3-5
潮の香りが鼻先に触れた。波が押し寄せては引いていくたびに、砂の形が変わっていく。
海に行きたい、と腫れの残る頬に触れながら悠里が言った。俺達は始業のチャイムが鳴る前に学校を抜け出して駅に向かい、電車に飛び乗ったのだ。
「綺麗……」
両手で鞄を抱えながら、悠里が言う。俺は足元の砂に気を付けながら、悠里の隣に立った。
「海を見るのは初めてか?」
「いいえ、子供の頃に何度か両親に連れられてきたことがあります。愁君は?」
「俺は初めてだ」
海にやって来るまで電車で一時間以上かかった。俺達の暮らすイーストエリアは海に隣接しておらず、そして俺は海を見るのが初めてだった。HAIにとって錆の原因となる海水は大敵だ。それでも、俺は悠里の願いを叶えたかった。
「悠里」
海と空の境界線が曖昧に揺れている。
「父親にぶたれたのは、成績が原因なのか」
俺が訊ねると、悠里は風によって乱れた前髪を手で押さえ、うつむいた。
「父は……」
震える悠里の声が、波の音に掻き消されそうだった。
「私の父は、私を医者にしようと必死なんです。だから私は常にいい成績をとらないといけないんです」
「今回の悠里の成績だって、学年二位なんだから悪くないよ」
「一位でなければ、父にとっては意味がなかったんです」
人間が相対的に物事を評価しがちである事を知ってはいたが、憤りを感じたのは初めてだった。それと同時に罪悪感が沸き上がる。俺がうっかりしなければ、悠里がこんな目に遭う事はなかった。
「私は、本当は医者になりたくない」
そう言った悠里は、鞄を投げ捨てて砂浜の上を駆け出して行った。
「悠里?」
慌てて悠里を追うが、砂は思いのほか柔らかく、あっという間にスニーカーの中にまで砂が入り込んでしまった。HAIの皮膚は見た目の上では人間の肌と同じだが、人間に毛穴があるのと同じように、HAIにも熱を逃すための小さな気功が存在している。まずいかもな、と思いながらも、俺は走る事を止められない。
「愁君!」
悠里は履いていた黒いローファーと靴下を脱ぎ捨て、プリーツスカートの裾を持って波打ち際まで行ってしまった。波が打つたびに悠里の足元が濡れていく。
「私は、どうすればよかったんですか!」
波の音に負けじと、悠里の声が宙に舞う。
「お父さんに、どうやって言い返せばよかったんですか!」
悠里の眼鏡のレンズが反射して、彼女の表情を読み取れない事がもどかしい。
「悠里」
一歩ずつ足を踏み出すたびに、砂が湿っていく感覚が足に伝わった。潮風を浴びるだけでもずいぶんと身体に負担がかかるのに、海水は駄目だ。唇が塩辛くなり、俺は立ち止まった。
どうして俺は人間じゃないんだろう。波に打たれるまま立ち尽くしている悠里との間に冷たい潮風が吹き抜け、悔しさに打ち震えた。
もしも俺が悠里と同じ人間であれば、海水なんかを怖がらずに、今すぐに悠里を抱きしめられるのに。
「悠里!」
目一杯両腕を広げて見せると、悠里はスカートの裾から手を離し、俺の元へと走ってきた。濡れた裸足に砂が張り付いていても、かまわず俺は飛び込んできた悠里を抱きしめる。
「私は! もっと絵を描いていきたいし、やりたい事だってたくさんある! どうしてそれができないんですか!」
俺の肩元に顔を押し付けた悠里の叫びが、波の音と呼応する。きっといつもよりも早い悠里の脈動が、俺の体内に響き渡る。
悠里は肩を震わせて泣いた。涙が温かく俺のコートを濡らしていく。HAIには備わっていない涙という分泌液。
俺は悠里を両手で抱きしめながら、目の前に広がる景色をただ見つめていた。カラーコードに識別しきれないほどの青の数。学園祭で見た悠里の絵画を思い出した。自然という圧倒的な力を目の前にしては、人間もHAIも太刀打ちできない。悠里の絵も同じだった。俺を惹き込むほどの世界。
「好きだ……」
悠里がいる場所は、狭くて小さな箱の中だった。押し付けられた正しさの中でもがく悠里の傍にいられるのが、ずっと俺であるといいと思った。おおいぬ座とこいぬ座。関係性とは、自らの手で作り出すものだった。悠里の傍にいるために必要なもの。
「好きだ、悠里……」
意味よりも先に音として飛び出た言葉が、俺のすべてだった。
「愁君……」
嗚咽の合間に、悠里が言う。
「私も、愁君が好きです」
悠里の細い声が、柔らかく俺を刺す。きっと俺が人間だったら、悠里と一緒に涙を流していた。それができない事がもどかしく、細かい砂が眼球を刺激してきたことで瞬きを繰り返した俺は、ゆっくりと悠里の眼鏡を外した。いつかに見た、悠里の素顔。そうだ、あれは美術館に行った、雨の日の出来事だ。
野瀬悠里は俺を好きだと言う。しかし、HAIの存在を過ちだと言う。
その矛盾を打ち消すように、俺は悠里の耳に触れてキスをした。柔らかな悠里の唇は、潮の味がした。
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