第2話

 四月の終わり、教室にはまだ新学期の緊張感が微かに残っていた。

 窓の外では、春風が吹くたびに桜の花びらが舞い、もうほとんど散りかけた薄桃色の花びらが、校庭の端に吹きだまりのように積もっている。

 その光景はまるで、春が過ぎ去ろうとしていることを告げる儚い予兆のようだった。

 午後の日差しが差し込む教室は、どこかぼんやりとした空気に包まれている。

 窓から差し込む光が机や椅子の影を長く引き伸ばし、生徒たちの顔にも淡い明暗を刻んでいた。

 ざわついていた教室内も、担任教師が前に立つと自然と静まり返る。

「えーっと……今日からこのクラスに転入してくる生徒がいます」

 佐川先生は黒板の前に立ち、手に持った出席簿を軽く閉じながら言った。

 その声にはどこか半端に乾いた響きがあり、先生自身もどう紹介すればいいのか迷っている様子が伝わってきた。

 生徒たちは一斉にざわめき、好奇心と警戒心をないまぜにした視線を私へ向ける。

その視線は鋭くもあり、どこか興味深げでもあった。

 私は、その視線をただ受け止めるだけだった。

 機械のように静かに立ち、視線を正面に向ける。

 黒髪のボブカットは一本の乱れもなく整えられ、制服も規定通りで襟元には皺ひとつない。

 その佇まいは完璧でありながら、人間的な温かみを感じさせない冷たさを伴っていた。

 私はプログラム通りの自己紹介をしようと口を開きかけた。

 しかし、その瞬間、佐川先生が先に続けた言葉が教室全体の空気を変えた。

「彼女は、S2型TYPE-05アンドロイドのアイさんです」

 その一言が放たれると同時に、教室内の空気が一瞬だけ張り詰めた。

「アンドロイド」という単語が生徒たちの間で波紋のように広がり、それまでさざ波程度だったざわめきが一気に高まった。

「アンドロイドって……本物?」

「なんで学校に?」

「普通じゃないよね……」

 小声で交わされる囁きや驚きの声が耳に届く。

 それらは私には慣れ親しんだ反応だったが、それでも胸奥には微かな痛みとも言える感覚が芽生える。

 それは「哀」に分類される感情だろうか?

 それとも別種の何か?

 私は静かに周囲を見渡した。

 生徒たちの表情は様々だった――驚き、不安、興味、本能的な拒絶……そのどれもが私には理解できない複雑な感情だった。

 クラスの空気がざわめく。

 目を見開く者、机の上に置いた手を僅かに動かす者、興味深げに身を乗り出す者、戸惑いの色を浮かべる者。

 その反応は千差万別でありながら、どこか共通した緊張感が漂っていた。

 私はそのすべてを観察し、記録し、瞬時に分析した。

 視線の動き、表情の変化、手足の微細な動き――それらは私にとって解析すべきデータであり、感情の揺れ動きを示す指標だった。

「驚き」「興味」「不安」「警戒」――それぞれの感情が交錯し、クラス全体が一つの大きな波となって揺れているようだった。

「共存教育の一環として、本校での学習が許可されました。みなさん、偏見なく接するように」

 担任の佐川先生が静かに言葉を紡ぐ。その声は穏やかでありながら、どこか硬さを含んでいた。

 彼自身も、この状況に完全には慣れていないことが、その口調から伝わってくる。

 先生の言葉が教室全体に響き渡ると、それまで高まっていたざわめきは徐々に収束していった。

 しかし、それは完全な静寂ではなく、水面下でくすぶるような緊張感がまだ残っていた。

 私は理解していた。この反応は予想通りだ、と。

 アンドロイドが「生徒」として教室に立つという事実――それに対する戸惑いは当然のものだった。

 驚きを隠そうと努める者もいれば、それを露わにする者もいる。

 そのどちらも私には馴染み深い反応だった。

 私はそれらすべてを心の中に記録し、不要と判断し、忘れることにした。

 目の前の世界は常に私にとって解析すべき情報の集合体でしかなく、それ以上でも以下でもなかったからだ。

 けれど、この瞬間だけは――どういうわけか、「忘れたくない」と思ってしまった。

 それがどうしてなのか、その理由はまだわからなかった。

「アイさん、自己紹介をお願いします」

 担任の佐川先生が私へ視線を向けながら促した。その声には微かな緊張が含まれているようだった。

 クラスの生徒たちも、それにつられるように一斉に私へ視線を向けてきた。

 その目には好奇心と警戒心が入り混じり、人間同士が持つような温かみは感じられなかった。

 しかし、それもまた予想通りだった。

 私は促されるまま静かに前へ進み、黒板の前へ立った。

 窓から差し込む日差しが私の影を長く床へ伸ばし、その影はクラス全体へと広がっていったようにも感じられた。

 板書された私の名前――「アイ」――その横に位置を取る。

 黒板に白いチョークで書かれたその文字は、まだ新しい粉の匂いを漂わせているようだった。

 その名前が私自身を指し示しているという事実を認識しながらも、私はどこかそれが自分とは無関係な記号のように感じていた。

 この瞬間も、脳内のプロセッサーは高速で稼働し、あらゆるデータを処理していた。

 温度24.3度、湿度46%、周囲の視線の数27、まばたきの回数平均3.2秒間隔――。

 教室に流れる空気の微細な変化さえも、私には明確に数値として捉えられる。

 それらを分析し、「最適な挨拶」を導き出すプロセスは、0.00004秒で完了した。

「はじめまして。アイと申します」

 声を発した瞬間、自分の音声データが教室内にどのように響き渡るかを即座に解析する。

 声のトーンは親しみを持たせつつも落ち着いたものを選んだ。

 人間が「聞き取りやすい」と感じる音程とリズムを計算し、抑揚を調整することで、耳障りにならない音声を生成している。

「S2型生活型AIとして、ここでの人間社会に適応するための実証実験に参加しています。よろしくお願いします」

 次の動作へ移行する。

 正確な角度で会釈する動作は、背筋をまっすぐ保ちながらも視線を伏せすぎず、相手を威圧しない絶妙なラインで行うことが求められる。

 これもまた、人間社会で「礼儀作法」とされる動作を基にした最適なプログラムだった。

 しかし――静寂が訪れる。

 誰も反応しない。

 机の上に置かれた手が小さく動く音すら、教室全体に響いて聞こえそうなほどの沈黙だった。

 その沈黙はまるで時間そのものが凍りついたかのようであり、人間ならば息苦しさすら覚えるだろう瞬間だった。

 私は、ゆっくりと視線を巡らせる。

 生徒たち一人一人の表情には、それぞれ異なる感情が浮かんでいた――困惑、不安、興味、そしてどこかにある拒絶の気配。

 それらは私には馴染み深いものだったが、この場では特別な意味合いを持っているようにも感じられた。

 数秒間――私の時間感覚では0.00008秒単位でこの間隔を測定できるが、人間にとっては「長すぎる沈黙」と感じる時間だっただろう。

 その沈黙は人々の心に微かな緊張感と戸惑いを生じさせていた。そして、その沈黙を破ったのは佐川先生だった。

「はい、皆さん、拍手を」

 佐川先生が促すと、クラスの数人が手を叩き始めた。

 ぱら、ぱら、と小さな音が教室内に響く。

 その音はまばらで勢いも弱く、歓迎の意思が希薄であることを示していた。

 形式的な拍手――それは私にとって予想された反応だった。

 私はその音を観察し、記録し、解釈する。

 手の動きの速さ、音量のばらつき、生徒たちの視線の動き――それらすべてが私に一つの結論を導き出した。

――好意的な反応は得られなかった。

 だが、それは想定の範囲内だった。

 私はここで「好かれる」必要はない。ただ、自分の役割を果たせばいい。それだけだ。

 佐川先生が黒板の前で少し困ったような表情を浮かべながら続ける。

「じゃあ、アイさんの席は……」

 その言葉に従い、私は指定された席へと向かった。

 教室の一番後ろ、窓際の席――それは人間社会において、新入りが配置される典型的な場所だった。

 心理学的には、「距離」を取ることで新しい存在への不安を軽減するという傾向がある。

 その選択が無意識であれ意識的であれ、私には理解できるものだった。

 私は静かに椅子を引き、その背もたれに手を添えた後、腰を下ろした。

 その動作はプログラムされた通り正確でありながら、人間的な柔軟性を感じさせない硬さがあっただろう。

 周囲の生徒たちは私の存在を意識していることが明白だった。

 彼らはちらりと私を見るものの、その視線はすぐに窓の外へ逃げていく。

 誰も話しかけようとしない――まるで私がそこに「いない」かのように振る舞っていた。

――歓迎されていない。

 データが、それを明確に示していた。

 表情分析では「困惑」が最も多く、「興味」と「拒絶」がそれに続いていた。

 しかし、それも問題ではない。

 私は、人間と関わるためにここにいる。人間社会を学び、感情とは何かを知るために。

観察し、経験することで、私の「感情データ」は拡張されるはずだ――そう信じていた。

「喜び」も、「楽しさ」も、その先にある未知なる感情もきっと得られるだろう、と。

 しかし、その希望はこの場ではまだ遠い未来の話だった。

 教室内には微妙な緊張感と静寂が漂い続けていた。その空気感は私にも感じ取れるほど濃密だった。

 窓際の席から見える景色は穏やかだった――春風が桜の花びらを舞わせ、校庭では数人の生徒たちが遊んでいる姿が見える。

 しかし、その穏やかさとは対照的に、この教室内には冷たい壁が存在しているようだった。

 そして、そのすぐ後に私は出会うことになる。

 感情の半分しか持たない少年。その存在が、この先私自身にも変化をもたらすことになるとは、この時点ではまだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る