5.再生
5-1
目の前で、口腔内にホースを突っ込まれたHAIが体内洗浄を施されている。HAIは食事をできない特性を持っているのに、世の中にはわざわざヒューマン地区で過ごして食事をするHAIが存在するという事を、〈俺〉は目の前の光景でその事実を認識する。
「愁」
白衣を着た男が〈俺〉を示す固有名詞を呼んだ。
「この器具を洗っておいてくれ」
ここはこの男――名は雄大というらしい――の運営する、HAIをメンテナンスする作業所だった。〈俺〉はここでアシスタントをするHAIだ。
作業台に横たわっていたHAIがのっそりと起き上がる。器具を洗い終えた〈俺〉が着替えを手渡すと、先ほどまで体内の異物を吸引されていたHAIは〈俺〉を見上げた。
「オレを軽蔑しているのか?」
雄大よりも幼さを強調して造られた顔立ちが、わずかに歪んだ。
「ヒューマン地区で暮らす方法でしか金銭を稼げないオレを、馬鹿にしているんだろう?」
「まさか」
〈俺〉は彼にニットを押し付けて、残りの片づけを再開した。
軽蔑や馬鹿にするといった行為は、感情があるからこそ成り立つものだ。起動したばかりの〈俺〉には、そこまでの情緒を持たない。
「愁」
午後六時二十八分。数人のHAIのメンテナンスを終えて、受付にある端末で本日の売上を清算していると、奥から雄大が顔を覗かせた。
「もう帰っていいぞ。お疲れ様」
HAIが起動し続けるには金銭が必要だ。日々の充電、維持や故障に対するメンテナンス、そして劣化したボディ交換。HAIが存在するだけでも金がかかる。雄大は起動したばかりの〈俺〉を雇ってくれた。
「〝先生〟によろしく」
にやりと笑った雄大の言葉をそのままインプットし、〈俺〉は作業所を出た。
このボディと脳内チップをもって起動した時、〈俺〉はHAIセントラルタウン内にある研究施設の一室にいた。
――再起動できただけでも奇跡だよ
白衣を着た雄大の説明によると、十年前、〈俺〉はHAIで流行したウイルスZに感染し、強制的に電源を落としてしまったようだ。当時の技術では成し得なかったウイルス駆除を十年かけてようやく実現し、〈俺〉の再起動に至ったのだという。ただし、脳内チップに保存されていたデータはすべて消去されてしまい、十年前まで存在していた〈俺〉の人格や記憶は失われてしまった。
起動から三十二日。俺は〝先生〟と呼ばれる女と暮らす家に向かって、インプットされた道順で帰路を辿る。先生の住処は、研究施設からほど近い高層ビルにあった。
このビルは他の場所よりも湿度が高く、他にはない生活水が循環している。〈俺〉はエレベーターに乗って十二階まであがり、登録された顔認証システムで先生の家のドアを開けた。
「オカエリナサイ!」
ドアの向こうから、四足歩行のカカオが姿を現した。カカオはペット型ロボットで、HAIより知能は劣っているものの、生活にまつわる補助を行う存在だった。
「ただいま」
インプットした先生の帰宅時の挨拶をそのまま声に出すと、カカオは〈俺〉の足元に擦り寄った。靴を脱いでフローリングの床を歩行するのに少々邪魔だ。
廊下の途中には先生の寝室に繋がるドアがあり、奥には広いリビングがある。午後七時二分。すでに日没を終えた時間、窓に映る空は暗い。リビングにはソファーセットとダイニングテーブルがあり、その奥にはキッチンがある。HAIには必要のないものが揃うこのビルに住んでいるのは、おそらくHAIではない。
「ルスデンが一件、アリマス」
先ほどまで床掃除でもしていたのだろうか、モップを引きずりながらカカオが言う。
「それは先生に言ってくれ」
〈俺〉はソファーに腰をかけた。起動から一か月、ボディの動作に異常は見られない。柔らかなソファーが、働きづめだったボディを包み込むようだ。そろそろ充電が必要なのかもしれない。リビングの端には、カカオと〈俺〉の為の充電スペースが設けられている。
ソファーからは、壁に立てかけられたいくつもの絵画がよく見えた。色を重ねただけの、ヒューマン地区では抽象画に分類されるものだった。
「どの絵がイチバン好きデスカ?」
カカオはソファの足元をてくてくと動き回る。難しい質問だった。HAIは物事に優劣を付けたり差別化する思考をもたない。物事はすべてひとつの線の上に並んでいる。
ふいに、玄関から施錠解除する音が聞こえた。先生が帰ってきたのだ。カカオははしゃぐようにリビングを出ていき、「オカエリナサイ!」と声をあげている。〈俺〉のあらゆるセンサーがざわつき始める。空気中の温度がわずかに上がり、酸素濃度が減っていく。カカオと共に、ジャケットを羽織った先生がリビングに姿を見せた。
「ただいま」
眼鏡をかけた先生は、人間だった。華奢な手のひらがカカオを撫でる。首元で華奢なネックレスが小さく揺れた。
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