25話 運命の赤い糸



 握りつぶすには至らず、骨折の気配もない。


 恐らくは、打撲程度だろう。



 メティスは赤く腫れた右手をしげしげと見つめた。


 痛みに顔をしかめるでもなく、僕を恨めしそうに睨むでもなく――


 まるで、愛する人に結婚指輪をはめてもらったときのように、満ち足りた表情で微笑んでいた。




「素敵なプレゼントをもらっちゃった代わりに、やっぱり教えてあげるわ」




 そう言って、小指に巻きつけた、もはや意味を失った赤い糸を僕に見せつけるように掲げる。




「これ、やっぱりだと思うの」






 ◇◇






「呪々御供についてですが、放置しても問題はないでしょう」




 カリンは、締め切られたカーテンの隙間から差し込む微かな光をじっと見つめながら、静かにそう言った。


 その一言を聞くために、僕は今日もこの病室を訪れたのだった。




「おまじないに関しても同様です。一過性の流行にすぎません。効力を失えば、自然と人々の記憶から消えていくでしょう」




 もともと、それは自殺という陰鬱な話題に対する防衛反応として――あるいは何かにすがりたかった人々によって――広まったものだった。


 だが、そうした動機が消えていけば、いずれは風化する運命にある。




「サードウェーブ効果のように、現実を突きつける必要もありません」




 彼女の声には、確信があった。



 サードウェーブ効果。


 ある教師が、独裁の危険性を伝えるために生徒を扇動した実験。

 最後にヒトラーの写真を投影し、現実を直視させることで幕を閉じたという。


 つまりは、生徒自身の無自覚な願望が、犠牲者を生む構造そのものだったと、残酷なまでに突きつける手法だ。




「あなたが罰を与えたいと思うのなら、話は別ですがね」



「そのつもりはないよ、全ては僕が悪いんだから」



 誰もが無自覚だった。

 明示的に誰かを殺そうとしたわけじゃない。


 自殺に対する重苦しい空気。

 諦めという中間の選択。


 それらも社会的規範に則った結果に過ぎない。


 そういった「善」をシステムに組み込み、加害性を帯びた倫理に変質させたのが呪々御供というシステムだった。


 無意識の排斥だってそうだ。

 自分に余裕がないのなら、何かを捨てなければいけない。

 あれこれと手を伸ばせる人間は限りなく少ない。

 誰だって、一番助けるべきなのは自分であるべきだ。



 だから、この事件に責任の所在を求めるのならば、それは元凶である空音先輩の幽霊なのだろう。


 そして、その元凶である空音先輩を殺したのは僕だ。


 すべての始まりは、僕にある。

 この罪を否定することは、もうできない。



「ただ、知ることは大切なんだろうね」



 人は外部の環境に依存し、意思決定を行う。


 自殺は苦悩の末に生じる選択ではあっても、それは決して個人のものではなかった。

 命はまだ完全に個人のものになりきっていない。


 どこまでも僕たちは社会の生き物であるのだから。


 ホップズが『リヴァイアサン』で語ったように、僕たちの権利はどこまでも国家に保障されたものに過ぎない。


 きっとこれからも生きる権利は義務としての側面を強くし続ける。


 そして、その裏で——反比例するように——自殺は、増え続けていくかもしれない。




「ですが、本当に良かったですか、彼女はあなたの親しい人だったのでしょう?」



 今日、同じ問いを受けるのはこれで二度目だった。

 けれど、今度のそれは少しだけ違う意味を帯びていた。


 カリンは、答えそのものではなく、そこに至るまでの過程を見ている。

 共犯者として、僕の決意の在処を測っているのだろう。


 それならば、僕も真剣に答えざるを得ない。


 少しだけ天井を向いて、あの時、幽霊を前にした時の感情を思い返す。



「許せなかったんだ、生死に意味を名付けようとするのが」



「それはどうして?」



 カリンが問い直してくる。



「だって僕がルキウス先輩を殺したことに意味が加わってしまうだろ」



 あれはただの殺人だ。

 意味なんてない。


 その果てに生み出された今の現状も、混乱も、この世界にも意味なんてない。


 そこに意味なんてあってはいけない。

 意味が生まれることで、僕の罪が誰かの正義に変わってしまう。

 何も知らない誰かに赦されてしまう。



 この世界に必要なのは、ただ因果と理由だけだ。

 神様が授けてくれる奇蹟も福音も、契約もいらない。



「僕の罪を漂白するのは誰であっても許さない」



 僕がルキウス先輩を殺した。

 彼がいない世界で、多くの人が——空音先輩たちが死んだ。

 だから、僕が彼女たちを殺した。



 それだけの三段論法になりたつ簡潔な世界であればいい。

 恐らくはソクラテスが望まないような。



「あなたらしい潔癖ですね、私のシンナ」



 カリンが、薄く笑う。

 その目に浮かんでいたのは、納得にも似た確かな肯定だった。


 けれど、心の中で僕は呟いていた。


 違うよ。

 世界の方がより潔癖だ。


 何にでも意味を求めようとする。

 タンパク質の塊に中身を詰め込もうとする。

 生命がただここにあることにさえも。


 まったく運命なんて碌な言葉じゃない。


 現在から戻れない過去を遡った塑性の言葉。

 あらゆる幸運も、不幸も、選択もたった一つの言葉の形に成形してしまう。


 もしも、僕と同じ境遇の人間がいたとして、その人はこの世界の結末を運命と呼べるのだろうか。


 ——僕は言ってやるものか。



 ◇◇



「しかし、興味深いですね」



「……呪々御供に関してか?」



 カリンの呟きに、僕は静かに問い返す。




「学校という環境です。あそこは、閉ざされた社会です。


 規律、風紀、同調圧力。それらで子供を社会に適応する人材へと成形する装置。


 そうした空間だからこそ、この呪いは根を張り、成熟してしまったのでしょう」




 ……まあ、そういう側面があるのは確かだけれど、カリンの評価は、いささか手厳しい。




 個人的にはそこまで悪いものじゃないと思うのだが。


 特に同年代の人間と共に過ごす時間は学校でしか得られないものでもある。


 それを僕はあの一年でルキウス先輩や空音先輩、愛乃さんから教えてもらった。




「……学校、行ったことあるのか?」




 ふと、そんな疑問が浮かぶ。


 彼女はずっとこの病室にいて、生まれつき体が弱いと聞いていた。




「小学校を二年ほど」




「……」




 それだけの体験で、すべてを断じるのは極端に思えるが。


 あるいは、その短い時間が彼女にとって強烈すぎたのかもしれない。




 トラウマというのは人それぞれだ。


 あまり深く突っ込まない方がいいだろう。




「なんですか、その顔は」




 ムッとした声。


 彼女の態度には、どこか拗ねたような雰囲気も混じっている。



 「まあいいでしょう」


 

 声には出さなかったけれど、多分唇の動きからそう言って、話を続ける。




「ともあれ、これで呪々御供は効力を失い、自然消滅していくはずです。

 これ以降、今井詩織のような生贄としての自殺者が出ることはないでしょう」




「……そうか」




 犠牲者はすでに二人。


 一件落着などと軽々しく言う気にはなれないが、これ以上増えないのなら、それだけでも救いだった。


 少なくとも僕が学校に来てから、あの幽霊が人を殺すことはなかったということなのだから。


 約一名は生き返ったからノーカンだ。




「ほかに質問はありますか?」




 まるで教師のような声音に、思わず苦笑が漏れそうになる。


 今のうちに、溜まった疑問を全てぶつけておくべきだろう。




「……巫水空音が二人いたことについては?」




「あなたが一昨日、看取った巫水空音と……おまじないの中心にいた、もう一人の空音のことですね?」




 カリンは少し考える素振りを見せたあと、静かに口を開いた。




「あえてこじつけるならば、神道における“荒魂”と“和魂”。そう捉えるべきでしょう」




 僕は小さく頷く。


 荒魂――荒々しく、破壊をもたらす神性。


 和魂――穏やかで、平和をもたらす神性。




「付け加えるならば、竜神信仰における人身御供も、荒魂を鎮めるための儀式でした。つまり……あの幽霊は、間違いなく荒魂だったのでしょう」




 カリンの言う通り、おまじないによって生贄を求めた幽霊は、明らかに前者だった。


 呪いによって生贄を必要とする神。怒れる霊。忌まわしくも、力強い存在。




 一つ息を吐き、もう一つ問いを投げかける。




「それまで弱っていた幽霊が回復したのは僕が和魂の巫水空音を看取ったせいか?」




「おそらくは。二人に分かれていた存在が、一つに還った。それによって力を取り戻したのでしょうね」



 ある意味で幸運だったのだろう。


 おまじないが広まれば広まるほど叶える願いは増えていく。

 エネルギーが必要になればなるほど、生贄を求める周期も早まっていったはずだ。


 僕の知らない誰かが生贄にされる前に、ケリをつけることが出来たのだから。




 そう言いながら、カリンはベッドの中で何かを指先でいじっていた。


 覗き込むと、それは昨日、僕が渡した花束のラッピング――安っぽい、赤いリボンだった。




「そのリボン、まだ残していたのか」




「何かに使えないものかと思いまして」




 ただのリボン。しかも安っぽい。


 花を買ったらついてきた、付属品のようなものだった。


 けれど、昨日、おまじないとして僕がそれを結んだとき――




「……悪趣味って言ってなかったか?」




「悪趣味なのは呪いの方です。このリボンは、シンナがくれたものなのですから。そんなこと、言わないでください」




「はいはい」




 むすっとした顔。


 その表情を見て、少しだけ気が緩む。




「それで、他にはありませんか」




「……そうだな、他には……」




 メティス、別れ際に彼女が言った言葉が、ふと脳裏に蘇った。




 ——これ、やっぱり運命の赤い糸だと思うわ。




 運命の赤い糸?


 昨日、メティスは、それにあやかっているのかもしれないと言っていた。



 確かにおまじないには縁結びの効果があるとカリンも言っていた。

 でもそれは双方向性のネットワークという意味であって、恋愛としての効果ではなかったはずだ。




『真為君、私、何で死ななくちゃいけなかったのかな?』




 僕の迦楼羅炎に巻かれて消えていった、和魂の空音先輩。


 そういえば、彼女の脚には赤い糸が巻かれていた。




 あれもおまじないだったのだろうか……。


 でも、小指ではなく脚――なぜ?




 空音先輩が自殺してから、呪々御供が流行ったことを考えると……死ななきゃいけないという言葉は呪々御供によって変質したものじゃない。



 彼女自身の言葉だったはずだ。



 なぜ、空音先輩は死ななければいけなかった、と言ったのだろうか。


 なぜ、霊が二つに別れていたのだろう。


 なぜ、赤い糸を巻いていたのだろう。



 これまでのメティスの言葉に嘘はなかった。

 あの言葉にも意味があるのだろうか?


 それを確かめるべく僕はカリンに訊いてみた。




「……なあ、運命の赤い糸って、何か元ネタとかあるのか?」



「運命の赤い糸……ですか?」



 カリンにとって予想外の質問だったのだろう。

 キョトンとした顔をした後、カリンは俯き、手の中の赤いリボンをじっと見つめた。


 彼女の小さな頭脳が、蓄積された膨大な知識を検索しているのが分かる。


 やがて、ぽつりと語り始めた。




「中国の伝説に由来するものです。月下老人という縁結びの神様がいて……冥界には婚姻簿と呼ばれる書物があるのだとか。」



 少し聞き覚えのある話だった。

 中国や韓国には冥界婚と呼ばれる未婚の死者を一人にさせないために、死後結婚させるという文化があるらしい。

 これもそれの一つだろうか、そう思ったのだが——



「月下老人は、その簿に記された運命の夫婦のに、不可視の赤い紐を結ぶのです。小指に巻かれるというイメージは、日本でアレンジされたものですね」



「不可視……赤いのに見えないのか?」



「はい、普通の人間には見えないそうですが、神である月下老人には見えていたようです。」




 普通の人間には見えない不可視の糸。


 それは冥界から地上に生きる者たちの足と足を繋ぎ、運命の相手につながっている。


 やがて人々は、それを「運命の赤い糸」と呼ぶようになった。





「……そうか」




 その話を聞いて、僕の中にはある一つの納得が生まれていた。




 ようやく、理解できた。


 なぜ空音先輩が、死ななければならなかったのか。




 僕は丸椅子から立ち上がり、「これ、もらっていくぞ」と言いながら、花瓶から白百合を一輪抜いた。




「もう行かれるのですか?」




「……ああ。寄るところができた。次は花だけじゃなくて、ドーナツも買ってくるよ」




「シンナ」




 背中を向けたところで、カリンの声に呼び止められる。




「これは忠告です。便もたいがいにしておきなさい」




 何がとは訊かなかった。何のことかは、すぐに分かった。



「疑ってるのか?」



 そう問いながら、僕は笑顔を作り、明るい口調で言う。少しだけ、茶化すように。

 いつも通りの声、いつも通りの笑顔だった。

 そのはずだ。



「あなたの決意を疑っているつもりはありません。ですが、その過程は問題です」



 振り返った先にあったのは、僕を射抜くカリンの視線だった。

 表情を変えることなく、真剣に僕を見つめる彼女は少し怒っているようにさえ見える。

 いや、実際に少し怒っているのだろう。


 カリンにはわかっているのだ。

 僕が巫水空音を殺すときに何をしたのかを。



「あなたの迦楼羅炎は決意を誤魔化すためのものではないと伝えたはずです」



 視線がぶつかる。交錯する。


 たったそれだけで、僕が身にまとう嘘はすべて見破られてしまった。

 彼女の瞳は、静かに、だが容赦なく、僕の奥底をさらけ出す。


 今、僕の瞳には、どんな色が浮かんでいるのだろう。


 自分を偽る者の眼差しとは、一体どんな色なのだろうか。



「……また来るよ」



 何も言い返せず、僕はそう言い残して、病室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る