2-5
『もうすぐフォークダンスが始まります。一年生のみなさんは運動場に集合してください』
秋の夜の始まりは早い。空がグラデーションを描くように暗くなってきた頃、校内のアナウンスが鳴った。
運動場の中央では炎が灯されている。これまで分散されていた生徒達が、炎に引き寄せられるようにわらわらと集まっていく。砂糖に飛びつく数々の蟻のようだ。人間文化の発達には火を欠かせなかったというのだから、それも本能のひとつなのかもしれない。
じゃりじゃりと砂が鳴る。俺は瞬きを繰り返す。HAIは他のHAIの手によって眼球を洗浄するが、人間は涙という分泌液によって異物から眼球を守っているらしい。多くの人間達が集まった場所では、一個人の足音を見つけるのは難しい。「笹山君」と呼ばれた時、俺は不覚にも肩をびくりと震わせてしまった。深呼吸をして振り返ると、そこにはいつもと同じセーラー服姿の野瀬がいた。
タイミングよくメロディーが流れ出し、反射的に俺は野瀬の手をとる。二日ぶりの感触だった。
「笹山君」
四拍子のフレーズを七回過ぎた頃、正確にステップを刻みながら野瀬がつぶやいた。
「今日も美術部に来てくれたんですね」
「ああ、鈴木先輩に聞いたのか?」
「はい」
周囲でも男女ペアが同じように踊っていて、中央で炎が焚かれている分、人口密度が練習の時よりも高かった。繋がっていた左手が離れ、俺は遠ざかろうとするその小さな手のひらを追いかける。ターンと共にペア替えが行われるステップで、俺はもう一度野瀬の手を取った。
「……笹山君?」
くるっと回転した拍子で、ひとつにまとめられた野瀬の黒髪がふわりと揺れた。レンズの奥で、野瀬の瞳が大きく見開かれる。
メロディーは続いていた。からからとした笑い声が鼓膜に触れ、それが周囲で踊る男女のものである事に気付く。俺は野瀬の手を握ったまま、体育で習った通りに右足を踏み出した。メロディーが始まった時よりも空の色が十三ルクスほど暗くなり、対照的に炎の光を眩しく感じた。俺は野瀬を見下ろした。
「行くなよ」
野瀬の白い頬の上で、炎の影がゆらゆら踊る。繋いだ手のひらがじんわりと温かくなる。体温という熱の伝導。
「なぁ、知っているか?」
リズムに合わせて、俺は野瀬の腕を引いた。視覚を司る眼球のピントが合わなくなったのか、すぐ近くにいる野瀬の表情がぼやけて見えた。
「フォークダンスの本番中に、最後までペア替えしなかった男女がどうなるか」
「そんな非科学的な話を、誰が信じるんですか」
眼鏡のレンズ下にある瞼を伏せた野瀬が小さく笑ったのが見えた時、数週間にも渡って組み立てられなかったパズルのピースを、ようやく当てはめられた気がした。
運動場の端に設置されているスピーカーからは変わらずメロディーが流れている。ダンス終了まであと七十八秒、俺は繋いでいた右手を解き、その手で野瀬の肩に触れた。途端に彼女との距離がぐっと縮まった。
「笹山君……?」
野瀬が顔をあげた。決められた振付とは違う動作に驚いたのだろう。華奢な肩の感触が手のひらに伝わる。人間が人間を抱きしめるという行為の意味を、初めて知った気がした。
俺は瞬きをするのも忘れて、先ほどよりも近付いた野瀬を見つめていた。いつかみたいに彼女の耳元が赤いのは、焚かれた炎のせいではないのかもしれない。
「あのさ、」
この二日間の出来事がフォルダ内を巡り、ぽつりとつぶやいた。
美術部の展示の準備、廊下の静けさ、野瀬の描いた絵の世界。他にも、雄大の訪問や模擬店の雰囲気など思い返せることはあるはずなのに、何度も押し寄せてくる光景は野瀬に関わるものばかりだった。
「委員長って、美術部の先輩には名前で呼ばれているんだな」
他にも、クラスメイトの佐藤は、野瀬を「委員長」ではなく「野瀬さん」と呼んでいた。人間は呼び方ひとつで相手との距離感を計る。目に見えないものを敢えて具現化する人間が恐ろしかった。野瀬の隣に相応しいのは、俺よりも佐藤や美術部の先輩だと言われているようで。
野瀬の告白は、あくまでもクラスの均衡を保つ為だという建前があった。なら、この学園祭が終わってしまえば、野瀬が俺を好きだという事実も消えてなくなってしまうのだろうか。
俺の言葉の意味を考えあぐねている様子の野瀬に、顔を近づける。
「悠里」
肩に置いた右手をそのまま耳元へと辿らせ、その柔らかさを指先の触覚に滲ませた。
「……って、俺も呼んでもいいか?」
訊ねると、野瀬の瞳が少しずつ水分を含んでいくのが見えた。周囲では変わらずステップが刻まれ、砂埃が舞っている。人間の防御反応。分かっていて、それを拭いたくて、でも彼女の眼鏡が邪魔で、実行する事ができない。野瀬は何も答えない。沈黙の怖さから逃れるように、俺は瞳を閉じる。その奥には、彼女の描いた青春が広がっていた。鮮やかさや不透明さを織り交ぜたそれは、波打つ感情だった。
そうか、と思う。そういうことだったんだ。野瀬が頭から離れない理由。固執していたのは、俺のほうだった。
「俺、もっと悠里の事を知りたい」
顔を寄せると、俺の額に野瀬の長めの前髪が触れた。
炎がパチパチと鳴っている。光の当たる片頬ばかりが乾燥して熱を持つ。いつの間にかメロディーは止んでいた。
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