3-6


 その後、俺達は投げ捨てていたスクールバッグの砂を払い、悠里は乾いた足元に張り付いた砂をハンカチで落とし、靴下と靴を履いた。

 手を繋いで辿ってきた道を戻る。体内時計で確認した時刻は、午前十時をまわっている。

「授業をさぼってしまいましたね……」

 後悔を含んでいない悠里の声に俺は軽く笑い、割れたアスファルトの上をゆっくりと歩く。足を踏み出すたびに身体が軋むような感触を覚え、週末には雄大に診てもらわなければと思い、気が滅入った。

 今のHAIタウンはずいぶんと荒んでいる。ウイルス感染への恐怖心により、疑心暗鬼になってHAI同士がけん制し合う。そして、いきすぎた正義感によって俺が二週間前に目撃したような、他エリアの自動車を攻撃したり、ヒステリックになったりと奇行に走るのだろう。まるで人間のようだ、と俺が重たいため息を吐くと、「愁君?」と遠慮がちに悠里に顔を覗き込まれた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、ごめん……」

 悠里に不安を背負わせたくなくて、俺がわざと明るい声を出した時、

「――ふざけてんじゃねーぞ!」

 どこからか怒号が聞こえ、俺はびくりと肩を震わせ、声の方角を見た。路地裏で数人の男が一人の小柄の男を取り囲んでいた。

「黙っていたら分からねーだろ、ああ!?」

 囲まれた小柄の男が「すみません、すみません」と懇願するようにつぶやき続けているが、お構いなしに体格の大きな男が小柄な男の襟元を掴んでいた。

 俺はただその場に立ち尽くしていた。聴覚がエラーを起こしたのか、エコーがかかったように男達の声が耳の奥で鳴り響く。

「愁君!」

 歪んだ空間を正すような悠里の声が、俺を我に返した。

「早く! 行きましょう!」

 身がすくんで上手く動けない俺の手を引っ張る悠里に連れられて、もつれそうになる足でどうにか走った。背後ではまだ怒号が響いていた。

 過去の記憶と今の光景が混濁して券売機で切符を買う事もままならず、代わりに悠里が俺の分も購入し、どうにか電車に飛び乗った。

 車両内には俺達以外の乗客はいない。人間達が移動に使用する電車は、HAIタウンに向かうモノレールとは違って古びていて、ガタガタと横揺れした。

「大丈夫ですか……?」

 二人席に座った後でも、手が繋がれていた。もしかしたら俺がずっと握っていたからかもしれないが、今は離せそうにない。俺は曖昧にうなずき、「ごめん」とだけつぶやいた。

 世界の隅に追いやられたヒューマン地区の中でも、俺や悠里の住むイーストエリアは中流から上流家庭の住む、比較的治安の悪くない地域だった。しかし、電車で一時間以上揺られてきた海辺の町は、そうではなかったのかもしれない。

 ヒューマン地区のなかでも、HAIへの嫌悪感が特に凄まじいエリアは存在する。俺は二十五年前、そこで奴隷として過ごしていた。数々の罵倒を受け、暴力を浴び、ホットコーヒーを被せられて故障寸前にまで至った事もあった。人間はHAIを攻撃する生き物だと、あらゆる経験をもって知った。

 記憶を整理し、ゆっくりと深呼吸すると、ふと柔らかな温度が片頬に触れた。

「愁君」

 隣に顔を向けると、悠里が優しく微笑んでいた。

「好きです、愁君」

 海辺で聞いたものと同じものなのに、その言葉は先ほどとは別の響き方をした。悠里が泣いていた時には俺が守りたいと思った。でも今は、悠里の体温に包み込まれているみたいだった。

「悠里」

 俺は目を閉じる。記憶にある映像から逃れるように、悠里の手のひらの体温を頬に浸透させていく。

「俺も悠里が好きだ」

 悠里の事をもっと知りたい。俺の言葉は、重みを伴って俺自身をがんじがらめにした。俺は人間ではないから、海に一緒に入ってあげる事もできないし、共に泣く事もできない。それでも好きだ。気持ちが溢れるほどの苦しみが、悠里と過ごす時間に溶けていく。こんな出来事はきっと後にも先にもないだろう。

 俺の里子ビジネスの契約期間は三年だ。歳をとらないHAIは、ヒューマン地区で同じ場所には住み続けられない。俺が笹山家で暮らせるのは学校を卒業するまでの三年間であり、その後の俺は笹山愁ではなくなる。つまり、悠里と共に過ごせなくなる。

 そもそも俺はHAIで、悠里は人間で、未来を共にする事などできるわけがない。恋愛小説のようなハッピーエンドが成り立つのは、人間の命に限りがあるからだ。

 ようやく電車が駅に着き、俺達は固いクッションの椅子から立ち上がった。途中から乗車してきたのか、乗客が増えていた。車内に立ったままの乗客の合間をすり抜けるように下車し、歩いたホームは数時間前とは別世界のようだった。

 改札口にいる駅員に切符を渡し、外に出た時、俺の横を歩いていた悠里が立ち止まった。

「悠里」

 呼んだのは俺ではなかった。駅前のロータリーに停まる一台の車の前にはスーツ姿の男が一人立って俺達を見ていた。俺は手を繋いだまま悠里を見ると、悠里はその男を見つめたまま、小さく唇を震わせた。

「お父さん……」

 その単語を聞いた途端、腹の底が熱く煮えたように熱くなった。悠里を悲しませる存在をどのように抹消できるか、頭の中で思考を組み立てていた時、

「お父さん、私は医者にはなりません」

 悠里の声は、教室で学級委員長として話す時よりも凛と響いた。

「私の未来は、私が決めます」

 しかし、本当は悠里だって怖いのだ。人間は言葉の力によって感情を奮い立たせていく。俺は繋がった手に力を込める。少しでも悠里の震えが止まるように。

 悠里の父親は腕を組んだまま悠里を一瞥した後、やがて視線を俺に向けた。

「どなたかな?」

 悠里の必死な訴えなど最初からなかったように質問を投げかけられ、俺はさらなる苛立ちに震えた。

「悠里と同じクラスの、笹山です」

「笹山……、そうか君が」

 品定めするような視線で俺の全身を眺めた男は、ゆっくりと近付いてきて悠里の手を取った。途端にあっけなく俺の手のひらから悠里が離れてしまった。

「学年一位で調子に乗っているのかもしれないが、学校を抜け出すのは感心しないな」

「あなたには、悠里の言葉が響いているんですか」

 俺は昨夜の芳郎さんを思い出す。満天の星空を見せてくれた。眠れないHAIの事を案じて星座を教えてくれた。おおいぬ座とこいぬ座が親子ではなくたっていいと言ってくれた。HAIと人間で成り立った歪な親子関係ですら温もりが通っているのに、本物の親であるはずの悠里の父親を、俺は理解できない。

 薄く笑った男が言う。

「私は、悠里の父親として悠里を正しく導いている。まだ子供である君には分からないだろうな」

 その言葉と共に、悠里は父親に車に乗せられて行ってしまった。俺はただ立ち尽くすしかできなかった。



 悠里の父親が迎えに来たという事は、学校から保護者に連絡が入っているのだろう。

 俺は学校に戻らずに、笹山家に帰った。契約時に渡された銀色の鍵をドアノブに差し込む。ガチャリ、と鍵が照合する音は、脳内の何かに引っかかるような気がして毎回緊張を伴う。

 ただいま、と普段よりも遠慮がちに言いながらリビングに入ると、真知子さんがクッションを抱えてソファーに座っていた。

「愁君」

 いつものようにおかえりなさい、とは言わず、背もたれに身体を預けたまま真知子さんは俺を見上げた。

「ここでの暮らしに、何か不満があった?」

「そんな事ない……」

 俺は首を横に振り、コートを着たまま真知子さんの隣に座った。真知子さんはクッションを抱えたまま、「愁君」と小さくつぶやいた。

「私はね、子供ができない身体なの」

 リビングの真ん中に置かれているストーブが、小さく唸る。

「芳郎君と結婚した後に分かって……、二人で生きていこうってずっと思って過ごしてきたんだけど、偶然、HAIの子を引き取るサービスがある事を知って。……愁君に会えてよかったと思っているのよ」

「真知子さんは……、」

 言いかけて、俺は言葉を探した。海に入っていないのに、身体中に塩水がこびりついているみたいに思った。

「真知子さんは、HAIを恨んでいないの……?」

 元は人間のものだったはずの世界がHAIのものに置き換わる過程は、人間にとっては酷だっただろう。それこそ、HAIが誕生するよりも前に重なっていた人間同士の戦争よりもずっと惨いものだったかもしれない。人間がHAIを恨むのは当然だった。

 しかし、真知子さんは丸くしていた目をやがて細め、「馬鹿ね」とつぶやき、クッションを離した手でゆっくりと俺を抱きしめた。

「そんな事を気にしていたの?」

 悠里とは全く別の体温にふわりと包まれる。

「人間の寿命は短いわ。私は半世紀近く生きているけれど、それよりも過去の出来事によって今を生きるHAIを恨んだりできないのよ」

 里子ビジネスを利用する人間は物好きなのだと思っていた。様々な事情を抱える人間達の受け皿なのだと。だけど、本当は違ったのかもしれない。HAIにも様々な性格があるように、人間にもそれぞれの価値観があるのだろう。

 大きな窓からは柔らかな冬の日差しが室内を照らしている。明るいリビングが幸せの象徴のように見えた。

「真知子さん……」

 光がぼやける。目の奥が痛むのは、細かい砂を浴びてきたからかもしれない。

「俺、人間の女の子を好きなんだ……」

 父親に連れて帰られたであろう悠里は、光のある空間で過ごせているだろうか。ただひたすらに悠里を思う。悠里の幸せを思う。つないだ手の感触も、唇の柔らかさも、すべてデータベースに記憶されているのに、悠里の葛藤を払いきれない無力さが苦しい。

「そうなのね」

 真知子さんが俺の髪を撫でながら言う。

「愁君は、恋をしたのね」

 その言葉は優しく俺の体内にすとんと落ちた。

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