1-第1話 白銀香殿の贈り物
春霞が、都を淡く包んでいた。
輪郭を溶かし、すべてを曖昧にするように。
その霞の奥、左大臣家の広間では、一つの宴が静かに
始まっていた。
今の宮中は、葵皇太后の影に覆われている。
皇子の即位も、后妃の人事も、ことごとくその御意を
経ぬものはない。
政の盤面は、その御簾の奥で動き、誰も逆らうことは
できなかった。
しかし、その傘の下でなお、静かに呼吸を保っている
者たちがいた。
葵皇太后の兄、前・内大臣の
子・
派手に声を張り上げることもなく、ただ然るべき場
で、然るべき言葉を差し出す。
宮廷の者は皆、彼らが一言発すれば、その重みを察し
た。
威を誇らず、権を振るわず、ただ座して場を収める
――それが二人の在り方だった。
その二人に、左大臣・
ら挑もうとしている。
昇進――そんな華やかな響きは、この場の空気には似
つかわしくない。
新たに内大臣に任じられた兼雅は、父と並び、香の濃
い座に着いていた。
俊遠の膝の脇には、見目にも美しい菓子皿が置かれて
いる。
薄紅色の求肥に、白小豆の餡を包んだ「花霞」。
政の場にあっても、彼は変わらず甘味を手放さない。
広間には、名のある香道師が調合した
が満ちている。
白檀の甘みと沈香の深みが重なり、空気そのものがゆ
るやかに揺れる。
その香は、祝いの挨拶であり、同時に牽制の刃でも
あった。
“おめでとう ” ではなく―― “この場の意味を忘れる
な ” と告げる、無言の圧力。
都で最も贅を尽くした館であり、呼ばれることそのも
のが貴族の誉れとされる場所。
実房は、その風潮をわずか半年で作り上げた。
館の東翼には左大臣家の私的な部屋が連なり、蒼倉の
宮を護るための守りが敷かれている。
当主の実房と嫡男・忠晴が交代で内裏から通い、信頼
の置ける家人を常に配していた。
中央の主室には白雪が暮らし、西翼の一角に兼雅の
居所がある――婿入りとは名ばかりの、政の只中であっ
た。
列席者たちの顔には、薄い笑みと張りつめた気配が同
居していた。
「内大臣ご昇進、誠にめでたいことにございますな」
実房の声は穏やかだった。
しかし、その裏に潜む意図は、場の誰の耳にも鋭く刺
さった。
「これを祝いまして、ささやかながら贈り物をご用意い
たしました」
その一言で、空気がふっと変わる。
俊遠の笑みは崩れない。だが膝の上で握る扇が、ぱき
りと鳴った。
兼雅は盃に口をつける――三度目。酒は一滴も喉を通
らない。
「二条の東に、ひとつ屋敷を設けました。
白き壁、白き畳、白梅の植え込み。
これからの新内大臣・兼雅殿にふさわしい、清らかな
館です」
ざわり、と列席者たちの間に波紋が走った。
「……屋敷を?」
俊遠の声にわずかな揺らぎが滲む。
実房は動じず、ゆるやかに微笑んだ。
「左大臣家からのささやかな誠意でございます。
名は――白銀香殿。そしてそこには、末の娘・白雪を
住まわせるつもりでおります」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
俊遠の手が、扇を握ったまま震える。
隣の兼雅の指からは、盃を支える力が静かに抜けて
いった。
「ほほう……これはまた、光栄なことで」
俊遠の声は乾いていた。
列席者は誰も咎めない――皆、理解している。
これは祝いではない。これは差し出しだ。
娘と香と屋敷。
その三つを贈るとは、すなわち――
『お前を、味方にする』
という静かな宣戦布告。
周囲では、抑えた声がさざめく。
「白銀香殿……まるで香の館ですわ」
「白雪の君、あの美しさで……」
「設えも、ただの祝いとは思えぬ」
俊遠と兼雅は視線を交わさない。
だが、同じ笑みを貼り付け、その奥で同じ言葉を呑み
込んでいた。
(……罠だ)
左大臣は香で誘い、筆で封じてくる。
誰もが悟っていた。それでも断れぬ。
俊遠は、追い込まれながらも僅かな昂ぶりを覚えてい
た。
内大臣家と左大臣家――この二つが組めば、都で敵う
家などない。
展開は、すでに読めている。
その夜の締めくくり。
普段はこうした宴に関心を示さぬ帝までもが、この一
件に興味を寄せ、一首を贈った。
「白銀に 香を閉じ込め 筆の音
咲かぬ花にも 春はくるらん」
それは、白銀香殿に与えられた最初の、そして静かな
“命令 ” であった。
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