第23話 二人だけのひととき
【第22話 二人だけのひととき】
習志野駐屯地から戻り、俺たちは最初に建てたログハウスに向かった。足元の赤い砂がザク、ザクと音を立てる。アルカディアの夕陽が地平線に触れ始めた。オレンジ色の光が異世界特有の植物を照らす。葉の表面がきらきらと光を反射して、まるで宝石を散りばめたような光景が広がる。基地での緊張から解放されたはずなのに、胸の奥に重いものが沈んでいる。鉛のような塊が、呼吸するたびにずしりと存在を主張してくる。
「理沙、ごめんな」
言葉が勝手に口から零れた。理沙がきょとんとした顔で振り返る。丸い眼鏡が夕陽を反射してキラリと光った。
「え? 何が?」
「いや、本当は……二人でこの場所を開拓していこうって話だったのに、こんなに大人数になっちゃっただろ」
視線を地面に落とす。足元の赤い砂が風に舞い、小さな渦を作っては消えていく。あの頃の純粋さを、俺たちは失ってしまったのかもしれない。最初に二人でここに立った時の、あの特別な感覚。今では政府や自衛隊、学者たちに囲まれて、まるで別の世界になってしまった。
「せっかくの異世界での二人の冒険だったのに。お前にも迷惑かけてるよな」
理沙の手が俺の手を包んだ。温かい。細い指が一本一本、俺の指の間に入ってくる。絡み合う。握られる。掌と掌が密着する。体温が伝わってくる。じんわりと。胸の奥で何かが弾ける。
「悠斗、大丈夫だよ」
声が耳元で響く。穏やかな声。夕焼けの光に溶けていくような、柔らかい声。理沙の手の温かさが、俺の不安を少しずつ溶かしていく。彼女の指は細いけれど、しっかりと俺を支えてくれている。
「私はね、悠斗がいなかった3カ月の方がずっと辛かったの」
理沙の声に震えが混じった。かすかに。でも確かに。
「異世界でどんなことが起きてるのかも分からなくて、ずっと不安だったんだよ。毎日、もしかして悠斗に何かあったんじゃないかって……」
理沙の瞳を見る。潤んでいる。涙が溜まっている。表面張力で、ギリギリ零れないでいる。胸がキュッと締め付けられた。針で刺されたみたいに、鋭い痛み。――俺が知らないところで、理沙はこんなに苦しんでいたのか。
「今こうやって一緒に異世界で活動できることが、私には何より嬉しいんだ。悠斗が10年間も戦い続けてきたのを知ってるから……だから、本当は私の肩を貸してあげたいくらいなんだよ」
心臓がドクンと大きく跳ねた。肋骨を内側から叩くような激しさで。俺の手を包み込む彼女の指先が、夕陽の中で微かに震えている。小刻みに。緊張か、それとも――風が吹いた。ヒューッと音を立てて。理沙の栗色の髪が頬にかかる。彼女は無意識に髪を耳にかけた。指先が耳たぶを撫でるように動く。その仕草があまりにも自然で、美しくて、俺の呼吸が一瞬止まった。肺が空気を忘れたみたいに。
「理沙……」
名前を呼ぶ。理沙の頬がじわりと赤く染まっていく。毛細血管が拡張していく様子が見えるようだ。夕陽の赤と、彼女の頬の赤が溶け合って、境界線が曖昧になる。ふとした沈黙が流れる。俺たちの距離が縮まっていく。一歩、また一歩。磁石に引き寄せられるように。理沙の呼吸音が聞こえる。スー、ハー、スー、ハー。少し速い。俺の鼓動も速くなる。ドクドクドクドク。肋骨が振動している。アルカディアの風が止んだ。ピタリと。まるで世界が息を潜めたように。聞こえるのは、俺たちの呼吸音だけ。それと、心臓の音。――こんなに近くて、こんなにドキドキするのは初めてだ。視線が重なる。理沙の瞳に俺が映っている。俺の瞳にも理沙が映っているはずだ。理沙がそっと目を閉じた。睫毛が夕陽に照らされて、金色に輝く。一本一本が、繊細な糸のように光を反射している。俺も目を閉じようとした、その瞬間――
「悠斗ー! 理沙ちゃーん!」
遠くから声が響いた。部員たちの元気な声。現実が魔法を解くように、一瞬で引き戻される。
「……っ!」
理沙がパッと離れた。反射的に。その拍子に彼女の髪がふわりと舞う。夕陽の残光を受けて、髪が燃えるように輝いた。理沙が顔を背ける。慌てたように。首筋から耳まで、真っ赤に染まっているのが見えた。俺の顔も熱い。耳がジンジンと熱を持っている。
「お、おう! こっちだ!」
声が裏返った。喉が締まっている証拠だ。心臓はまだ早鐘を打っている。ドクドクドクドク。さっきまでの甘く切ない空気は、跡形もなく霧散してしまった。部員たちの足音が近づいてくる。ザッ、ザッ、ザッ。赤い砂を蹴散らしながら駆け寄ってくる。神崎の声、川崎の笑い声、美月の呼びかけ。いつもなら嬉しい仲間たちの声が、今だけは少し恨めしく聞こえた。
「もう、タイミング悪すぎ……」
理沙が小声で呟いた。吐息混じりの声。俺の耳がそれを捉えた。心臓の奥で何かが弾けた。パチンと音を立てるように。理沙も、俺と同じ気持ちだったのだ。名残惜しく振り返る。小さく息を吐いた。フーッと。でも胸の奥では、さっき感じた温かな感覚が、まだ鮮やかに残っている。熱を持って、脈打っている。そして、今度こそは――という新たな決意も、一緒に。
***
部員たちがログハウスの周りに集まってきた。ドタドタと足音が響く。探査の準備について話し合いが始まる。神崎が地図を広げ、川崎が装備のチェックリストを読み上げる。でも俺の頭の半分は、まだあの瞬間に囚われている。理沙の睫毛の輝き、彼女の指の震え、あの距離の近さ。理沙も時々、俺の方をちらりと見る。視線が合いそうになると、慌てて逸らす。その度に、胸の奥がキュンと締まる。甘い痛みのような感覚。神崎が何かを説明している。装備の重要性について。俺は相槌を打ちながら、心の中で呟いた。――今度は、絶対に邪魔されない時間を作ろう。
「理沙は回復魔法の訓練、順調みたいだな」
神崎が言った。
「ええ、少しずつコツが掴めてきて」
理沙が答える。頬がまだ少し赤い。
「他の部員も適性のある魔法の訓練してるぞ」
川崎が付け加える。
「今度、みんなの様子を見てアドバイスするよ」
俺が言うと、部員たちの顔が明るくなった。夜が更けていく。アルカディアの二つの月が昇り始めた。銀色の光が地面を照らす。月明かりが、俺たちの新しい冒険を静かに見守っている。きっと明日からは、また忙しい日々が始まる。政府との会議、訓練、探査計画。やることは山積みだ。でも、今夜のこの気持ちだけは、大切に胸の奥にしまっておこう。鍵をかけて、誰にも触れさせないように。理沙との距離が、また少しだけ縮まった。確実に、着実に。それが何よりも嬉しかった。
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