第7話
「二日間ありがとう、おじゃましました」
「またね」
彼の部屋から出ると朝の空気が気持ちよくて、およそ月曜日だとは思えないほど心中は穏やかだった。
今日の私はなんだか全てうまくいきそうだ、学校生活における些末な問題など今の最強無敵の私にはどうでもいい。
謎の無敵感が滾るなかエレベーターで1階へと降りているときに飴を食べようとカバンを漁る、目当ての飴は見つけたけれど財布が入っていないことに気付いた。
丁度一階についたエレベーターを再び五階へと戻す。
「友夜くんあんまり鍵かけないから、どうせならこそっと戻って驚かせちゃおう」
いひひ、と自分でもわかる悪い笑みを浮かべ計謀を巡らせながら彼の部屋に戻る、案の定カギはかけられていない。
まずはカバンを置いていた寝室に戻り財布を確保すると、忍び足でリビングへ向かいドアに手をかけたところで声がすることに気が付いた。
ややくぐもった声に耳を澄ませる。
「また仕事が終わったら連絡するよ……」
「うん………うん…」
「うるさいな、言わなきゃだめ?……俺も会えるの楽しみだよ……うんじゃあまた夜に」
聞こえてきた会話の内容に頭が真っ白になるのを自覚しながら、気付かれないように玄関を出る。
廊下を歩いていると立ち眩みのような症状に襲われ手摺を掴んだ。
覚束無い足元でエレベーターに乗り込みボタンを押し、なんとかマンションから出てまた立ち竦んでしまう。
「あれ、なにしてたんだっけ。…そうだ学校に行かなきゃ」
言いながらふらふらとした足取りで駅への道をゆく。
最強無敵だったはずの私はすっかりいなくなってしまった。
まるで色を失ったかのように白黒の世界となった車窓からの景色を眺めて言い聞かせる。
彼に他の女性の影があるのは、わかっていたことじゃないか。
わかっていても好きなのだ。
それだけのことである。
少し前までの自分ならこんなに傷つくことも無かったろう、私も彼を利用していただけだから。
私くらいの年齢になると済ませている子も少なくないということは教室で聞こえてくる会話で知っていた。
彼と歓迎会を抜け出した日、とても綺麗な人だと思った。
その後連絡があり会うことが決まった段階で覚悟していた。
そういうことになることを。
正直に言うと興味津々だったし、あの綺麗な顔の男性が初めての相手なら喜ばしいことだとも思った。
こんな私でも、求めてもらえるかもしれないという昂揚感もあった。
だから流れに任せて肌を重ねた。
二回目ですぐだとは思っていなかったけど不快感は無かった、むしろ自分にもこんな機会が回ってきたのだということに興奮さえ覚えた。
一度許してしまえばあとはなし崩しに何度も行為を重ねた、人の温もりに飢えていた私にとっても都合がよかったし、最初のうちはほんとうにただそれだけだった。
いつからだろうか、彼の温もりや優しさを、不思議な魅力のある雰囲気を好ましいと感じてしまうようになったのは。
考えてもわからない、徐々に徐々に氷が溶けるように、私の心を彼の体温で溶かされてしまった。
初めてこれが恋心だと気づいたのは、今まで何も感じなかった、誰かの置いていった化粧水を
それを問い詰める理由も手段も持ち合わせていない私は、帰った後で一人泣いた。
嫌いになれなくとも、二度と会わないと決めるのならあのタイミングしかなかったのだろう。
今はもう彼のいない生活など考えもつかないし、離れられる気がしない。
1日を無碍にしたという意識はあるが気持ちの整理はついた。
とっくに下校時間を迎えて、今は扇の事務所ではあるが、なんとか一区切りつけることはできたはずだ。
「どうしたの?なにかあった?」
「ちょっと学校で落ち込むことがあって、でも大丈夫です、気を遣わせてすみません」
「そんな謝らないでよ。 なにか力になれることがあればいつでも言ってね? 話を聞くくらいならいつでも出来るし」
「…ありがとうございます」
従業員のバックルームとしての側面も持つ事務所内で待機していると瀬戸さんに絡まれた。
馬鹿正直に悩みを打ち明けるはずもないことがこの人にはわからないのだろうか。
そう思うと一層うっとうしくなりスマホをいじるフリをする。
「そうだ、朝陽ちゃんと連絡先の交換してなかったよね? よかったら教えてくれない?」
「すみませんスマホ忘れちゃって」
「へ?」
「だからスマホ忘れちゃったので交換できません」
「でも今持ってるそれ」
「なんのことです? あ、時間ですね」
そういうと事務所を後にする。
朝のことで気が立っていたのだと思う。
折角今までうまくやれていたのに全て無駄にした、自分の手で。
自覚していた。
ただの八つ当たりだ。
だからといって何だというのだ。
ずかずかと踏み入ってほしくない、あなたなんかに私の痛みが分かりやしない。
常に能天気そうな態度を崩さず周囲に愛想を振り撒き、周りで関わる誰からも愛される、そんな人に私のことが分かってたまるか。
陰鬱とした気持ちで胸が苦しい、こんなに嫌な子になりたかったわけじゃない。
惨めさが体中を駆け巡っていた。
パリンという音がして足元を見る。
店長が拘っている綺麗な皿が割れていた。
「大丈夫?」
私が一方的にばら撒く不穏な空気をどことなく察してか、気まずそうにしていた店長が慌てながら問いかける。
「すみません大丈夫です」
そこへテーブル席への提供を終えた久瀬さんがキッチンに戻ってきた。
「ちょっと大丈夫? ケガしてない?」
「はい大丈夫です」
伏し目がちに答えると久瀬さんが捲し立てるように話し出す。
「よかった…そうだ店長、朝陽ちゃんに休憩にあげたいんだけどいいかな? 私の休憩なくしてもいいからお願い」
「いまの時間は少し落ち着いてるし全然大丈夫ですよ」
「ありがとぉ、朝陽ちゃん休憩いっといで」
「ありがとうございます、お言葉に甘えます」
「朝陽さんはいつもがんばってくれてるので気にしなくてもいいですよ、30分くらいで戻ってもらえると助かるかな、休憩の打刻はしなくていいですからね」
「すみません、では休憩頂きます」
「「ごゆっくり」」
ハモる二人に見送られながら事務所に向かった。
あんまりな対応をしたはずなのに、ひどく心配していたな。
わけわかんない。
妙に冷静な頭でそう思った。
少しの時間机に突っ伏していると
「やほ」
そう言って久瀬さんが事務所に顔を見せた。
「店長がね、今日は暇だから私も21時で上がれってさ、お給料減っちゃうのにね」
よよよ、と泣き真似をする。
「そうですか。 …あと、あの言いにくいんですけど馴れ馴れしくするのやめてもらってもいいですか? 申し訳ないんですけど、その…友達といわけでもないので」
「笑っちゃうくらい嫌われてるね私…、そうだ、せっかく同じ時間に退勤するんだから終わったら少しお話しようよ、お姉さんコーヒーとか奢っちゃうよ?」
「結構です、話聞いてますか?」
「振られちゃったかぁ、じゃあコーヒーは諦めるからお話だけにするね」
「いや、せめて諦めるならお話のほうだと思うんですけれど」
「え?わかった。 しょうがないなぁ、じゃあコーヒーだけね」
「私たち同じ言語で話してますよね? こんなに意思の疎通が難しい事ありますか?」
「そういえばほんとにケガしてない?大丈夫?」
「ケガは大丈夫ですので話を聞いて下さい」
「あんまりサボってると怒られちゃうね、いやあの店長って怒るのかな? まぁいいやまた後でね」
そう言ってホールに戻っていく久瀬さんの背中を見送る。
もうなんでもいいや。
面倒くさくなった私は考えることをやめた。
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