない。

「私はずっと愁君が好きで、愁君と付き合えたのが嬉しくて、こんなにも助けてもらって、……だからその気持ちを返したかった」

「でも、悠里は……」

 音にならない声が、濡れた足元に沈んでいく。

「HAIを憎んでいるじゃないか……」

 禍々しい色を重ねた一枚の絵。美術館での会話。そうか、と雨の冷たさを頬に受けながら、曖昧だった感情が名前を持って体内にすとんと落ちた。俺は傷ついていたのだ。俺だって人間を得意としなかったくせに、その事実を棚にあげて、人間がHAIをあの絵のように表現した事に傷ついた。そして何よりも、悠里がそれを言語化した事にも。

「私は、HAIを憎んでなんかいない」

 俺の声が聞こえたのか、悠里は先ほどよりも窓から身を乗り出して、俺に言った。「悠里、やめなさい」と同じように顔を上げていた悠里の父親が声で制するが、悠里は気に留める様子もなく言葉を続ける。

「過ちだと言ったのは、愁君がHAIだったという事実に対してじゃない。愁君が愁君自身を隠していた事です」

 大きな雨粒が、悠里と俺の間を隔てるようだった。俺を見下ろしているはずの悠里の表情さえ輪郭を失うようで、俺は目元をこする。

 HAIと人間の共存は認められていない。HAIと人間が平等に存在するなどありえない。だから、言えなかった。

「悠里が好きだから、言えなかった……」

 濡れた前髪が、頬を濡らす。

「これ以上ここにいても無駄だ、笹山愁」

 ドアの前にいた父親が、俺の前に立った。俺はもう一度に二階の窓を見上げて、「悠里」とカウントしきれないほど刻んだ名前を呼ぶ。

「また明日、学校で話そう」

 悠里の表情は見えなかった。悠里の父親に軽く頭を下げた俺は、傘を持ち直して門から離れた。

 雨が降り続いている。すぐ近くを通った自動車が、アスファルトに溜まった雨水を跳ね、制服のズボンを濡らした。グレーがかった視界が寒々しい。色彩を識別するセンサーもおかしくなっているのかもしれない。

 人間と同じように呼吸をする事で体内の機能を循環させているはずなのに、うまく空気を吸い込めない。

 視界がぐらぐらと揺れた。鼻先が冷えていくのに、それに反して頭全体に熱が籠る。脳内に蓄積されたデータが暴れるように蠢き、電子が摩擦し合っていく。おかしいな、と俺は濡れたアスファルトの上に膝をついた。身体もうまく動かない。

 失恋による神経伝達物質の過剰放出にしては様子がおかしい。雨に濡れてしまったせいだろうか。しかし、いくらHAIが水に弱いとはいえ、すぐに身体が軋みをたてる事などありえない。

 俺はこめかみを押さえ、脳に内蔵された通話機能をつついた。

『愁?』

 雄大の声が響き、ほっと息をついた。背中がじんわりと濡れていくのは、いつの間にか俺がアスファルトに仰向けに倒れ込んでいたからだった。灰色の空から降り続ける雨粒を浴びながら、声を絞り出す。

「助けて、雄大」

 モーター音が唸るようにまわっていく。アスファルトの冷たさを背中に感じながら、俺の意識はそこで途切れた。

 ふわり、と誰かに抱きかかえられたような気がしたのは、きっとエラーが引き起こした錯覚だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る