26話 神さまになる呪い

 

 深夜。

 僕はまた、昨夜と同じように旧校舎の化学準備室の前まで来ていた。



 昨夜とは比べものにならないほど、校舎は厳重に封鎖されていた。



 昇降口も渡り廊下も、警備員の懐中電灯が規則正しく光を走らせていた。


 ただここ数日の間の僕の侵入口。

 密かに開けておいた窓から息を殺し、闇に紛れながら、僕は隙を縫って忍び込んだ。



 昨夜ぶりに足を踏み入れた化学準備室は、まるで別の場所のようだった。


 ガラスの割れたドアには「立入禁止」の黄色いテープが、室内を斜めに走っている。



 月に照らされた薄暗い部屋。


 そこには、昨夜の戦闘の傷跡が、痛ましいまま残されていた。


 ガラスの破片は床に鋭利な星のように散らばり、棚は半ば崩れた姿で横たわり、空気には、焦げた薬品と埃が混じった匂いが滲んでいる。



 ……ただ、そこには彼女の不在だけが、静かに、確かに、沈殿していた。



 彼女のいなくなった部屋には、もう用はない。

 用があるのはその前だ。



 かつて腐乱臭を放っていた、お供え物が並べられていた場所。

 そこは、今は綺麗に片付けられていた。

 彼女の死と共に、忘却の檻からようやく解き放たれたかのように。




「……あなたは、何も忘れてなんかいなかったんですね。空音先輩」




 僕は静かに膝をつき、持ってきた白百合を供える。

 そして、手を合わせ、心の中で巫水空音の冥福を祈った。



 ——忘却の水を、僕と彼女は拒んだのだ。



 レーテーの川。

 プラトンが語ったように、魂は輪廻のたびにその水を飲み、前世の記憶を忘れて生まれ変わる。

 けれど、それを拒んだ魂は、冥府と現世のあわいをさまよう亡霊になる。



 彼女は、忘れられなかった。


 僕のことを。

 だから、彼女は僕の病室に、毎日来ていた。

 忘れたいのに、どうしても忘れられなかったから。


 そして、きっとルキウス先輩のことも。



「……だからあなたは死ななければならなかった……」



 死ななければならなかった。

 神にならなければならなかった。



 神にしか見えない「不可視の赤い糸」を見つけるために。

 自分の赤い糸が、確かにルキウス先輩へと繋がっていると信じて——。



 未来誘引。


 それは神の生存本能であり、おまじないを成就する手段であり、そして——ルキウス先輩への到達手段だった。


 空音先輩はおまじないを繰り返し、未来の探索を繰り返すことで彼を見つけ出そうとしたのだろう。


 彼女にとって、神になることだけが、もはや人間では触れることのできない彼のもとへ至る唯一の手段だった。



 空気となって忘れられようとしたのもそうだ。

 忘れられた彼のもとへ辿り着こうとして、自らを忘却させたのだろう。


 まるで冥界の存在と結婚するために、冥界の食物を食すように。

 それは、ある種の黄泉戸喫よもつへぐいだった。


 ああ、そうだ。

 神道におけるイザナギ、あるいはオルフェウスの冥界探索。

 あれらはまさしく目的のある自殺だ。


 愛するものを取り戻すために、たった一つの縁をよすがに死に沈む行為。

 それを人は心中と呼び、それは利他的自殺としてたびたび類型される。



「本当に哀れですね……あなたは」




 そうして、彼女のプシュケーは、蝶となって闇を舞った。

 それらすべてが無駄なことだとは知らずに。



 なにせ、彼は忘れられたのではないから。

 彼はこの世界にそもそもいなかったのだから。

 未来にも過去にも、どこにだって観測されることはなくなってしまったのだから。



「また来ます……空音先輩」



 祈りはもう十分にした。

 ここにはもう彼女はいない。

 最後に彼女が好きだったポテトチップスをと緑茶を供えようとする。



 だがその前に、お供え物の中に僕は見覚えのあるものを見つけた気がした。


 それは少し前まで大量のお供え物に埋もれていて、見えなかったもの。

 スマホのライトを当てると、反射する光が眩しく跳ね返ってくる。

 


 「……リンゴ……?」



 三週間ものあいだ、ここに供えられていたのだろうか。

 腐るはずのそれは、今もなお瑞々しさを失わず、そこにあった。



 いや、瑞々しさではない。

 持ち上げたその瞬間、それはずしりと重かった。

 そして、闇の中にあって煌々と光り輝いていた。



「……これは」



 それは、黄金でできたリンゴだった。

 一つの混じり気もない輝きをもって、手のひらの上で存在を主張している。



 見間違えるはずもない。



 ——あの日。

 僕が、ルキウス先輩を殺した日。

 あの少女が、僕に渡したもの。


 僕に彼を殺せとリボルバーと一緒に唆した少女。


 そして、最後に僕を殺した人間。



「……そうか、空音先輩。あなたも生贄だったんですね」



 確証はない。

 だけど、ここに黄金のリンゴが残されていることだけが確かな証拠だった。


 僕たちが利用されたのと同じように、空音先輩もあの少女に利用されたのだろう。

 自分が彼女たちにそうしたように、死ななければならないと唆されて、その後の死までも歪められた。



「やっと納得がいった」



 苛立ちを噛みしめるように、僕の声が低く漏れる。

 黄金のリンゴを強く、強く握る。

 だがそれはびくともせず、冷たい質量で僕を拒んだ。



 空音先輩が和魂と荒魂、二つに分かれた理由。


 和魂がルキウス先輩を覚えていた。

 けれど、死ななければいけない理由を覚えていなかった。


 荒魂がルキウス先輩を覚えていなかった。

 けれど、死ななければいけない理由を覚えていた。


 そして、荒御魂には足がなかった理由も全て。


 僕だけが知る矛盾が、いま一つの輪郭を結んだ。



「なんて皮肉だろう」



 生贄を求めていた空音先輩こそが、最初の生贄だった。


 ルキウス先輩を探すために、死ななければならなかった彼女は、そうして偽物の神に仕立て上げられた。


 誰を探すのかも知らず、揺蕩うクラゲのように生贄を求め、未来を探索し続ける功利主義的なシステムに。



 きっと全てはリフレインだったんだ。


 今井詩織たちが首吊りで自殺した理由も、死ななければいけなかったという最後の言葉でさえも、どこまでも空音先輩の死を、彼女自身の手で再現させるためだけに。


 そして、それを僕に殺させるためだけの。



「やっと掴んだぞ、お前への手がかりを」



 僕は取り出したナイフで左手の手首を、勢いよく切った。

 流れ出す血が空気に触れた瞬間、蒸発し、真紅の炎へと変わっていく。

 その炎が黄金のリンゴを包み上げる。


 そして、どれだけ力を入れても無駄だった黄金のリンゴは、正体を示すかのように焼き尽くされていく。



 ——少女が、ここにいた。



 あの日と同じ金のリンゴ。

 僕を唆した少女。



 探さなければならない。

 あの日の真実を。

 闇のなかで、いまなお呼吸しているその痕跡を。



 償わなければならない。

 僕が殺した、全ての人たちのために。



 生きた痕跡も、初めから存在しなかった。

 「智慧の果実」の瞳を逃れ、今では、僕の夢の中にしか生きていない、ルキウス先輩のために。



 それこそが、僕が生きなければならない、唯一の理由なのだから。



「お前を見つけ出し、必ず殺してやる」



 ——それが僕の贖罪なのだから。


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