3-4
その日の夜、いつもよりも早い時間に芳郎さんが仕事から帰宅した。
「愁、ちょっと付き合ってくれないか」
真知子さんの料理を手伝う気分にもなれなくて、ベッドの上で項垂れていた俺を芳郎さんは連れ出した。午後八時。ガレージにある車に乗るように促され、助手席に座る。人間の乗る自動車にはハンドルやアクセルが備わっており、人間の手によって運転される。助手席の隣にある運転席に座った芳郎さんはキーを回してエンジンをかけ、車を発車させた。
住宅街から二車線の通りに出ると、数台の車とすれ違った。夜空の下で外灯やヘッドライトが眩しく光る。夜になるとライトを必要としなければ生活もままならない人間は、とても不便だ。
備え付けられているラジオからは、しっとりとしたピアノの音色が響いてきた。音楽という娯楽。エンジン音と混ざったただの旋律が、悲しみや怒りを運んでくるようだった。それらは計算された音階や和音の羅列にすぎないのに。
すれ違う車がなくなり、外灯が少なくなっても、芳郎さんは黙ったままハンドルを握っていた。どこに連れていかれるのか分からないまま十分ほどが経っただろうか、小道に入った車のヘッドライトが〈星の見える丘〉と書かれた看板を照らした。
「星……?」
俺がつぶやくと、駐車スペースに車を停めてエンジンを切った芳朗さんが満足そうに笑った。
「そう。愁に見せたくてね」
リュックを背負った芳郎さんと一緒に車を降りる。ダウンコートを羽織り、ニット帽やマフラーといった完全防寒姿の芳郎さんについて歩いていくと、ひび割れたアスファルトの地面が芝生に変わる。外灯は所々にしかなく、柔らかくなった地面の感触を靴伝いに踏みしめていくうちに、暗闇が増していった。
「この辺りでいいかな」
芳郎さんはそうつぶやいて、小さなレジャーシートを広げた。大人二人が座れば埋まるほどの大きさのシートの上に座った芳郎さんに「愁もここに座って」と言われ、俺も遠慮がちに隣に腰かけた。
笹山家で過ごしている時間のなかで、真知子さんとは違って芳郎さんと二人きりになる事はほとんどなかった。人気もなくこんなに暗い場所で何を話したらいいのかも分からずに、ただ膝を抱えて座っている俺をよそに、芳郎さんは大胆にも芝生の上に寝転がった。
「愁」
仰向けで宙を見つめたまま、芳郎さんが言う。
「HAIは眠る必要もないんだろう。夜には何を考えているんだい?」
「何も」
そう答えた俺も、芳郎さんの横で仰向けになった。とたんに暗闇の中に数々の光が瞬いた。この場所の名の通り、外灯の遠い丘の上では、町では見えない星空が広がっている。
HAIは人間と違って睡眠を必要としない。充電という形でエネルギーを蓄えるためにスリープ状態になる事はあるが、完全に意識を失う事はない。二十四時間稼働しているHAIタウンとは違い、夜になると寝静まるヒューマン地区での夜にはもう慣れた。与えられたベッドに寝転がって目を閉じる。蓄積されたデータを整理する。だから、窓の外にある夜空に目を向ける事を思いつかなかった。外灯がないだけでこんなにも星が見える事も、知らなかった。
「HAIも大変だね」
芳郎さんは不思議な事を言う。俺にとっては、睡眠しなければ生きていけない人間の方が大変で非効率的に感じているというのに。
「どうしようもなく持て余した時には夜空を見てみるといい。見てごらん、今日はオリオン座が綺麗だ」
「オリオン座?」
名称だけは知っていた。星と星を線で結んだ形も。しかし、数々の星が瞬く夜空は、図鑑や教科書の通りではない。ミクロ単位でのズレが、俺に混乱を起こす。すると、芳郎さんはまっすぐに腕を伸ばし、指をさした。
「縦に並んでいる三ツ星を見つけられるかい?」
あまりにも星が眩しくて、俺は視力を落とす。すると、星の明るさが明確に分別され、人間の見えている星の形をなぞる事ができた。オリオン座を支えている一等星のベテルギウスが赤く光る。
「さらに東を見れば、おおいぬ座とこいぬ座が見えるよ」
視線を動かしていけば確かにシリウスが白く輝いているが、俺はその壮大な世界に圧倒されたまま、一つの疑問が浮かんだ。
「その二匹って、親子なの?」
「いや、違うと思うよ」
あっさりとした否定の言葉に、喉の奥がつんとした。
「こいぬ座の由来にはいくつかの説があるけれど、親子である事を謳っているわけではなさそうだね」
「そっか……」
宇宙という空間に存在する星の下にいると、俺はひどくちっぽけな存在だった。HAIだろうが人間だろうが、宇宙にとっては些細な事なのだろう。太刀打ちできないような相手を元に、様々な神話を作り出した人間達の神経を疑う。星も生物と同じだ。自ら作り出すエネルギーによって、人間に力を与える。夢を与える。希望を与える。
HAIには逆立ちをしたって敵わない。
「まるで僕達のようだね」
大きく伸びをしながら芳郎さんが起き上がり、もう一度おおいぬ座を指さした。
「本物の親子じゃなくたって、いいじゃないか」
芳郎さんの声には、一つの困難を乗り越えたような意思を感じられた。
里子ビジネスを利用する人間の心理を、俺は本当の意味で理解していない。里子として任務を全うする俺はただ金の為に動いていた。それに比べて、芳郎さんはなぜ法的にグレーゾーンでもあるこのビジネスを利用したのだろうか。
親子。夫婦。恋人。友人。幼馴染。人間は、関係性に名前を付けたがる生き物だ。しかし、そこにこだわっていたのはHAIである俺のほうだったのかもしれない。
「芳郎さん……」
暗がりに浮かぶ星を見上げながら、気づけばぽつりと声が出ていた。
「俺達が本物の親子だったら、何か変わっていたのかな……」
本物の親子ではないらしい二つの星座が、地上を淡く照らす。俺の問いに、芳郎さんはふっと笑ったようだった。
「何も変わらないよ」
静寂に包まれた空間には、あらゆる音が重なっていた。風の音、虫の鳴き声、葉の揺れる気配。
「大切にしたいという気持ちは、どんな関係だって変わらない。だから、僕は真知子と一緒にいるし、愁君と一緒に暮らしているんだ」
手を引っ張られ、起き上がる。目の前には、暗がりの中で微笑む芳郎さんがいた。何と答えるのが正解なのか分からず、俺はうつむいた。芝生の地面は星を映さない。
どんな関係を持っていても、人間の単位は一人だった。だから、人は人の傍にいようとするのだろうか。
暗い地面に、いつかの悠里の絵が重なった。どんな関係だったとしても変わらないというのであれば、これからも悠里の傍にいるのは自分であるといいと思った。悠里の父親でもクラスメイトでもなく、悠里の絵に溶け込んだ俺ならきっと、いちばん近くにいられる。
星に願いを。非現実的な歌詞が、メロディーと共に流れていった。
翌日の午前八時二分、冬休み目前の校内は朝から浮き足立っているようだった。
「愁君」
廊下はあらゆる声が反響していて、そのせいか俺は声をかけられるまで悠里の存在に気付かなかった。一度も目を合わせてもらえなかった昨日と打って変わり、きちんと眼鏡のレンズ越しに俺を見つめるその眼差しに安堵しながら、「おはよう」と俺は言う。
「おはようございます。少し、お話いいですか?」
寒いせいか手のひらをこすり合わせている悠里についていく。始業前の生徒達の声が広く響く階段をのぼりながら、悠里にすすめられて購入した恋愛小説を思い出した。
人間同士の恋愛ストーリーは、既視感のあるありふれたものだった。読者を退屈させない為の緩急のついたストーリーには、男女のすれ違いや心が離れていく様が丁寧に描かれていて、これまでには人間の行動パターンのひとつとしてとらえられていたものが他人事ではなくなってしまった。別れよう、と小説の中で女は言った。なぜ、と男が縋りつくように問い詰めた。みっともない光景だと思っていたものが、突然色を持って俺の脳内に仕舞われてしまった。
悠里の誕生日以降、華奢な首元に飾られていたネックレスは、巻かれたマフラーのせいで見えなかった。それだけで彼女がなぜか遠く思えて、俺は不安に駆られた。別れよう、と言う小説の女のイメージが悠里に置き換わる。
「愁君」
「な、何……」
悠里の手によって屋上の扉が開かれ、地上にいた時よりも冷たい風が引き抜けた。想像を掻き立てられた事で思わず怯む。悠里の隣に立つことも躊躇われて呆然と立っていると、
「ごめんなさい」
悠里が勢いよく頭を下げた。その動作で悠里のスクールバッグがコンクリートに落ちる。キーホルダーひとつ付いていない鞄を手で拾い上げながら、想像が現実になったのではないかと目の奥がつんと痛んだ。想い合った恋人の別れは、その後世界にどのような作用を及ぼすんだったか。手に持った悠里の鞄がずしりと重みを帯びる。
「それは、何に対する謝罪なんだ?」
思いのほか声が震えたのは、もちろん寒さのせいではない。悠里は頭を下げたまま、言った。
「愁君に冷たく当たったのは、ただの八つ当たりです。私の勝手な感情で、愁君は何も悪くない」
「……悠里、顔をあげて」
冷えたコンクリートの上を一歩踏み出して、俺は悠里の髪に触れる。小さな肩がびくりと震え、それをなだめるように頭を撫でる。予想とは違った悠里の言葉に安堵と違和感を覚えていると、悠里はゆっくりと顔をあげた。昨日腫れていた右頬は、まだ少し腫れが残っているようだ。
「俺こそごめん」
「どうして愁君が謝るんですか」
試験で人間らしい解答用紙を作るべく手を抜くのを忘れたのは、悠里との関係に浮かれていたからだ。恋をするという事。相手の事で頭がいっぱいになるという現象をまさか体感するとは思わず、気まずさを覚えてゆっくりと息を吐いた。
「その頬、どうしたんだ?」
悠里の問いには答えずに俺が質問を重ねると、悠里ははっと思い出したように右頬を押さえた。昼間よりも影の多い朝の屋上を吹き抜ける風が冷たく、悠里の前髪を揺らす。「悠里」と俺が悠里の右手に左手を重ねると、マフラーに口元をうずめた悠里が大きく息を吐いた。
「父にぶたれました」
温度のない悠里の言葉は、がつんと俺の後頭部を殴ってきた。
娘が父にぶたれる、という意味を俺は理解できずに、ただ身体の中が燃え上がるように熱くなった。視界がチカチカし、呼吸する事もままならない。脳が痺れるような感覚に襲われ、「愁君?」と悠里に声をかけられるまで俺は自分が拳を握っていた事に気付かなかった。
「愁君が、そんな顔をしないでください」
俺を見つめる、レンズの奥にある悠里の瞳が揺れている。たまらなくなり、俺は悠里を抱きしめた。コート越しでは悠里の体温も計れない。
「悠里」
腕の中が少しずつ温度を持つ感覚とは裏腹に、鼻先がつんと冷えた。
「悠里が行きたいところに行こう」
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