3-3
「愁君、疲れていますか?」
昼休みの屋上で、弁当を食べ終わった悠里が俺の顔を覗き込んだ。
「いや……、なんで?」
「なんとなく、です」
丸い弁当箱を花柄のナフキンで器用に包みながら、悠里は微笑んだ。
晴れた空の下でも、十二月の空気はひどく冷たい。教室から持ってきたブランケットを足元にかけている悠里に「寒くないか?」と訊ねると、「大丈夫です」と返ってきた。人間は気温の差に敏感だ。その感覚を共有できない事にもどかしさを覚えながら、俺は悠里の右肩に頭を寄せた。
「愁君は寒くないですか?」
「寒いけど、大丈夫」
本当は寒くなんてない。HAIは冷たさを感じる事はあっても、寒さを感じる事はない。だけど当たり障りのない回答を言葉にして、俺はゆっくりと息を吐いた。
「もしや、試験勉強のしすぎですか?」
「まさか」
本気で心配を見せ始めた悠里を安心させるべく、俺は頭を起こして悠里と向き合った。学園祭前とは違って悠里は俺から目を逸らす事はない。その事実に、毎回安堵する。
「悠里こそ、試験勉強を根詰めすぎているんじゃねーのか?」
十二月に行われる期末試験は五日後に迫っていた。学校に入学した春から二回ほどの試験が行われたが、どちらも悠里は学年一位という成績を修めていた。もちろん悠里自身の能力もあるが、惜しまない努力の成果である事も一緒に過ごす事で簡単に想像できた。
「あんまり、無理しすぎるなよ」
気温は日に日に低くなっていた。ざっと冷たい風が屋上を吹き抜け、俺は乱れた悠里の前髪を整える。人間の毛髪は細胞分裂や増殖によって伸びている。定期的に美容院で髪を整えているのだと悠里は話していたが、ひとつにまとまった悠里の後ろ髪は学園祭の頃より八ミリほど長くなった。
前回HAIタウンに行ってから三日が経っていた。普段は整然としているはずの街中での出来事は、じわじわと俺に衝撃を与えていた。どんなに耳を塞いでも、自動車の破壊音は消えない。
「愁君……?」
柔らかな悠里の頬に触れている俺を、彼女は不思議そうに見つめた。レンズの向こうにある瞳が揺れている。悪い、と俺は自嘲を零した。
「やっぱり寒いかもしれない」
HAIが寒さを感じるはずはない。だけど、膝元にあるブランケットを分けてくれる悠里の温かさによって相対的に胸が寒くなる。
ブランケットの下に、四本の足が並ぶ。共に過ごす時間が増えても、ブランケットの下に潜った手のひらを重ね合わせても、俺と悠里の距離は別の個体だという意味では変わらない。こうしているうちにもミクロ単位で変化を積み重ねている悠里とは違い、俺は髪を伸ばす事もなければ歳を重ねる事もない。
「悠里」
手のひらに伝わる体温を汲み取りながら、俺は言う。
「試験が終わったらどこかに行こうよ。悠里の行きたいところ」
「はい」
ふわりと笑う悠里を見て、寒さが止んだ気がした。
しかし、俺は大きな過ちを犯してしまった。
無事に試験が終わり、順位が発表された翌日、悠里は左頬を腫らして登校してきたのだ。
「悠里? どうしたんだ?」
悠里が教室に入った途端、ざわめくクラスメイト達を差し置いて駆け寄った俺を、悠里は一瞥しただけで無言のまま席についた。昨日の昼休みまではいつものように屋上で過ごしていたのに、突然の突き放され方に唖然としていると、
「愁。委員長の気持ちも分かってやれよ」
席の近い男子が、俺の肩を叩いた。
「どういう事だよ?」
「だーかーら、おまえが委員長の成績を抜かしたんだろー?」
彼の一言によって、俺はようやくその意味を理解した。
そもそも多くのHAIは蓄積されたデータによってヒューマン地区での試験など簡単に解いてしまう。俺もその一人であり、だからこそ入学以降の試験では意図的に手を抜いていたはずだった。なのに、悠里との関係性に浮かれていた俺は、それを失念し、学年一位の成績を修めてしまったのだ。
「別に俺は、抜かすつもりなんかじゃ……」
「愁がそのつもりでも、委員長はどう思っているんだろうなぁ……」
含むような言い方に、混乱が起こった。一つの事実が複数の意味を持つらしい。俺の成績が学年一位だった事実には、悠里にとっては言葉通り以外の意味があったのだろうか。
「ほら、委員長の家って厳しいからさ」
「厳しいって?」
意味を計りかねていると、近くにいた佐藤も話に加わってきた。
「野瀬さんのお父さんってこの辺りで有名な町医者だからさ。野瀬さんは跡継ぎとして期待をされているんだ」
悠里と幼馴染だという佐藤の言葉に、またしても喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。悠里の傍にいるのは俺であるはずなのに、俺は悠里について何も知らないのだと示されているようで。
その日は一日じゅう落ち着かなかった。避けられているのか休憩時間になると悠里の姿は教室内から消え、昼休みもいつものように弁当箱を持って屋上に出たが、悠里の姿は見当たらなかった。
「やあ、笹山」
昼休みの終わる八分二十六秒前、中身の詰まったままの弁当箱を抱えて階段を降りていると、途中で担任である教師に出会った。
「今回の試験、よく頑張っていたな」
担任は見た事のないくらいの笑顔で、俺の肩を叩く。
「これからも頑張れよ。期待しているぞ」
そう言って過ぎ去っていく担任教師の背中を眺めながら、期待、と俺は口の中でつぶやいた。悠里が背負っているもの。自分の価値。
HAIは命という灯を抱えていないからこそ、存在意義を見出しながら過ごしている。そうでないとただの機械に成り下がっている恐れがあるからだ。
昼休みの終わり際、一時的な解放感が少しずつ収束していく。チャイムが鳴るのと同時に俺は席につく。結局、放課後まで前方に座る悠里が声をかけてくる事はなかった。
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