4.感染
4-1
直接海水に触れたわけではなかったが、潮風は思いのほかボディに負担をかけてしまったらしい。
HAIと人間は別の種類の存在だ。初めから分かっていた事実が、今になって静かに俺を責め立てる。ボディが傷むと分かっているのに、俺は海を望む。雄大に知られたら、今度こそ盛大に呆れられてしまうかもしれない。
海に入れなかった俺を、悠里は不思議に思わなかっただろうか。涙を流せない俺を、髪の毛が伸びない俺を、歳をとる事なくただ機械として劣化していくだけの俺を、いつか悠里は不審に思うかもしれない。
ボディが軋みを立てるような気がしたのは、潮風に当たったせいではない。俺の覚悟の弱さだった。悠里と海に行った翌朝、体内に設置された時計が午前八時十二分を示したの同時に教室のドアを開けると、悠里の姿がなかった。
「委員長はお休みだよ」
クラスメイトである高橋が教えてくれた。以前フォークダンスのジンクスを語り、悠里の誕生日を教えてくれた、リボンの髪留めがチャームポイントの女子だ。
「ていうか、昨日は笹山君も休んでいたよね?」
「なになに、二人して怪しいなー」
机に鞄を置いていると、もう一人の女子も加わってきて、俺は苦笑をこぼす。
「そんなんじゃないよ。ところで、悠里が休みって?」
「さっき担任が言ってた。風邪ひいたんだって」
そうしている内に始業のチャイムが鳴り、俺は席につく。そういえば夏頃に真知子さんが風邪をひいていた。ただの夏風邪よ、と笑った真知子さんは確かに一日もすれば元気になったが、心配した芳郎さんが慣れない手つきで雑炊を作るのを俺も手伝った。
病原体に侵されて辛そうだった真知子さんの様子を思い出し、俺はいてもたってもいられなくなった。
「なあ」
一時間目の授業が終わり、隣の席の男子に訊ねる。
「風邪の時って、何をもらったら嬉しいかな」
「ああ、委員長の話?」
男子更衣室などでもよく喋る茶髪の男子は、悪びれもなく笑った。
「どうして分かるんだ?」
「だって付き合ってるんだろ? そうだなぁ、俺はゼリーとか桃缶とかあったら嬉しいな。ほら、風邪の時って食欲落ちるじゃん?」
同意を求められ、「そうだな」と当たり障りなく答える。
風邪、正式名称の上気道炎とは、鼻症状や喉の痛み、発熱などで倦怠感を伴う疾患だ。知識としては分かるのに、俺はそれを体感できない。これまでであればやり過ごせた人間との違いが、チクチクと喉元に刺さるようだった。
本当は今すぐにでも学校を飛び出して悠里に会いに行きたかった。しかし、昨日心配していた真知子さんを思うと、真面目に学生を演じなければならなかった。あくまで俺はビジネスとしてここにいるのだ。
放課後になると、高橋が俺の席にやってきた。
「笹山君、委員長のお見舞いに行くなら、数学のプリントを持って行ってあげて」
よく目にするキャラクターのクリアファイルを渡される。
「でも俺、悠里の家の場所を知らないけれど……」
「あ、そうか。笹山君ってこの辺の出身じゃないもんね。でも委員長の家はすぐに分かるよ。野瀬病院の隣の大きな家だから」
野瀬病院。俺が脳内でイーストエリアの地図を検索していると、
「笹山君って、この学校に入る前はどこにいたの?」
高橋に訊ねられ、俺は「中心部だよ」と準備していた答えを口にする。人間達の治める中心地でもあるヒューマン地区の中心部には、あらゆる出身者が集まっている。里子として暮らしているHAIは決まってこの回答をしていた。
高橋の話題が深掘りする前に、俺はクリアファイルを受け取って教室を出た。一般的な風邪の症状、ゼリーと、……あと何だっただろうか。
今日話した隣の席の茶髪男子との会話を掘り起こそうとするが、記憶が途切れた。よほど悠里の事で頭がいっぱいになっているらしい。
野瀬病院はすぐに見つかった。白い大きな建物は、人間を診察する場所のはずなのに無機質に佇んでいた。高橋の言う通り、すぐ隣には二階建ての一軒家があり、豪邸と呼ばれるほどではなかったが、笹山家の二倍の大きさはあるように思えた。
一番の懸念は悠里の父親に遭遇する事だった。しかしそれは杞憂だったらしい。
「愁君?」
買ったゼリーが入ったビニル袋を持った俺がチャイムを押すと、玄関から出てきたのはスウェット姿の悠里だった。いつもはまとめられているはずの髪はそのままで、無防備なその姿に罪悪感が沸いたが、クラスメイトに頼まれたプリントもあるからと言い訳を脳に叩きつけ、俺は悠里を見た。
「急に来てごめん。プリントを預かったから」
「よかったらあがって下さい」
俺の言葉を遮るように、悠里は茶色い木製のドアを大きく開けた。促されるまま中へと入り、靴を脱ぐ。ゼリーの入ったビニル袋を渡しながら「家族は?」と訊ねる俺に、「今は仕事でいません」と悠里は答える。彼女の父親は医者で、母親は看護師だそうだ。
二階にあがり、悠里の部屋に入った。
「ごめんなさい」
悠里が目を伏せて言う。
「ずっと寝ていたから、換気があまりできていないかも……。あ、お茶を持ってきますね」
「いらないよ」
思わず強く否定してしまい、眉を潜める悠里に慌てて弁解をした。
「あ、いや……、悠里には休んでいて欲しいんだ」
俺の言葉に納得したのか、悠里はおとなしくベッドに腰かけた。俺は手に持っていた鞄からクリアファイルを取り出し、悠里に手渡す。ファンシーなキャラクターのイラストに悠里は「これは?」と首をかしげた。
「数学の課題のプリント。ファイルには高橋さんが入れてくれたんだ」
「ああ、そうだったんですね」
ピンク色のリボンの似合う高橋の雰囲気が漂うファイルを指で撫でながら、「みなさん優しいですよね」と悠里は笑った。
「体調は、どうなの」
立ったまま俺が訊ねると、悠里は二回咳払いをした後、
「熱はもう下がったんです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「迷惑なわけないだろ」
俺は埃ひとつなさそうなフローリングの上の鞄を置き、悠里に近付いた。
「心配はしたけれどな」
フローリングに膝をつき、悠里に目線の高さを合わせる。眼鏡の縁に気を付けながら手のひらで白い頬に触れると、昨日よりも一度ほど体温が高く感じられた。
「俺のせいだよな……」
「え?」
照明の点いていない悠里の部屋は、窓から差し込む淡い光だけが頼りだった。
「こんな季節に、俺がおまえを連れ出したから」
俺がつぶやくと、悠里はゆっくりと眼鏡を外して枕元に置いた。長い黒髪がさらりと揺れた。
「愁君」
スウェットの襟元から、ネックレスの鎖がちらりと覗く。
「ぎゅっとして下さい」
今までには聞かなかったようなセリフに驚きながらも、俺は悠里の言葉通り彼女をぎゅっと抱きしめる。
「愁君のせいじゃないです」
俺の腕の中で、悠里のくぐもった声が響いた。
「本当に、本当に嬉しかったんです……」
中腰の状態で悠里を抱きしめ続ける姿勢には無理があったようで、俺は悠里と共にベッドにどさりと横になった。俺の背にまわった悠里の手も離れる事なく、二人分の体重を受け止めたベッドが一度だけリバウンドした。
「海が好きなんです。幼い頃に、父に連れて行ってもらった場所でした」
横になっても変わらず俺の胸元に顔をうずめたまま、悠里が言葉を続ける。
「父は父なりに私を思って、昨日だって仕事を抜け出して私を探していたそうです。……私は、我儘なのでしょうか」
背にある悠里の手が、俺のブレザーをぎゅっと握った。俺は悠里の髪を撫でながら「我儘なんかじゃない」と言った。
「悠里の父親にも思いがあるように、悠里自身にも思いがある。悠里の人生だ」
俺の言葉に、悠里はゆっくりと離れて、俺を見上げた。眼鏡のない悠里は普段よりも幼く見えて、また知らない悠里の顔を見た気がした。野瀬悠里を記録しているフォルダはぱんぱんに膨れ上がっているのに。
次々に新しい表情を見せる悠里を好きだと思った。それと同等量の恐怖が沸き上がる。変化は、時間の流れだ。悠里のいる場所の流れに、俺は身を預ける事ができない。
俺は歳をとらないHAIだから。
「ところで、どうして眼鏡を外したんだ?」
懸念事項から思考を逸らすように俺が訊ねると、
「邪魔だったからです」
そう答えた悠里が、布団の上で顔だけ近づけて俺の唇にキスをする。やはり昨日よりも熱くてかさついていた。風邪のせいなのだろうか。頬を撫でていた手のひらで、耳たぶに触れ、首元をなぞっていくと、金属の細い鎖の感触が指先に触れる。悠里の首元のハート型。もっと近づきたくて、キスを繰り返す。
「風邪が、うつっちゃいます……」
自分から仕掛けたくせに頬を赤くする悠里が可愛く思えて、俺は唇をくっつけたまま笑った。
「うつらないよ」
「そんなの、分からないじゃないですか……」
俺はHAIだから、人間を襲うウイルスには冒されない。そっと唇を離して、悠里と見つめ合う。
言ってしまおうか、という考えが脳裏をよぎる。風邪のせいか、それともレンズを介していないせいか、緩やかな海の水面のように揺れる悠里の瞳に身を溶かしたくなった。俺はHAIで、ビジネスの一環でヒューマン地区で暮らしていて、そして学校を卒業した後には笹山家にいられないという事を、明かしてしまおうか。
人間はHAIを攻撃する。それはHAIに植え付けられた一つの価値観だった。しかし、人間の全てがHAIを恨んでいない事を知った。何より俺は人間である悠里を好きなのだ。
悠里、と俺が口を開きかけた時、
「愁君には、お父さんに連れて行ってもらった場所はありましたか?」
悠里の言葉が優しく響き、俺は思考のベクトルを転換する。
「星を観に行ったよ」
「星、ですか……?」
「うん、えっと……」
芳郎さんに連れて行ってもらった丘の名前、助手席からはっきりと看板を見たはずなのに、思い出せず、「あれ……」と脳内のデータベースを漁った。
「愁君?」
「あ、連れて行ってもらった場所の名前を忘れてしまって」
「よくある事ですよ。……星がよく見える場所だったんですか?」
さわさわと悠里の手のひらに髪を撫でられ、俺はうなずく。
「綺麗だった。冬の大三角形がよく見えたよ」
「素敵です」
少し鼻声の悠里の声にほっと息をつきながら、目を閉じた。このまま時間が止まればいいのに、と安っぽいストーリーで出てきそうなフレーズが脳を巡る。いつもよりも高い体温の悠里を抱きしめながら、俺は言った。
「いつか一緒に行こう」
「天体観測ですか?」
「うん。二人で。そして、悠里に絵を描いて欲しい」
人間やHAIの太刀打ちできない星を相手に神話を創り出さずにはいられない人間の必死さを、少し理解できた気がした。世界は自分の思うようには成り立たない。理不尽さややりきれなさを飲み込んで、星々に願いを託す方法で希望を見出してきたのだろう。
目を閉じると、海のさざ波が聞こえてくる気がした。悠里との思い出が、データベース上で泳いでいる。抱きしめた悠里の柔らかさを感じるほど、言いそびれてしまった言葉が空中で行き場を失くしている。
俺がHAIであるという事。当然のように横たわっていたはずの秘密が、今ではこんなにも重たく俺に圧し掛かっている。
十二月の夜の始まりは早い。照明の点いていない室内が暗闇に沈んでいく。俺と悠里がこの世界に残された最後のHAIと人間になればいいのに、と途方もなく思った。
悠里と一緒にいたい。叶わない夢を、俺は見えない星に願う。
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