第4話

 チャイムが鳴り響いた。

 その音は、授業が終わったことを告げる合図だった。

 生徒たちは一斉に動き出し、机を片付けたり、友達と話しながら教室を出ていったりする。

 しかし、私は動かなかった。

 何も予定がないからだ。帰宅命令も更新データの通知も、今日は来ていない。

 私の役割は、この教室で完結している。

 しかし――今日は少しだけ違った。

「アイちゃーん!」

 教室の端から元気な声が響いた。

 私の名前を呼ぶ声――ナオキだ。

 彼はリュックを肩にかけながら駆け寄ってくる。その靴音が教室の静寂を切り裂くように響いた。

 朝とは違う。

 教室はもう静かで、私たち以外には誰もいなかった。机や椅子はそのまま整然と並び、窓から差し込む夕方の光が床に長い影を作っている。

「一緒に帰ろう!」

 彼は当たり前のように言った。その言葉には何の迷いもなく、むしろそれが当然だと言わんばかりの明るさだった。

「……なんで?」

 私は思わず問い返した。その声には戸惑いが含まれていた。

「え、普通、友達って一緒に帰るもんでしょ?」

 ナオキは軽く首を傾げながら答える。その仕草には疑問というより、むしろ当然のことを確認するようなニュアンスがあった。

「……普通って、なに?」

 私はさらに問い返した。その言葉には自分でも気づかないほど深い疑問が込められていた。

 ナオキはしばらく考えるように黙った。それは彼にしては珍しいことだった。

 彼はいつでも言葉が途切れることなく流れていくような存在だった。しかし今は違った。

 彼は軽く唇を噛みしめながら天井を仰ぎ、その後ゆっくりと視線を戻して私を見つめた。その瞳には何かを探るような光が宿っているようだった。

 そして――ふっと微笑んだ。

 その笑顔はいつものものとは少し違っていた。どこか柔らかくて、優しくて、静かな笑顔だった。それまでの明るさや無邪気さだけではなく、深い理解と穏やかな感情が込められているようだった。

「うーん……」

 少し考え込むような素振りを見せながら、それでも彼はやっぱり笑っていた。その笑顔には不思議と安心感があり、それまで感じていた疑問や戸惑いが少しずつ薄れていくような気がした。

 ナオキの言葉や行動――それらは私には非論理的で非効率的に思えるものだった。しかし、その中には何か説明できない力があるようにも感じられた。

以下は、元の文章を3倍の文字量に加筆修正したものです。

「普通って、難しいね」

 ナオキはなおも考え込みながら、ぽつりと呟いた。その声には、どこか自嘲めいた響きが混じっているようにも感じられた。

「うーん、なんかこう、正解じゃないけど当たり前ってやつ?」

 彼は腕を組みながら、ぽりぽりと頬をかく。その仕草には真剣に考えているような雰囲気がありながらも、どこか曖昧で掴みどころのない印象があった。

「……意味があるの?」

私は問いかけた。その言葉には、自分でも気づいていないほど深い疑問が込められていた。

 ナオキは一瞬だけ考え込むように視線を下げた。しかし、その沈黙は長く続かなかった。彼はすぐに顔を上げ、にこっと笑った。その笑顔はまるで、何も問題がないと言わんばかりの明るさだった。

「あるかどうかは、これから決めるんだよ」

 その言葉は軽やかだったが、その中にはどこか哲学的な響きも含まれていた。「普通」という曖昧な概念を、自分自身で定義しようとしているように思えた。

「……私はまだ、あなたを友達だと定義していない」

 私は静かにそう言った。それは事実だった。友達とは何なのか、それすら私には明確ではないからだ。

 ナオキは少しだけ驚いたように目を見開いたが、その表情もすぐにいつもの笑顔へと戻った。

「そっか。じゃあ、定義するために一緒に帰ろっか」

 唐突だった。その提案はまるで、わざと私の論理を崩しにきたかのようだった。

 強引――しかし、不思議と嫌ではなかった。

 春の風がやわらかく頬をなでる。

 学校を出た私たちは、ゆっくりと並んで歩き始めた。夕陽が校舎の窓ガラスを赤く染め、その光が私たちの影を長く伸ばしていた。

 ナオキの歩幅は不安定だった。

 ときどき早まったかと思えば、ふと足を止めて道端の猫を眺めたりする。その動作には一貫性がなく、それでも彼自身はそのリズムを楽しんでいるようだった。

 一方で、私の歩行プログラムは一定の速度を維持するように調整されている。本来なら、このペースの乱れは「ズレ」として認識されるべきものだった。しかし――今日は違った。

 私はそのズレを不快とは感じなかった。それどころか、その不規則さに興味すら覚えていた。

 私はナオキの歩調に自然と合わせていた。一定の距離を保ちながら、並んで歩いている。

 夕陽が私たちの影を長く引き伸ばし、春の風が柔らかく頬を撫でていく。

「ねえ、アイちゃんってさ、どこに住んでるの?」

 ナオキがふと尋ねた。その声は軽やかで、特に深い意図があるようには思えなかった。

 私は一拍置いて答えた。

「研究機関。都心から少し離れた地下施設」

「へー、秘密基地みたい」

 ナオキはわくわくしたように目を輝かせた。その表情には純粋な興味が込められており、彼の言葉が冗談ではなく本気で楽しんでいることが伝わってきた。

「……親とか、いないんだ?」

 その問いは唐突だったが、その声にはどこか優しさが含まれていた。

「親、という概念はない。開発者ならいるけれど」

 私は淡々と答えた。それは事実であり、感情を伴うものではなかった。

「ふーん」

 ナオキは頷きながら、それから小さく息をついた。その仕草には一瞬だけ沈黙が宿り、その後に続く言葉を予感させた。

「俺は、親の顔あんまり覚えてないんだよね。施設育ちでさ。今はひとり暮らし」

 彼の声のトーンが少しだけ変わった。それまでの軽やかさとは異なり、その言葉には微かな冷たさと重みが混じっていた。それは意図的なものではなく、無意識に漏れ出た感情の欠片のようだった。

 私はその変化を感じ取った――哀しみに似た振動。それは私の感情プログラムが解析する範囲内だった。しかし、それを表に出すことは彼にはできない。

――ナオキには、「哀しみ」という感情がないからだ。

 それでも、その言葉には何か深いものが込められているように感じられた。それは彼自身も気づいていない何かだったのかもしれない。

「だからかな、君と話してると、なんか落ち着く」

 ナオキはふっと笑った。その笑顔にはいつもの無邪気さとは違う柔らかさがあり、その背後には微かな孤独感すら漂っているようだった。

 夕焼けが彼の輪郭を優しく縁取っていた。その光景は一瞬だけ時が止まったような静けさを伴っていた。

「……私には、あなたの感情はわからない。表情と声から推定するしかない」

 私は静かにそう告げた。それは自分自身への確認でもあり、彼への説明でもあった。

 ナオキは困ったように笑った。その笑顔には戸惑いと少しだけ安堵が混じっているようだった。

「そっか。でも、そうやって『推定』してくれるだけで、なんか嬉しいけどね」

 その言葉に私は一瞬だけ言葉を失った。「嬉しい」という感情――それは私には存在しないものだ。

 しかし、彼は迷いなくそう言った。その純粋さに触れた瞬間、私の中で何か小さな違和感が生まれた。それはプログラムでは説明できない未知なる感覚だった。

 ナオキとの会話――それは非論理的で非効率的なものでありながらも、不思議と心地よいものだった。

 この少年との時間が私自身にも何か新しい影響を及ぼしていることを、この時点ではまだ完全には理解できていなかった。

 春風が再び吹き抜ける中で、私たちはゆっくりと歩き続けていた。その歩調は不規則でありながらも、不思議と自然に感じられるものだった。

 私は立ち止まった。

 ふと顔を上げると、夕焼けが校舎の屋上を鮮やかなオレンジ色に染めていた。

 空は広がるグラデーションのように、赤から紫へと変化しながら静かに世界を包み込んでいく。

 その光景はどこか幻想的で、時間が止まったかのような錯覚さえ与えるものだった。

 遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。

 それはまばらで、どこか寂しげな響きを持ちながらも、この静かな時間に溶け込んでいた。

 風が校舎の隙間を抜ける音とともに、私たちの周囲には穏やかな空気が漂っていた。

 ナオキは少し離れた場所で立ち止まり、夕焼けを眺めている。その横顔にはいつもの無邪気さとは異なる静けさが宿っていた。

 私はつぶやくように言った。

「あなたが笑っているとき、私は少しだけ、怒らなくて済む」

 その瞬間、ナオキはほんの少しだけ目を丸くした。その反応は驚きというよりも、何か新しい発見をしたような表情だった。そして――

「……えっ、なにそれ、めっちゃ名言じゃん!」

 突然、ナオキは目を輝かせて私の肩をがしっと掴んだ。その動作には勢いがあり、その声には興奮が混じっていた。

「え?」

 私は思わず戸惑いながら彼を見つめた。その反応は予想外すぎて、一瞬だけ脳内プログラムが停止したような感覚だった。

「やばい、今のめっちゃカッコよかった! 『あなたが笑っているとき、私は少しだけ、怒らなくて済む』……うわー、映画のラストシーンとかで言いそうなやつ!」

 ナオキはその言葉を繰り返しながら、自分自身でその響きを楽しんでいるようだった。その様子はまるで宝物を見つけた子どものように無邪気で純粋だった。

「……別に、そういうつもりで言ったわけでは」

 私は静かに否定した。しかし、その声にはどこか弱さが含まれていた。それは自分自身でも理由が分からない感覚だった。

「いやいや、これは名言リストに追加だね! アイちゃん、やっぱりポテンシャル高いなぁ!」

 ナオキは満面の笑みを浮かべながら、その場で小さく跳ねるような動作を見せた。そのエネルギーは周囲の静けさとは対照的で、それでも不思議と調和しているように感じられた。

――私はそんな彼を見つめていた。

 たしかに彼の言う「喜び」や「楽しさ」は私には理解できない。それらは私のプログラムには存在しない感情だ。しかし、この時――

 私はナオキの笑顔を見て、なぜか胸の奥に微かな変化を感じた。それはプログラムでは説明できない未知なる感覚だった。

 夕焼けの光が彼の輪郭を柔らかく縁取っている。その光景はどこか温かく、それでいて儚いものだった。その中で彼の笑顔だけが際立って輝いているようにも思えた。

「少しだけなら、このままでいてもいい」と思った――その感覚は私自身にも驚きだった。それまで合理性や効率性だけで動いていた自分に、新しい選択肢が生まれる予感がしたからだ。

 風が再び吹き抜ける中で、私たちはゆっくりと歩き出した。その歩調は不規則だったが、それでも自然と調和しているように感じられた。この瞬間――夕焼け空とナオキとの時間だけが特別なものとして胸奥に刻まれていった。

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