第9話





 どれくらい時間がたったのかわからないが、漫画のページを捲る音が聞こえなくなったことに気づく。



 どうしているだろうと、背後に目を向ける。

 口をまん丸に開け幸せそうに眠ることりさんが目に入ってきて、笑みがこぼれてしまう。


 ブランケットをかけてから席を立ち、店を出た。

 外の空気が吸いたかった。






 どうやら私も寝てしまっていたらしい、と白みだした空を見て気づいた。


 少し曇った空、雲の輪郭を黄色がかったオレンジの光が彩っている。

 水に溶ける絵の具のように綺麗な空模様を見て、自然と口からため息が漏れていた。





 苦手だと思っていた人がとてもいい人であった。

 その事実に心を動かされることはなかった。

 はじめからわかりきっていたことだから。



 ことりさんはいつだって明るく、ポジティブな影響を周囲に与えていた。

 能天気そうだなんだと誤魔化したところでその印象は変わらない。


 自分の心の声に素直に耳を傾ければ、意地を張っていたとしか言いようがない。



 この人と触れ合ってしまえば、たちまち心を開いてしまうことを本能が察知していた。

 無邪気そうに心のなかへと踏み込んでくるその人をきっと誰も拒めない、私自身も。



 そんな誰にでも愛されることりさんのことが、ただ羨ましかっただけ。


 私が溶かせない夜をことりさんなら溶かせるような気がしたから。

 だから嫉妬した、そして嫌った。




 彼の目に見る、絶望、寂寞せきばく、苦痛、焦燥。

 そんなものすべて私がほどきたい、心をひらいてほしい。

 強くそう願った。




 でもできなかった、建前がなかったから。

 なにも行動にうつせなかった、手立てがなかったから。



 色々と理由は付けられるが、結局のところ向き合わなかったのだ、彼とも自分自身とも。




 そんな私と違って、ことりさんはいとも簡単に私の心を開いてみせた。

 私もそんなふうに彼に寄り添えるだろうか、いやない。


 そういつもの私なら否定していただろう、でも今は否定することが躊躇われた。



 ことりさんのようになれなくとも、私のやり方で少しずつ彼と向き合おう、たとえそれがどんなに怖くても。



 苦手だと思いたかった彼女は、自分が思っていたよりも強かで優しかった。

 心の底から凄いと感じた、そんな彼女を見習って、私も自分と向き合おう。



 本気でそう思えた私は、少しだけ強くなれた気がした。







「おはよぉ、ねぇ見て見て朝食が百円だって」



 席に戻るといつの間にか起きていたことりさんが、昨晩とはうってかわって、いつもと変わらない柔らかい笑みを浮かべてはしゃいでいた。



「おはようございます、そんなに大きな声を出すとまた隣の人に怒られますよ」



「たしかに、気をつけるね、…で、朝食どうする?」



「わざわざここで食べなくても別のところで食べればよくないですか?」



「なんて魅力的なお誘い、でも私はこの見るからに質素な朝食になぜか心を奪われてるの」



「失礼ですよそれ、まぁことりさんがそれでいいなら私も同じのでいいですけど」



「朝陽ちゃん好き」



「はいはい、じゃあ注文しちゃいますね」



「おねがい、私コーヒー淹れてくるね。 朝はコーヒー派なの」



「無視無視」



「心の声漏れちゃってますよぉ」



「ついでにオレンジジュースも入れてきてくださいよ」



「おっけー任せて」



「冗談ですよ、ツッコんでくれなきゃ嫌な子みたいじゃないですか」



「ん? 全然そんなことないよ?」



「やりにくいなぁもう」



 二人で飲み物を取りに行き戻ってくると、すでに朝食が用意されていたので色々と話しながら平らげる。


 ドリンクバーから持ってきたソフトクリームは、ことりさんの言う通りあまりおいしくなかった。






 軽く身支度を整えてそろそろお店を出ようかというタイミング。



「朝陽ちゃーん、先にカウンターまで行ってるね」



「すみませんすぐ追いつきます」



「はーい、お会計はお姉さんに任せなさい」



「それはさすがに悪いですよ、ほんとにすぐ追いつくんで待っててください」



「すごく楽しい時間を過ごせたお礼だと思って、いいから任せなさいな…………ありゃ?」



「どうかしましたか?」



「車の中にお財布わすれちゃったみたい、…と、とってくる」



「わざわざ車まで戻らなくても大丈夫ですよ、私が払いますから」



「じゃあじゃあ後でぜったい返すから、ごめんね」



「これでも感謝してるんですから、私に払わせてください」



「ほんとにごめんねぇ」



「ふふ」



 締まらない人だなと笑ってしまう。

 完璧すぎると近寄り難い印象を与えるだろうが、適度に抜けたところがある彼女に親近感を覚える。

 究極的にデザインされているとさえ言えた。



「もしかして狙ってやってます?」



「なになに?」



 そう言って首をかしげることりさんを見て、敵わないなと思い、また笑ってしまう。


 ほんとうに素敵な人だと思った。











「それじゃあ学校がんばってね」



「ことりさんもお気をつけて、それと……ありがとうございました」



「うん、またね」



 学校近くのコンビニまで送ってもらい、車が見えなくなるまで頭を下げて見送った。







 順調に授業を消化して迎えた昼休み、いつものように私を蔑む言葉が聞こえてきて声のした方へ視線を移す。

 目が合っていることも気にせず侮蔑の言葉を並べ立てる。



 よくもまぁ毎日毎日、飽きもせずに千万無量とも思えるほどの悪口を吐き続けられるものだと半ば感心にも似た感情を抱く。


 ただそれと同時に、なぜ自分だけがこんなにも理不尽な仕打ちを受けなければならないのかと赫怒する。



 激動ともいえるここ数日で私のキャパシティは限界をとうに超えていた。













 中学生の頃の私を一言で表すとガリ勉であった。


 母親が喜んでくれるからという理由だけで勉強に励み、成績を落とすと母が悲しそうにするという理由で勉強だけを生活の中心に置いていた。



 もちろんおしゃれや、友だちと遊びに行くことに興味がないわけ無かったが、そんなものにうつつを抜かす暇があれば勉強した。

 悲しむ母を見たくなかった。





 転機が訪れたのは高校受験の合格発表の日。

 不安で胸をいっぱいにさせながら開いたウェブページに映っていたのは、私の不合格を明示する内容だった。



 幼少から母親に目指すべきだと勧められていた、府内でも有数の私立進学校の受験に失敗した。


 そのとき母親は落伍者のレッテルを私に貼ったのだろう。


 情けない、恥ずかしい、そんな言葉と共に、より厳しく、より苛烈に勉強だけを求めた。


 次に見据える大学受験を目指して。



 勉強だけを拠り所としていた私の心にはヒビが入っていて、両親の温もりをもって修復してほしかった。


 勉強だけの生活の果てに高校受験を失敗したという事実に最も心を痛めたのは母親ではない、私のはずなのだ。

 そう言いたかったが言えなかった。

 母親との関係をこれ以上悪化させたくなかったから。


 母親との軋轢は、日を追うごとに修復のしようがないほどの歪みとなっていた。




 日に日に磨耗する心のなかには二人の自分がいて、大学受験のためにもう一度勉強を頑張りたいと思う自分と、高校でこそ今までしてこなかった遊びで充実した生活を送りたいと思う自分が。




 折衷案として、高校に入ったら勉強を頑張りつつ、息抜きでおしゃれをしてバイトもして、適度に遊ぶこともしようと自分を納得させた。


 あの環境に折れなかった自分を褒めてあげたいくらい、であった自負がある。





 心を擦り減らす毎日を送りながらも泉高校の受験を突破して一応の体裁は保てた。




 憂鬱な日々にある唯一の光は、高校生活への希望ただそれだけだった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る