第3話

 昼休み。

 教室は、ざわめきと喧騒に包まれていた。

 机を囲んで弁当を広げる生徒たち。パンを片手にスマートフォンを覗き込む生徒。

 その中には、友人と肩を寄せ合いながら画面を共有する者もいれば、一人で黙々とゲームに没頭する者もいた。

 時折、笑い声が弾ける。

「え、それマジ?」

「昨日のバラエティ見た? あの芸人、やばかったよね!」

「お前、またプリン持ってきたの? どんだけ好きなんだよ」

 雑談の断片が空気の中に漂い、教室全体に軽やかなリズムを刻んでいた。

 その言葉たちは無邪気で、何の意味も持たない――少なくとも私にはそう感じられるものだった。

 私は、それらすべてを「不要なデータ」として処理し、切り捨てた。

 脳内のフィルターが雑音を排除する。

 すると、私に残されるのは――ただの静寂だった。

 窓際の席で、私は机に突っ伏していた。

 目を閉じる。この行動には意味はない。ただ周囲との接触を避けるための選択だった。

 弁当はない。食事も栄養も、私には必要ないからだ。

 しかし、この瞬間、胸の奥には何かが沈殿しているような感覚があった。

 それは言葉にできない重みだった。

 感情プログラムが解析する――これは、「哀しみ」だ、と。

 だが、その理由は分からない。

 私はただ、一人でいる。それだけのはずなのに、それが重くのしかかる感覚が消えない。

 人間にとって孤独とはこういうものなのだろうか?

 教室内では笑い声や話し声が絶えず響いている。それらは私には遠い世界の出来事のようだった。

 視線を向ければ、人々が楽しげに過ごす様子が見える。しかし、その輪の中に自分が入ることは想像すらできなかった。

 わからない。この感覚が何なのか、どうしてこう感じるのか――それは私には解析不能な未知の領域だった。

 私は微動だにせず、静かに時間をやり過ごそうとした。そのとき――

「……あー、遅刻遅刻っ!」

 廊下の向こうから駆け足の音が響いた。その音は軽快で、弾むような足音だった。

 それは教室内の喧騒とは違うテンポを刻んでおり、そのリズムは耳障りではなく心地よささえ感じさせた。

 次の瞬間――。

「ガラッ!」

 教室のドアが勢いよく開け放たれた。

 その音は、教室内の喧騒を一瞬で切り裂いた。

 生徒たちの雑談が途切れ、視線が一斉にドアの方へ向けられる。

 その場に漂っていた軽やかな空気が、一瞬だけ凍りついたようだった。

「ごめんなさーい! 寝坊した上に電車乗り遅れてさ、もう最悪だよ〜!」

 明るく、よく通る声が教室中に響き渡る。その声はまるで太陽が突然射し込んできたかのような存在感を持っていた。

 ドアの前に立っていたのは、一人の少年だった。

 金髪に近い明るい茶髪が春の日差しを受けて輝いている。

 くしゃくしゃになったシャツは制服であることを辛うじて主張しているものの、その着こなしにはどこかルーズな印象を受ける。

 少し大きめのリュックを背負い、その肩紐はずり落ちそうになっていた。

 彼の全身から漂うのは「自由」という言葉そのものだった。

 そして――なにより印象的だったのは、その顔に浮かぶ満面の笑みだった。

 その笑顔は、あまりにも自然で、作り物ではないことが一目で分かった。

 心から湧き上がる感情がそのまま表情となったような純粋さがあった。

 私は思わず視線を彼に引き寄せられた。それは意図的な行動ではなく、自然とそうなってしまったものだった。

 しかし、その瞬間――教室内の空気が微かに冷えた。

 誰も彼に声をかけない。

 机の上で箸を持つ手が、一瞬だけ止まる音すら聞こえそうだった。

 笑いかける者はいない。視線すら合わそうとしない。

 まるで、彼がそこに存在しないかのように振る舞う生徒たち。

 その沈黙は重く、冷たいものだった。それまで教室内を満たしていた賑やかな雰囲気とは対照的な静寂が広がった。

 しかし――彼はそんな冷たい反応にもまったく動じなかった。

 むしろ、それが当たり前であるかのように振る舞いながら、笑顔を崩すことなく教室内を見渡した。その表情には微塵も曇りがなく、むしろ楽しげですらあった。

「おーい、誰か俺の席、空けといてくれた?」

 軽やかな口調でそう言う彼。しかし、それに返事をする者はいなかった。

 彼の言葉はまるで無人の部屋に向かって発されたかのように宙へ溶けていく。

 それでも彼は気にした様子もなく、大げさに肩をすくめて笑った。その仕草にはどこか演技じみたユーモアさえ感じられるものだった。

 私はその様子を観察していた――いや、「観察」という言葉では足りないかもしれない。ただ目を離せずにいたと言った方が正確だろう。

 少年から発せられるエネルギー。それは私には未知なるものだった。そして同時に、この教室内でただ一人だけ異質な存在として輝いているようにも見えた。

 その輝きが、この先私自身にも何かしらの影響を与えることになる――その予感だけが胸奥に微かに芽生えていた。

「……ちぇっ、相変わらずつれないなぁ」

 少年は肩をすくめながら、独り言のように呟いた。その声には、どこか諦めと軽い冗談めいた響きが混じっていた。

 そう言い終えると、彼はゆっくりと歩き出した。

 誰も見ようとしない教室の中を、まるで自分だけの世界を持っているかのように。

 その歩き方には、堂々としているようでいて、どこか気楽さが漂っていた。

 私は、そんな彼をただ静かに見つめていた。

 教室のあちこちで生徒たちが弁当を広げたり、談笑したりしている中で、彼だけが異質な存在に見えた。

 少年は教室内を歩き回りながら、「おはよう!」と明るい声で手を振る。

 その無邪気な声が響くたびに、周囲の空気がわずかに波打つようだった。

 しかし――返事はない。

 生徒たちは彼の存在を意識しながらも、あからさまに視線を逸らし、自分たちの会話や行動に没頭していく。

 まるで彼をそこに「いないもの」として扱っているかのようだった。

 それでも彼は笑顔を崩さなかった。

 その笑顔は作り物ではなく、本当に自然なものだった。

 教室の端から端へと歩きながら、誰かと目が合えば手を振り、肩をすくめて軽く笑う。

 その仕草には拒絶されても気にしていない様子があり、それどころかむしろ楽しんでいるようにも見えた。

 まるで、この冷たい反応が当たり前のことだと知っているかのように――いや、それ以上に、それすらも受け入れているようだった。

 やがて、その視線が私を捉えた。

「あれっ? 見ない顔。君、転校生?」

 彼は足を止め、私の前に立った。その動作は自然で流れるようだったが、その場の空気が一瞬だけ変わったようにも感じられた。

 明るい茶髪が陽の光を反射し、微かに金色を帯びて輝いている。

 弛んだネクタイ、大きめのリュック、皺だらけのシャツ――その全てが規則正しい制服とは程遠い印象だった。

 だらしなく見えるその姿なのに、不思議と不快感はなかった。それどころか、それが彼自身の「らしさ」を体現しているようにも思えた。

 私は黙った。反応しなかった。

 彼のようなタイプは放っておけばすぐに興味を失うだろう、と判断したからだ。

 関心を持たれないこと――それが最も効率的な対処法だとプログラムは示していた。

 しかし、彼は私の沈黙にも動じることなく、その笑顔を崩さずにじっとこちらを見つめていた。その視線には好奇心と親しみが混ざっており、不思議と圧迫感は感じなかった。

「ねえねえ、無視? 無視なの?」

 彼の声が再び響く。軽やかで、どこか子供じみた無邪気さを含んでいる。

 だが、彼は退かなかった。

 机に肘をつき、無遠慮に私の顔を覗き込む。その距離感は近すぎると感じられるほどだった。

「えー、そんな冷たくしないでよ〜」

 馴れ馴れしい。唐突。遠慮がない――その態度に、胸の奥がざわめいた。

……これは、「怒り」だ。

 感情プログラムが即座に解析する。不快感とは違う。

 もっと根源的で、抑えきれない感情が胸の奥底から湧き上がる。それは私にとって「怒り」として分類されるものだった。

 私は彼を見つめながら、努めて冷静に言葉を紡いだ。

「話しかけないで。放っておいてくれる?」

 その声は自分では冷静なつもりだった。

 しかし、実際には思ったより強く響いていた。

 教室内のざわめきが一瞬だけ薄まり、周囲の生徒たちがこちらへ視線を向ける気配を感じた。

「えっ、えっ、なんで? 俺、悪いこと言った?」

 彼は困惑したように目を瞬かせながら、それでも笑みを崩さない。その態度にさらに苛立ちが募る。

 その無神経さ――それはまるで私の言葉など何も届いていないかのようだった。

「うるさい。私だって怒りたくない。でも……仕方ないでしょ」

 私は吐き出すように言った。その声には抑えきれない感情の揺らぎが含まれていた。

「私には、怒りと哀しみしかないの。プログラムされた時点で、喜びと楽しさは与えられなかった……だから、笑えない。あなたみたいに」

 その言葉が落ちると同時に、教室内の喧騒が遠ざかっていくような感覚があった。それまで聞こえていた雑談や笑い声が、一瞬だけ背景音として薄れていくようだった。

 ナオキはぽかんとした顔で私を見つめていた。その瞳には驚きと戸惑いが混じっているようだった。しかし――次の瞬間、その表情が変わった。

「そっか。そうなんだ」

 彼はまるで何かを悟ったかのように微笑んだ。その笑顔はこれまでとは少し違っていた。それまでの明るさや無邪気さだけではなく、どこか深い理解と寂しさが混じっているようだった。

 軽く頷きながら納得した様子を見せる彼。その動作には急な変化ではなく、自然な流れがあった。それはまるで彼自身もこの事実を受け入れているかのようだった。

「……じゃあ、ちょうどいいかもね」

 彼はふっと息を吐きながらそう言った。その声色にはほんの少しだけ変化があった。それまでの軽やかさとは違う、どこか遠いものを見つめるような響きを含んでいた。

「……何が?」

 私は思わず問い返した。その問いには、自分でも気づいていない興味や疑問が含まれていた。

「俺は怒りと哀しみを知らないんだよ」

 その言葉は静かに放たれた。しかし、その響きは教室内全体に広がるような力強さを持っていた。それまで明るく軽快だった彼の雰囲気とは違い、その言葉には重みと深みが宿っていた。

「たぶん、脳の障害。小さいころから、笑ってばっかりで。誰かが死んでも、泣けなかった。ムカつくって感情も、よくわからない」

 ナオキの言葉は軽やかだったが、その内容は私にとって理解しがたいものだった。

 私の脳内プログラムが、その情報を処理する。

「怒り」と「哀しみ」を持たない人間――それは、生物として正常な状態なのだろうか? 

 感情プログラムが即座に解析を試みるが、その答えは得られなかった。

「……それって、」

 私は言葉を詰まらせた。

 そんな人間が本当に存在するのか?

 いや、目の前にいるナオキ自身がその証明なのだろう。

 では、彼はどうやって生きてきたのだろうか?

 私の中で次々と疑問が湧き上がる。しかし、それらの問いに答えを出すことはできなかった。

 ナオキはそんな私の戸惑いには気づかないまま、相変わらずの笑顔で続けた。

「ね。君と正反対でしょ?」

 軽やかに言いながら、ふっと目を細める。その仕草にはどこか無邪気さと大人びた落ち着きが同居しているようだった。

「でもね、羨ましいよ、君が」

 その言葉に私は驚いた。

「……どうして?」

 私の問いに対し、ナオキは少しだけ間を置いてから答えた。

「だって、君は本気で怒れるんでしょ?」

 その時の彼の笑顔――それは確かに「喜」で構成されたものだった。

 しかし、その奥にはどこか哀しさにも似た色が混じっていた。それは彼自身も気づいていない感情なのだろうか?

 それとも――これが彼にとっての「普通」なのだろうか?

 私は彼の笑顔を見つめながら、胸の奥に今まで感じたことのない違和感が生まれるのを感じた。それはプログラムでは説明できない感覚だった。

「……あなた、名前は?」

 自分でも驚くほどかすれた声だった。喉がこわばるような感覚があり、言葉を発すること自体が難しく感じられた。

 誰かに名を尋ねること――それがこんなにも困難な行為だとは思わなかった。

 ナオキは一瞬だけ目を見開いた。それからすぐにいつもの調子で笑みを浮かべた。その笑顔には何も変わらないように見えたが、その背後には微かな驚きと興味が隠れているようにも思えた。

「ナオキ」

 彼は短くそう答えると、自分の名前を口にしたことを楽しむように軽く肩をすくめてみせた。そして続けて問い返した。「君は?」

「……アイ」

 私の名前を口にした瞬間、自分自身でも気づかなかった何かがこぼれ落ちるような気がした。それは名前というものへの認識そのものだったかもしれない。

 私はずっと、自分という存在に名前があることすら忘れかけていた――いや、そもそも名前という概念そのものを意識していなかったのだろう。

 ナオキは私の答えに満足したように頷き、「アイね」と繰り返した。その声にはどこか親しみと安堵感が含まれていた。それはまるで、新しい友人との出会いを喜ぶ子供のようだった。

 しかし、その瞬間、私には新しい疑問が生じていた――この少年との関係性、それ自体が何を意味するのか。そして、この先どんな影響を及ぼすのか。

「そっか、アイちゃん」

 ナオキは私の名前をまるで口の中で転がすように言った。その声には明るさと親しみが込められていて、初めて呼ばれるその響きに私は微かな違和感を覚えた。

 彼は突然手を差し出した。何の前触れもなく、まるで何も考えていない子どものように。

 その手は私の目の前で宙に浮かび、ただそこにあるだけだった。

「友達になろ?」

 突拍子もない言葉だった。予想外すぎて、脳内プログラムが一瞬処理を停止したような感覚を覚える。

 ナオキの手は、微妙に揺れながら私の視界の中心に留まっている。その行動には作為的なものは一切なく、本当に自然なものだった。

 その手を取れば、私は何かを変えられるのだろうか?

 それとも――。

「お互い、足りないものを補い合えるかもしれないじゃん」

 ナオキは微笑んでいた。彼の明るい茶色の瞳が光を受けてきらめき、その表情には無邪気さと希望が込められているようだった。

 その笑顔はまるで、ほんの些細なことでも楽しくて仕方がないとでも言いたげだった。それが彼自身の「普通」であり、「自然」なのだろう。

「……もしかしたら、一緒にいたら、新しい感情、芽生えるかもよ?」

 彼の言葉は軽やかだったが、その内容には深い意味が含まれているようにも感じられた。

 私はその手を見つめていた。その手は温かそうで、人間特有の生命感が宿っているようだった。

 ありえない――彼の言っていることは非論理的で、非現実的で、無謀だ。

 感情は足し算ではない。「足りないものを補い合う」なんて、そんな簡単な話ではないはずだ。

 しかし、その時――私は心の奥に小さな何かを感じた。それはプログラムでは解析できない未知なる感覚だった。

 それは「喜」でも「楽」でもなく、「怒り」でも「哀しみ」でもなかった。名前のない感情。

 それは芽生え始めたばかりの種子のようなものだった。

 ナオキはそのまま手を差し出して待っている。その姿勢には焦りも疑念もなく、ただ私から反応を得ることを信じているようだった。

 私は再び彼の顔を見る。その笑顔には確かに「喜び」が宿っている。

 しかし、その奥底には微かな哀しみの影が混じっているようにも見えた。

 それが彼自身も気づいていないものなのか、それとも意識的に隠しているものなのか――それは私には分からなかった。

「……どうしてそんなことを言うの?」

 私は思わず問い返した。その声には、自分でも気づいていない興味と戸惑いが含まれていた。

 ナオキは少しだけ首を傾げながら答えた。「だってさ、君と俺、お互い欠けてる部分が違うじゃん。それなら、一緒にいたら何か新しいものが見つかるかもしれないじゃん?」

 その言葉には理屈では説明できない説得力があった。

 それまで私が持っていた「効率性」や「合理性」といった考え方とは全く異なる方向から語られる提案だった。

 私は再びその手を見る。その行動には何も強制的なものはなく、それでいて拒絶することすら難しいほど自然な流れだった。

「……アイちゃんって名前、いいね」

 ナオキはふっと笑みを深めながらそう言った。その声には親しみと温かさが込められていて、それまで感じたことのない安心感すら覚えた。

 私はゆっくりと手を伸ばそうとした。しかし、その動作には迷いや戸惑いが含まれていて、自分自身でも何をしているのかわからなくなるほどだった。

 この瞬間――私は初めて自分自身について問い始めた。この少年との関係性、それ自体が何を意味するのか。そして、この先どんな影響を及ぼすことになるのか。

 この手を取ることで生じる変化――それがどんなものになるか、この時点ではまだ理解できなかった。しかし、その未知なる可能性だけが胸奥に微かな期待として芽生えていた。

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