2-6
ちょっと待て、と雄大からツッコミが入った。人間の絶妙な会話のリズム感と同じだったので、俺は思わず苦笑を漏らした。
『笑っている場合かよ。誰が誰に何を言ったって?』
「俺が、人間に、もっと知りたいと言った」
『当初と話がずいぶんと違うようだが?』
喉元で笑いを堪えようとしている雄大の声が耳障りで、俺は耳たぶを触って通話のボリュームを少しだけ落とした。
――もっと悠里の事を知りたい
学園祭の最後に行われたダンス中に紡いだ言葉は、今でも炎の光にゆらゆら揺れている。それは、野瀬の描いた青色の中に浮かんだ暖色のようだった。
俺は自室にあるベッドに寄り掛かった。カーテンの閉められた窓の向こうでは夜が深くなっていく。学園祭から帰宅後、HAIの体内に設置された通話機能を通じて、俺は雄大に今日の挨拶がてら声をかけたのだ。
『それで、集めていた情報についてはどうするんだよ』
「……それについてはちょっと保留」
脳内のデータベースにあるフォルダに、俺はそっと鍵をかける。野瀬悠里について記したそれらは、ずいぶんと重たくなってしまった。
――これを過ちと呼ばずして何だと言うのでしょうか
鍵をかけたフォルダの隙間から野瀬の声が響いた。一週間前の美術館で見た彼女の横顔は真剣そのもので、HAIを心から厭っているようだった。他の人間達と同じように。
彼女は、俺がHAIである事を知らない。
「愁くーん! 野瀬さんって子からお電話よー!」
階下から真知子さんの声が響き、俺は軽く雄大に断った後、通話を切って廊下に出た。一階の廊下にある電話機はキャビネットの上に置かれていて、電力を伝わせるコードで繋がれている。人間の使う道具はひどく不自由だ。真知子さんに礼を言って、線で繋がれた受話器を手に取った。
「もしもし?」
『もしもし、野瀬です』
律義に名乗る野瀬に対して思わず頬が緩んでしまった。初めて聴く電話越しの野瀬の声は、いつもよりも幼く聞こえた。人間の使用する電話回線にはそのような機能はないはずなのに。
『夜にごめんなさい。先ほど言えなかった事があったんです』
物理的に近くにいる時よりも、電話を通じた時の方が野瀬の感情に近付けるように思うのは、気のせいだろうか。
『笹山君、今日は私の絵を見に来てくれてありがとうございました』
表情も姿も見えないのに、野瀬が背筋を伸ばしてそう言っているのだろうと想像した俺は「どういたしまして」と答える。
「俺は絵についてあまり詳しく分からないけれど……、でも、すごくよかったよ」
感極まると蓄積された語彙など意味を成さなくなる。脳がショートを起こしそうになるのをどうにか堪えながら受話器を握っていると、
『ありがとうございます』
野瀬が言葉を続ける。
『それと昨日、展示の準備を手伝ってくれた事も』
「悠里」
俺が彼女の名前を呼ぶと、それまで一定速度で話していた野瀬の声が止まった。もしかしたらまた耳を赤くしているのかもしれない。想像するだけで、早く野瀬に会いたくなる。
「明日の代休、何か予定あるか?」
『……いいえ』
「出かけようよ」
翌日の月曜日は、学園祭のあった週末の代休として学校は休みだった。昨夜の電話での約束通り、俺は待ち合わせ場所に向かう。選んだデニムパンツはHAIセントラルタウンで買ったものだが、ジャケットとシルバーネックレスは笹山家に引き取られてからヒューマン地区で手に入れたものを身に付けた。十一月も半ばになれば空気は冷たくなり、人間達の着る衣服が分厚くなってくる。野瀬も例外ではなく、白いコートを羽織り、首元にはチェック柄のマフラーを巻いていた。
「こんにちは」
イーストエリア中心部にあるファッションビル前の広場は、平日だからかいつもよりも若者が少なかった。柱の前で立っている俺に気付いた野瀬の姿を見つけただけでも、ひとつの満足を覚える。
「よう。昨日の疲れは出ていないか?」
俺が訊ねると、野瀬は「大丈夫です」と表情を変えずに答えた。
待ち合わせ時間は午後にしてもらった。少しでも飲食の機会を減らす為だった。
「じゃあ、行こうか」
俺の声を合図に、俺と野瀬はファッションビルの七階に入っている書店に向かった。入口近くにあるエレベーターは年季が入っており、ガタガタと揺れた。
――どこに行きたい?
昨夜の電話で訊ねた時、野瀬はしばらく黙った後、おずおずと答えた。
――本屋に行きたいです
電子音と共に開いたエレベーターの扉を出ると、真新しい紙の匂いが充満していた。様々な情報をデータで管理しているHAIとは違い、人間は書籍という形で情報を得ている。その非効率な方法に呆れさえ覚えていたが、学校で見るものとは違う足取りで売場に向かう野瀬の後ろ姿を見て、物理的に手に取れるものも悪くないと思う。
「どんな本が欲しいんだ?」
野瀬の足は、文芸書コーナーで止まった。平積みされているのは、少し前に話題になったシリーズ物のミステリー小説だった。
「笹山君は、本を読んだりしますか?」
「俺はあまり読まないな。悠里はよく本を読むのか?」
野瀬はこくりとうなずくと、平積みされたミステリー小説ではなく、本棚から一冊手に取った。分かりやすいタイトルの恋愛小説が、野瀬の回答だ。無意識のうちに野瀬悠里のフォルダにデータが溜まっていく。
「父が、」
両手で抱えた本を見下ろしながら、野瀬はぽつりとつぶやいた。
「こういう本を読むのを許さないんです」
野瀬の手にある文庫本の表紙は色鮮やかに描かれていた。遠目に見える男女が寄り添って微笑み合っている。見た目の上ではHAIと人間のどちらか区別つかないが、その感情の寄せ方をしている姿は人間で間違いない。
「許さないって……、どうして?」
「父は頭の固い人なので、こういったものを非常に嫌うんです」
人間の考える事はよく分からない。俺からすれば、伝統的な文学もトリックや仕掛けを散らかしたミステリー小説も流行りに乗ったエンタメ小説も何ら変わりはない。でも、野瀬の深刻な横顔を見ると問題は複雑そうで、部外者である俺が口出しする事は躊躇われた。
「悠里のおすすめの本を教えてよ」
だからわざと明るい声で話題を変えると、野瀬は顔をあげて俺を見た。
「おすすめ……?」
「悠里の選んだ本、俺も読んでみようかな」
そう言うと、野瀬は視線を彷徨わせながらマフラーで口元を隠した。今日もまとめられた髪によってむき出しの耳元が、また赤くなる。
「じゃあ、これを」
細い人差し指で本棚に並んだ背表紙を探していた野瀬は、やがて一冊の文庫本を取り出した。それは、先に悠里が持っていたものよりもシックな雰囲気の表紙だった。
「これも恋愛小説なのか?」
「はい。でも、男性の方にも読んでもらえやすいものかと」
男女の差に首をかしげつつ、俺はあらすじを読む。すれ違いながらも絆を深めていく男女の恋愛ストーリーだった。
「これも、人間の話だよな?」
俺が問うと、レンズの奥にある目をぱちくりさせた野瀬は、
「当然です」
それ以外の答えなどありえないかのように力強く答えた。人間の好む娯楽にはHAIは登場しない。登場したとしても、悪役など悪い方に描かれる。一週間前に美術館で見た絵画のように。
「じゃあ、会計するか」
俺は野瀬と一緒に会計口に並び、デニムのポケットにある財布を取り出した。レジを打つ店員に代金を言われ、財布から紙幣を探す。人間達は、支払い機能を内蔵しているHAIとは違って、紙幣を使用する。里子になるにあたり、月々に生活できるほどの金額を紙幣で受け取っているものの、俺はそれらには未だに慣れない。手間取りながら会計を終えた時には、俺よりも後ろに並んでいた野瀬が別のレジですでに会計を終えていた。
書店の入っているファッションビル内でショッピングでもするかと提案してみたが、野瀬は首を横に振った。冬服を着たマネキンを横目にエスカレーターで一階まで降り、ビルを出た。ビルの隙間にある秋晴れの空が鮮やかな青色を放っている。
「他に欲しい本はなかったのか? 美術関連の本とかさ」
俺が問うと、隣を歩いていた野瀬は再び首を横に振った。でもその横顔には、ショッピングを断った時とは違う諦めが混じっているようで、俺が言葉を探していると、
「父が、嫌がるので」
文芸書コーナーで聴いたばかりの単語が出てきて、俺は思わず足を止めた。
「俺は、悠里の父親じゃないよ」
横を歩いていた野瀬も立ち止まり、振り返って俺を見る。俺は一歩足を踏み出し、野瀬の手を取った。彼女の中に渦巻くもの。スケッチブックに描かれていた数々の色が、脳をよぎる。それらは、真面目で物静かな野瀬の雰囲気とは違ったものだった。
「悠里の好きなものややりたい事を、俺は否定しない」
秋風によって野瀬の前髪がふわりと揺れた。
「悠里の行きたいところはあるか?」
昨夜と同じ質問を投げかけると、俺の指先が野瀬の手にぎゅっと握られる。
「駅前にあるカフェに、行ってみたいです……」
カフェという場所が何をするところか分かっていながらも、俺は力強くうなずいた。
野瀬が言うには、駅近くにある予備校への通学途中に見つけたカフェを、ずいぶん前から気にしていたらしい。駅前のビル一階に入った店内は、白色を基調としたシンプルさが目立ち、ガラス張りの中にいる客層も大人が多いように見えた。
店内に入り、店員に案内されるまま丸いテーブルの席についた。充満していたカフェインの香りが、データベースの奥底に追いやっていた記憶をかすめた。
「笹山君、もしかしてコーヒーは苦手でしたか?」
コートを脱いで椅子に座った野瀬が、俺の顔を覗き込んだ。はっと我に返った俺は、慌ててかぶりを振った。
「そんな事ないよ」
オーダーを取りに来た店員に、野瀬と同じブレンドコーヒーを注文する。普段は食事をしないHAIにも味覚は備わっているが、そこに好きも嫌いもない。
「それより、ずっと気になっていた店だったんだろ?」
カフェインや焼き菓子の香りはともかく、店内に流れるBGMは耳馴染みがよい。クラスの女子はカフェだのスイーツだのと教室でよく盛り上がっているが、男子生徒達はもっぱらゲームセンター通いでとどまっているので、友人付き合いをするには楽だった。だけど、野瀬を目の前にした今は、こうしてカフェにいるのも悪くないと思えた。消化できない異物については、また雄大に洗浄してもらえばいい。
「今日はごめんなさい……」
オーダーしたブレンドコーヒーがテーブルに置かれても、野瀬はロングスカートを履いた膝の上で両手を握りしめたままうつむいている。
「どうした?」
「昨日の学園祭で、笹山君のご両親にお会いしたんですが、とても優しくて、笹山君を大事に思っているのが伝わりました」
それはビジネスで繋がった関係だからだよ、とはもちろん言えるはずもなく、
「両親も、悠里の事を褒めていたよ。とてもしっかりしているって」
俺がそう言うと、野瀬はますます委縮したようにうつむいた。
「しっかりなんか、していません……」
前髪のせいで、その表情が見えなくて野瀬を遠く感じた。目の前にいるはずなのに。
「私は、父の言いなりなんです……」
奥の方からカトラリーの音が軽やかに響く。
「私が美術部で絵を描いている事も、父は許していないんです」
「どうして悠里のしたい事に、悠里の父親の許可が必要なんだ?」
俺の質問に、野瀬ははっと顔をあげ、眉尻をさげた。思いもつかなかったような質問に困っているように見えた。
「それは……、私が父の庇護下にいるからです」
なるほど、と俺は思う。人間の子供は自活する能力を持っておらず、親の力によって生かされている。だから家族という単位で家に住まい、子供は学校に通う事で力をつけ、やがて親の元を去って自立していくのだ。
里子として暮らす俺と野瀬の立場は全く違う。
「でも、俺は……」
同じ立場にもなれないのに、野瀬の苦悩を分かち合いたいと思ってしまった。
「俺は、悠里の絵が好きだよ」
学園祭から一晩経った今でも、目を閉じれば瞼の向こうに描かれる。鮮やかな青色の中には、胸を突くような色が混ざっていた。野瀬の描いた青春の世界に、俺も混ざり込みたかった。
それこそが、野瀬の訴えだったのかもしれない。脳内のフォルダに記録されている彼女の絵を、何度も何度もめくっていく。いつかは理解できるようになるのだろうか。彼女のすべてを。
泣きそうな顔でゆっくりとうなずいた野瀬は、テーブルに置かれたコーヒーカップを手に取った。湯気の量は先ほどの半分にも満たなくなっている。俺も合わせてカップを手に取り、口に含んだ。苦みが体内部品の一つである管を伝っていった。
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