終章

エピローグ-1 私なんで死んじゃったんだろう

 


「どうやら、私は死んだらしい」



 何日も、あちこちを彷徨って、ようやく、その事実を受け入れた。




 認めたくなかった。


 でも、思いきり耳元で叫んでも、素っ裸になっても、誰も私に気づかない。


 壁をすり抜けて、晩ごはんにお邪魔しても、誰一人、振り向いてさえくれない。




 そんな状況を目の当りにしたら、認めるしかないよね。




「私なんで死んじゃったんだっけ」




 よく思い出せない。でもひとつだけ、はっきりしている。


 ――死ななくちゃいけなかった。


 その思いだけが、しつこい壁の染みのように心に残っている。




 自殺してまで幽霊になった巫女なんて、笑えない冗談みたいだ。


 こんなことなら真面目に修行しておけばよかった。



 でも、どうしても身が入らなかったんだから、仕方ないよね。


 何をするにしても喪失感ばかりが付きまとって、結局お父様と喧嘩別れして、都会の高校まで出てきてしまった。




 せめてもう少し徳を積んでれば……て、それは仏教的かな。


 仏教だったら今頃、賽の河原で石を積んでいるはずだしね。




 こうして幽霊になったのは曲がりなりにも私が巫女だったからなのだろう。




 ……まあ、やってしまったものは仕方ない。




 なんで自殺なんてしちゃったんだったかな。


 そこまで私、悪い人生を歩んでいたとは思わないんだけど。




 猫かぶりまくったおかげで学校のみんなからは生徒会長として結構信用されてたし。


 勉強も頑張って国立大に合格したし。




 これから華の大学生活だってのに、一時間だって足を踏み入れずに自殺とか我ながらファンキーすぎる。



 しかも、死装束までちゃんと用意して自殺とか、どれだけ念入りに準備してたの、私。



 そんなに、生きたくなかったのかな。





「別にいっか死んだんだし。なんだか、凄いすっきりしてるし」




 いくつか疑問点はあるけど、今さら考えても仕方ない。


 自殺の答えなんか、誰かがくれるわけでもないし。


 自分が覚えてないんだったら真相は闇の中。名探偵だって見つけられっこない。



 それでも、ひとつだけ、気になることがある。




「なんだったんだっけ、これ……」




 脚に巻かれた赤い糸。


 死装束は脱げたのに、この赤い糸だけは解けなかった。


 まるで、私という幽霊そのものを縛る、見えない呪いのように。




 解くことのできない赤い糸。


 それはどこか運命を連想させる。




 どうしてなんだろ。


 こんなものを身に着けて、自殺とか意味わかんない。


 想い人がいたとして、それで報われるわけない。


 それに悲恋とか、そんな殊勝な人間でもないのに。




 そもそも浮遊霊のくせに脚があるなんて変なの。




 でもそのおかげで、あっちこっち歩き回ることができた。


 彷徨いに彷徨って、そして、ようやく視える人に見つかった。




 ここは、少し都会から外れた墓地。


 私の実家にもほど近い場所。


 あたりは見渡すばかり墓標だらけ。


 夜に包まれて、ひっそりと静かだ。




 どうやら、私は今からここで「二度目の火葬」をされるらしい。


 普通に成仏をさせるのってめんどくさいし、私の場合、恨みとかそういうのを持ってないからなおさら手間がかかる。



 神道だと神様として祀ることで、死者を慰めるけど、この人たちは火葬で魂ごと燃やして、あの世に還そうってわけらしい。



 巫女のくせに成仏って、皮肉よね。


 本地垂迹説だと思えば、さもありなんかな。



 色々と儀式でもするのかなと思ったけど、少し人除けの結界を張ったくらいで準備は終わったらしい。



 私の前には五人の人間がいる。


 男性が三人、女性が二人。


 電灯がないから、顔は伺えないけど、みんな私のことが視えてるから、普通の人ではないのだろう。




「さあ、牡丹。君の力を見せてもらうよ」




 大人の男性の声。


 その声で、その内の1人が私の前に歩み寄る。




 少し俯きながら歩いてきた彼が、私の傍まで来て顔を上げる。


 驚いたことにその顔には見覚えがあった。




「あれ……君は確か……牡丹真為くんだったっけ?」




 うん、確かそんな女の子みたいな名前だった気がする。




「覚えてるんですか……?」




 真為君、彼が心底、意外。そんな顔をする。




「うん、そりゃそうだよ。私、一応生徒会長だったし。あと、君の場合はちょっと特別、恋愛相談とかも請け負ってたし。」




 脳裏に浮かぶのは良く慕ってくれていた特徴的な赤毛の後輩だった。


 立羽愛乃。


 生徒会とクラス委員長というちょっと遠い間柄だったけど。


 会うたびに少し話をして、いつしか恋愛相談まで請け負うくらいの仲になっていた。


 いつも真面目な子だったけど、真為くんの話になると、顔を赤らめて乙女の顔になった。


 そんな彼女を揶揄って笑いあった日々。


 そのときだけは、私も素の自分でいられた気がする。




「巫水先輩って、意外と意地悪ですよね」――そんな言葉がふとよみがえる。




 あと、それから私が彼のことを思い出せたのはもう一つの理由がある。




 死ぬ直前の一か月間、どうしてかは分からないけれど、毎日、一日だって欠かさずこの子の病室に行っていた。


 自殺をする前にも最後にお別れを告げに行ったのは彼だった。


 それを今思い出した。



 特に何をするわけでもなく、少しのお見舞い品を持って、まるで死んだように眠るこの子の顔をずっと見続けていた。



 もう二度と起きないんじゃないかって、ずっと不安で、焦燥感ばかりが募っていた。


 明日には起きてくれていますようにって、逃げ出した分際で神さまに祈るほどに。



 確か、白髪で隻腕の少女が、そんな私を気遣ってくれたっけ。




「でも良かった、起きれたんだ。それは成仏する前の吉報かな」




 安堵で、少しだけ笑みが零れる。


 嬉しいことが一つだけ、私の人生に積み重なる。




「……っ」




 けれど、対照的に真為君は表情を硬くさせた。



 今にも泣きだしてしまいそうな、そんな顔。



 ……あれ?私、何か良くないこと言った?



 そう思いかけて、すぐにその理由に思い至った。


 私は今からこの子に成仏させられるのだから当然か。


 漫画みたいな満足して笑顔で成仏なんかじゃない。


 無理やり成仏させられるのだ。


 今世の未練も、記憶も、感情も、すべて燃やして、漂白される。


 それはもう、「処刑」と変わらない。




 そんな幽霊に微笑まれたら、平常心でいられるわけないよね。




「牡丹」



「…はい」




 今度は凛とした女性の声。


 処刑人にしては少し優しすぎる彼を後ろの人間が促す。



 その声を受けて彼は取り出したナイフで、自分の頸動脈を切り裂いた。


 血が、まるで花火のように噴き出す。


 あまりに迷いがなく、痛々しい一瞬に思わず悲鳴が漏れてしまった。




 まさか、私を成仏させるために、古代エジプトみたいに彼まで死んで埋葬されるのかと、そんな想像が脳裏をよぎる。




 でも、ほんの一瞬、ひゅっと冷たい風が吹いて。




「カルマ……迦楼羅炎かるらえん




 彼の血がその言葉と共に蒸発し、炎へと変わっていく。



 真紅の炎。それは彼の体を伝ってそっと私を包み込んだ。



 その炎に包まれながら思う。




 ——死ぬのって苦しいのかな。




 自殺した時の記憶は、あんまりない。


 でも、きっと、すごく苦しかったはず。




 今回もきっと苦しんで死ぬのだろう。


 地獄の窯で煮られるみたいに。




 その覚悟はあった。




「あれ、熱くない?」




 不思議だ。


 炎に巻かれているというのに、熱も痛みも、匂いだって感じない。




 ……どうやら私は運がよかったらしい。




 迦楼羅炎。


 それは確か不動明王の慈悲の炎。


 その名前を冠する彼の炎は何処までも優しく、その優しさがちょっとだけ暖かいと感じる。



 足から順々と、少しずつ私の体が夜に溶けていく。




「このまま死ぬんだね」




 思わずつぶやいた言葉に少し苦笑する。


 幽霊のくせに変なの。


 まあ、でもこうやって記憶と意識を保った幽霊ならそれは生きていることと変わらないのかもしれない。




 だからこのとても優しい炎に感謝しながら、私は少しだけ思い返すことにした。


 私の人生のあれこれを、幼少期から一つずつ。




 最初に思い浮かんだのは、三歳の時、誕生日プレゼントに熊のぬいぐるみをもらったことだった。


 病床にふけるお母様のお見舞いに行ったとき、逆にプレゼントをもらってしまったのだ。


 お母様は私が生まれてから、体調を崩していて、会えるのも月に一度だけ。


 いつも苦しそうで、何かをしてもらったことはあんまりなかった。


 だから、プレゼントをもらったことがあんまりにも嬉しくて、ついついはしゃぎまわって、看護師さんに怒られてしまった。


 そんな私をお父様とお母様がくすくすと笑っていた記憶。




 次に思い出したのはその数か月後に、お母様が亡くなってしまったこと。


 ずっと「お帰りなさい」って言いたかったのに、「ただいま」って言葉が欲しかったのに。


 それを言えたのは、もう何もしゃべらなくなってしまったお母様だった。


 

 それが凄く悲しくて、毎日もらった熊のぬいぐるみに縋るように泣きじゃくった思い出。




 それでも、嬉しいこともあった。


 たとえば、自転車に乗れるようになった日のこと。


 自転車に乗れたことよりも、何より嬉しかったのは、お父様がそんな私をたくさん褒めてくれたことだった。


 ずっと塞ぎ込んでいたお父様が、久しぶりに笑ってくれた。


 私は、その笑顔がとても誇らしかった。


 だから「誰かを笑顔にするような生き方がしたい」と、子どもながらに思ったんだ。




 結局、お父様とは中学以来、顔を合わせることもないまま死んじゃった。


 あーあ、仲直りしとけばよかったな……。





 そんな感じで嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと。


 分け隔てなく、私という人間の清算を行う。


 それは走馬灯とは違う人生の振り返り。


 それが出来るのもこの炎のおかげだ。


 私にたくさんの時間を与えてくれるこの炎はやっぱり死者に優しすぎると思う。




 一つ一つの思い出が、私の人生をそっと飾っていく。


 割合としては、きっと幸せの方が多かった。




 それでも、少しだけ――ほんの少しだけ、喪失感がある。




 十歳くらいからだろうか。


 心のどこかが、ぽっかりと空いているような気がしていた。


 理由は分からない。

 けれど、考えれば考えるほど切なくなってしまう。

 だから、その穴をずっと見ないふりをしてきた。


 今も、なるべく気づかないようにして、清算を進めていく。



 でも、こうして振り返れば、やっぱり私の人生はとても素敵なものだった。



 自殺なんてすごい勿体ないことをしてしまった。




「どうして死んじゃったのかな」




 今さらになって、そんな後悔が胸にあふれてきた。


 気づけば、涙がぽろりとこぼれていた。


 何故か、彼には泣いている姿を見られたくなくて、そっと後ろを振り返る。



 それでも清算はやめない。

 満天の夜空の下、思い出を一つ一つ、噛み締めるように思い返していく。



 中学校。


 高校。


 生徒会。



 嬉しかった思い出ばかりのはずなのに、思い返せば返すほど、どんどんと強まっていく大きな喪失感。

 私の人生に空いたぽっかりとした落とし穴。

 考えないように、陥らないように、慎重に時間を流していく。



 そして迎えた卒業式。


 三年間一緒だった友達に、最後のクラスメイト、お世話になった先生、生徒会の後輩、みんなにたくさんのお別れの言葉をもらった。


 誰もが笑顔で私を送り出してくれた。

 それがとても嬉しかった。


 だって、それは証明だったから。

 私は彼らに幸せな何かをすることが出来たんだって。

 笑顔にする生き方が出来たんだって。


 それが何よりも誇らしかったんだ。



 けれど、やっぱり何かが、どこかが足りなくて……。


 あの時も旧校舎の隅で誰にも見られないようにこんな風に涙を流した。



 そして、最後に流れてきた思い出は、化学準備室で解き目のない縄に首をくくった自分の姿。


 その映像が頭に浮かんだ、その瞬間――。




「ねえ、真為君、私なんで死ななきゃいけなかったのかな?」




 最後に振り返って彼に訊いてみた。


 彼ならそれを答えてくれる、そんな気がしたから。




 このどうしようもない問いに、どんな形でもいい。言葉でも、沈黙でも、涙でも。


 何かひとつでも、それらしい答えがほしかった。




 このまま何も分からず、理由もないまま成仏するなんて、そんなの寂しすぎる。




 私の素晴らしい人生の終止符が、「理由のない自殺」だったなんて、そんなの、絶対に嫌だった。



 理由が欲しい。


 意味が欲しい。


 最後の最後、みんなを裏切ってしまったこの結末に、なにか一つだけでも物語が欲しかった。



 それに、彼なら……きっと、笑ってくれる気がしたから。




『空音先輩、そんなこと言わないでください。空音先輩に助けられた人だってたくさん居るんですから。そういう人たちが——』




 ……頭の中に、彼の声が響いた気がした。


 一度だってまともに話したことなんてなかったはずなのに。


 彼が私をどう呼ぶのか、どんな声をしているのか、それがなぜかぼんやりと、思い描けた。




 だけど――。




「……真為君……?」




 私の想像とは正反対に、彼の顔は、私なんかよりずっと酷いものだった。




 唇を強く噛みしめていて、滲んだ血が顎を伝って、炎に代わっていく。


 何かを必死で堪えていた顔だった。


 その姿はまるで、私が受けるはずだった全ての苦しみを、彼が代わりに引き受けているかのようだった。



 ——既視感。




 その顔は、どこかで見たことがあった。




 何もかも抱えて、それでも「大丈夫」と笑って、誰にも助けを求めず、ひとりで全部をしまいこんでしまう。


 誰も見ていないときにだけ、ふと垣間見せる……そんな男の子の顔だった。



 気づけなかった。


 気づいてあげられなかった。


 そのことが、棘のように心に刺さった。




「死ななければいけない……」




 振り返った私の——多分、目を見て、真為君がそう呟いた。



 そして、瞬きした刹那、何のためらいもなく、彼が自分の頸動脈を再度切り裂いた。



 肉が裂ける、鈍く生々しい音。


 噴き出した血液は、空気に触れるや否や蒸発し、すぐさま真紅の炎へと姿を変える。

 それがあるべき姿であるかのように。



「怖くないの……?」



 思わず、そんな呟きが漏れてしまった。


 血が炎になると分かっていても、すぐに傷が治るのだとしても、痛みはあるはずだ。


 傷の深さによっては一歩間違えたら死んでしまうかもしれない。



『何の関係もないはずの私のために、そんなことしなくたっていいんだよ?』


 そう言ってあげたかった。



 でも彼は痛みすら感じている様子はなかった。


 ただ、瞬きもせず、赤い瞳が私の目をじっと見つめている。


 その瞳に恐怖はない。


 何かを探るように、静かに、深く、私の奥を覗き込んでくる。


 

 

 その目を見て、私はさっきとはちょっとだけ違う感想を抱いた。


 きっと、血が炎に変わるんじゃない。


 ——この炎が、血を流すことを許していないのだ。


 多分、苦しむことも、死ぬことすらも。




 新しく生み出された炎が、彼の手に導かれる。


 さっきよりもずっと優しい熱を持って、ゆっくりと私を包み込む。





「死ななきゃいけない理由なんてない」




 彼が掠れた声で、だけどしっかりとした響きを持って呟く。




「僕のせいなんです。全部僕が悪いんです。僕が……殺したんです……あなたたちを……」




 その呟きが呼び水になったかのように、ぽつり、ぽつり、と彼が語り出す。


 喉を詰まらせながら、断片的に言葉を吐きだしていく。




「生きていたんだ……! 生きていてくれたんだ……! だから……!」




 言っている意味はまるで分からない。


 殺したとか、生きていたとか。


 だって、私は自殺で死んだんだし、死んだのは彼のせいなんかじゃない。




 けれど、自分を傷つけながら、自分が悪いと語る彼の姿は、冗談なんかじゃなくて、真に迫ったその顔があまりにも居た堪れなかった。




 死ぬのは私なのに、消えていく私なんかよりもずっと彼の方が死人のようだった。


 なんだろう、とても皮肉な光景だった。




 どうしてかな、彼のそんな顔は見たくなかった。


 だからなのかもしれない。


 私は、俯く彼の顔を、そっと両手で包み込んだ。




 そして——その頬を、思いっきり横に引っ張った。


 無理やりに、笑顔を作らせるように。




「……空音……先輩……?」




 彼は驚いた瞳で、不細工な笑顔をして、私を見つめた。




「ふふっ」




 少しだけ、声が漏れる。


 やっぱりこっちの顔の方が、ずっといい。




「ありがとう、真為君。最後まで寄り添ってくれて」




 私の目を見る彼の瞳が揺れた。


 信じたいのに、疑っているような――そんな揺れ。




「今度は1人で死なないで済んだってだけで、私は幸せ者だよ」




 本当だよ。


 側に誰かがいてくれることが、こんなにも嬉しいんだから。


 そう、瞳だけで語り掛ける。




「だから、いつまでもそんな辛気臭い顔してたら怒るからね。

 死んだのは私なんだから。最期くらい笑って見届けてよ。」




 お願いだから、馬鹿な私を笑って。


 せめて死ぬ時くらいは笑顔でいてほしいって


 大笑いでもいい、泣き笑いでもいい、苦笑いでもいい。


 どんな形でもいいから君には笑って欲しい。




 だって——。




「君はそんな辛そうな顔よりも、笑顔がとっても似合う好青年でしょ?」




 ……絶対にそんな気がしたんだ。




 私は彼の顔から手を放した。


 その瞬間、彼の表情から感情がすとんと抜け落ちた。


 数度、顔の筋肉がこわばる。笑い方を、思い出そうとしているようだった。




 ——私の願い通り、彼は笑おうとした。




 だけど、そこから発せられた言葉は私の予想を裏切るものだった。




「怒って……くれるんですか……?」




 無理やり引きつった笑顔。


 泣きそうな瞳。


 こわばる肩。




「……また会えて……嬉しい……なんて…………」




 一滴だけ、こらえきれずに溢れた涙。


 けれどそれは、血のように瞬時に蒸発して、真紅の炎へと変わってしまった。


 やっぱりだ。この炎は彼が背負っている何かなんだろう。

 

 そして、それは死ぬことも、痛みに崩れることも、悲しむことも、涙を流すことだって許してはくれない。




「……話せてよかった……なんて言ったら……」




 それでも、その一瞬。


 確かに夜と炎を映していた、淡く、けれどたしかな感情の煌めき。


 それは、どこかで見たことのある姿だった。




「……空音先輩………」




 やっぱり、とても似てる。


 誰に?


 そんなの決まってる。


 ——いつの間にか消えてしまったあいつ。




「……ああ、ほんとうに私……なんで死んじゃったんだろう……」




 だからこそ、零さずにはいられなかった。


 どうしようもなく口をついた未練。




 馬鹿は死ななきゃ治らないって、今になって思い知るなんて。



 今になってようやく思いだせた……なんて。




 ——私たちのやり取りを、どこか羨ましそうに眺めていた君。


 ——いつも、あいつと屁理屈ばかり並べていた君。


 ——金欠で、いつもお腹を空かせていた君。


 ——お弁当を作ると、それはもう子犬みたいに喜んだ君。



 だんだんと、あいつに似てきて。


 だんだんと、悪い後輩になっていって。


 それでも、叱るとどこか嬉しそうに笑っていた。


 まるで、弟みたいだった君。




 苦しむ姿まで、あいつにそっくりだなんて。


 そんなところまで似なくたっていいのに。


 でも、だからこそ全部、思い出せたんだ。




「……真為君……」




 牡丹真為。


 私たちの、大事な後輩。




 どうして喪失感なんて感じていたのかも、ようやく納得がいった。




 あって当たり前だ。




 あいつと過ごした八年間。


 あいつへの私の切ない恋心が。


 君たちと過ごしたあの素晴らしい一年間をまるごと喪っていたんだもの。



 ——死ななくちゃいけない。


 その理由も思い出せた。


 だからこそ思う。




「……なんで……死んじゃったんだろう……」




 この世界にただ1人残された君。


 きっと私と君以外覚えていないあいつ。



 この苦しみを支えあうことが出来たのは、私たちだけだったのに。


 君の苦しみを支えることが出来たのは、私だけなのに。



 どうして私は自分勝手に命を絶ってしまったのだろう。


 残される人間のことを考えもせず、なんで、君を一人にしてしまったのだろう。




 涙も出ない。


 言葉も続かない。


 もう戻ることのできない後悔が私をむしばむ。



 だけど、気づいたときには、私は彼を、抱きしめていた。




「……っ!? ダメだ空音先輩、離れて!」




 彼が私を引きはがそうとするけど、彼から私の体はすり抜けてしまう。



 その代わり、彼が纏った炎が私に渦を巻く。




「……い゛いぃ゛っ……あ゛ああぁ……っっ……」




 熱い。こんな痛み、知らない。


 嗚咽が漏れる。魂の焼ける音が、私の中から響いてくる。



 私にとっては優しい炎でも、彼にとってはそうではなかった。



 炎が私を貫いていく。


 肉体の痛みではない。魂ごと、想いごと、記憶のすべてが――灼かれて、溶けて、空へと還っていくようだった。




 楽しかった思い出も、苦しかった記憶も、あらゆるすべてを昇華させていく。




 なんて……どこまでも自罰的な炎だろうか。




 あの部活の中で彼だけが普通だった。


 そんな彼が幽霊の私を視えるようになった。こんな炎を持つようになった。


 そこに至る過程を、代償を、この炎だけが物語っている。




「……ごめんね、ひとりにして……」




 辛かったはずだ。


 苦しかったはずだ。




 少し背が高くなった彼の肩に顎を乗せ、そっと耳元でささやく。




「……ごめんね、全部を君に背負わせちゃって……」




 違う……違うんです……。


 真為くんが、何かを言いかけた唇を震わせる。




 でも、私はその呟きをかき消すように、言葉を継いだ。




「……愛乃ちゃんと、仲良くするんだよ……あの子、真為くんには……最後の最後で遠慮しちゃうから……ちゃんと、話してあげてね……」



 言葉が、こぼれ落ちる。



「絶対に、一人で抱え込んじゃだめだよ…………ちゃんと、ごはんを食べてね…………バイト、頑張りすぎないで……君は、いつも無茶するから……」



 声が、涙ににじんだ。



「それから……それから……」



 ああ、どうしよう。言葉が足りない。


 伝えたいことは、こんなにもあるのに。



 あいつの言っていた通りだ。


 私たちの言葉は、どうしても足りない。


 言いたいことは山ほどあるのに、言葉だけが追いつかない。




 この子を楽にしてあげられる、たった一つの言葉さえも、見つからない。




 燃え盛る炎が、私という薪を喰らって、さらに勢いを増していく。



 だから、あっという間に、その時が来てしまった。




「……もう時間みたい」




 胸の奥で何かが、音もなくほどけていく。


 絡まりあっていた思念の糸が、静かに、ゆっくりと解けてゆく。


 気が付けば、体はもうほとんど透明だった。



 ——それは幽霊としての、二度目の死だった。



 それでも赤い糸は足に巻き付いたまま解けない。

 

 今だけはまるで私をこの世界に繋ぎとめるかのように。



 私はそっと、彼を抱きしめていた腕の力を緩める。


 手放すのが惜しい。けれど、それ以上に、大切に手放してあげたいと思った。


 ほんのわずかに身体を離し、名残を指先に残しながら、丁寧に距離を取る。




 そして、至近距離で彼の顔を見つめた。


 こんなふうにまっすぐ目を合わせるのは、たぶん、これが最初で、最後。




 目覚めてから一か月も経っていないはずなのに、彼はあの頃の少年ではなかった。




 まだ幼さの残る面影の中に、何年分もの時間が刻まれていた。


 目元の隈。やつれた頬。小さな皺。


 真っ黒だった髪には少しだけ白髪が混じっている。


 喪失が、彼を一瞬で大人にしてしまったのだ。




 そして、私の知らない色をした赤い瞳。


 それは血のように鮮やかな赤ではなく、夕暮れににじむ残光のような、静かで深い紅。


 感情の奥底から滲み出た、苦しみと愛しさの混ざった熱が、瞳の底に揺れていた。




 その瞳が、私を見つめ返す。逃げずに、真っ直ぐに。




「ずっと……伝えたかったんです……」




 彼は制服のポケットから、小さな百合の花を取り出した。


 白く、柔らかく、そして悲しみを宿す、死を悼む花。




 そして——。




「……卒業……おめでとうございます……」




 その一言で、私の中の最後の小さな喪失が、少しずつ埋まっていく。


 言葉が、やっと届いた。あの日のまま凍っていた私の心に、今、花のように咲いた。




「ありがとう…ございます……あなたからたくさんの幸せを頂きました……」




 足りなかったなんて当たり前のことだよね。


 だって私は、君からの言葉をひとつも受け取らないまま、あのとき、夜の闇に消えてしまったんだもの。


 その言葉をずっとずっと楽しみにしていたのに。




「うん……ありがとう……真為君……」




 最後に、とっておきの贈り物を受け取ってしまった。


 百合の花。


 それは、ただの別れを意味する花じゃない。



 旅立つ卒業生に、後輩が手向ける新しい門出を祝う、優しい光のような花。


 もう、これでいい。


 もう、これで……私には、悔いはない。




「ちゃんと……生きてね……私みたいに、自殺しちゃ……ダメだよ……?」




 だから、お返しにほんの小さな呪いをかける。


 今の私にできる精一杯の願い。



 どうか、これから先も、笑っていてくれるように。


 どうか、私の死が、君の命を縛らないように。





「じゃあね、真為君、大好きだよ…!」




 でも、やっぱり。


 最後は、笑顔で終わりたいと思った。


 この私の人生がどんな愚かなものだったとしても、どんなに間違えたものだったとしても。



 せめてこの笑顔が、君の未来を少しでもあたたかく照らしてくれるように。


 君が遺されたこの世界が少しでも優しくありますように。


 それが、私にできる唯一の祈り。




「……空音先輩……!」



 真為君が、私を抱きしめようと手を伸ばす。


 でも、やっぱり私は、彼の腕をすり抜けてしまう。


 触れることも、触れられることも、もう叶わない。



 涙のない慟哭を上げる真為君。


 ……笑顔で見送ってって言ったのに……。


 もう叱ることも、慰めることもできないや。




 彼を映す視界が、涙もないのにぼんやりと滲んでいく。


 私が、ほどけていく。


 世界から、静かに切り離されていく。


 意識が、魂が、音もなく、天へと昇っていく。




 ——そのとき、赤い糸が、そっとほどけた。


 夜風に吹かれて、するすると舞い上がる。


 まるで私を導くかのように。


 遠く、遠く——。




「……私も、あなたのところへ行くから……待っててね、ルキウス……」




 意識が粒となって宙を舞う。


 誰にも聞こえない、小さな断末魔。


 空気となった私の、最期の音だった。

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