4-3


 翌朝、空にはどんよりと厚い雲が覆っていた。青色とグレーの混ざった色。悠里ならどのような色をもって絵にするだろうか。湿度のせいかなんとなく重たい体で登校すると、悠里はすでに教室にいた。風邪が治ったらしい。安堵した俺は、悠里の席まで歩く。

「おはよう」

 無防備だった週末とは違い、黒髪をひとつにまとめた悠里が、静かに俺を見上げた。

「……おはようございます」

 眼鏡のレンズの向こうにある瞳が、いつもよりも冷たく感じた。俺は鞄を持ち直す。

「悠里、まだ具合が悪いのか?」

「いえ」

 わずかに視線を逸らした悠里の声にも、温度が通っていなかった。瞳にも声にも測定できるものなど何もない。だけど、俺の脳内が警告音を小さく鳴らす。「愁君」と悠里が言う。

「昼休みに、話があります」

 悠里の声は、朝の教室の雑音に消えた。

 物事は感情だけでは解決しない。雄大の言葉が何度も脳内を突く。午前中の授業のあいだ、視界に映るものは目の前の黒板ではなく、悠里と過ごした時間だった。海の景色、キャンプファイヤーの炎、そして悠里の描いた世界。

 昼休みになると、空はますます暗くなり、湿度は七パーセント増していた。

 やはり悠里の様子がおかしい。いつもであれば持っているはずの弁当箱も手にしていない。

「悠里、話って何」

 やってきた屋上を吹き抜けた風が、悠里の前髪をさらりと揺らした。

「愁君が、」

 悠里の唇が震え、声のトーンがわずかに揺れた。それは冷たい風のせいではなかった。

「……愁君が、HAIだって、聞きました」

 ドクリ、と持ってもいない心臓が軋みを立てた気がした。俺は分泌された唾液を飲み込む。

「本当ですか?」

 レンズ越しの悠里の視線が、失望とわずかな期待のあいだで俺を探る。こんな時だというのに、俺の脳はうまく機能を果たさず、悠里の瞳の色素濃度を測定する。

「どうして、それを?」

 そう訊ねた途端、悠里の瞳から期待がしぼんでいった。相対的に失望の面積が増えていく。世界を覆う灰色の雲はどんどん分厚くなっていき、悠里の白い頬に影を落とした。

「本当なんですね……」

 悠里は静かに目を伏せた。

 昼休みの校内は様々な音で溢れている。人間達の大好きな十二月のイベントにコンサートでも開くのか、向かいの校舎の音楽室からは吹奏楽部の楽器の音が響いた。HAIには馴染みのない音楽という娯楽。芳郎さんの車で聴いたクラシックが、脳内データの中で旋律を歪めていく。雲の上で雷鳴が小さく唸る。

「愁君は、私を騙していたんですね」

 聞いたこともないような悠里の低い声に、俺は思わず「違う」と答えた。でも、何が違うというのだろう。

 きっかけは悠里の俺への恋愛感情だった。ロボットのように起伏の薄い彼女の感情をサンプリングする事、その目的はとっくに消え、それでも俺の脳内にある悠里に関するフォルダは大量のデータで溢れている。それらは、もはやサンプルとしては役に立たないものばかりだ。

 だけど、それをどうやって証明できるというのだろう。動機は確かに不純だった。

 機能停止してしまったように否定以上の言葉を続けられなくなった俺に嘆息をした悠里は、屋上の扉へと向かった。

「待って!」

 喉の奥が苦しい。ゆっくり振り返った悠里に縋る。

「悠里は、それでも俺を過ちだと言うのか」

 雷の音が、地面を突き刺すように響いた。

「そうです」

 美術館で聞いた時と同じ、冷めた声で悠里は言う。

「過ちです」

 鉄製の扉が重たい音と共に閉まった。遠くで響く金管楽器の音が雷と共鳴していく。美術館に展示された、HAIを描いた絵画は禍々しいものだった。

 でも、と俺は現実を受け入れずに夢を見る。悠里の描いた世界。鮮やかな色のなかには、悠里の感情が込められていた。言葉にできないほどの葛藤も、混沌とした悩みも、内側に燃えるような色は、悠里そのものだった。

 俺を飲み込んだのは、悠里だけだった。

 鼻先に水滴が落ちた。それはますます量を増やし、鼻先だけではなく、前髪や肩元を濡らしていく。

 雨が降る事を予測しながら、俺は屋上から動けないでいた。頬が濡れていく感触に、これが涙だったらいいのに、と思った。こんな時なのに、悠里の泣き顔を思い出す。あの柔らかな頬に触れる事は、二度とない。

 出会いには別れが伴うのだと、悠里に勧められた小説に書いてあった。その通りだ。ヒューマン地区内において、別離のない縁など存在しない。人間には寿命がある。HAIとは異なる存在。

 濡れた髪や肩元を拭いながら、ようやく校舎に入った。階段を降りる足取りがおぼつかない。恋愛小説で描かれた失恋という人間の症状を、HAIである俺がなぞっているなんて皮肉だった。

 教室に戻ると、クラスメイトがタオルを貸してくれた。午後の授業は机に座っているのも苦痛だった。みぞおちの辺りがしくしくと痛む。悠里は俺について口外していないのか、クラスメイト達の様子は変わらなかった。ただ、悠里の後ろ姿だけがスイッチを入れ替えたように緊張感を漂わせていた。

 授業の内容が頭に入らないまま放課後を迎え、気づいた時には悠里は教室にいなかった。

「愁、委員長と喧嘩でもしたのか?」

 タオルを貸してくれた男子が茶化すように笑った。「いや……」と口ごもる俺に「久しぶりにゲーセンに行こうぜ」と誘ってくれたが、俺は曖昧に断り、鞄を持って教室を飛び出した。

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