1-第2話 青き宮、帝の御前に
白銀香殿――。
香りに満たされたその館は、都の誰もが羨む贅のかぎりを尽くした邸宅である。
白壁に映える白梅、敷き詰められた白畳は淡い光を湛え、来る者を別世界に誘う。
左大臣・実房が贈ったこの館は、今や貴族の間で「招かれることが一種の名誉」とされるほどの流行を作り出していた。
だが、その内実はただの華やぎではない。
兼雅と白雪の新居として贈られた白銀香殿には、左大臣家の一族や腹心がひそやかに暮らしていた。
なかでも、実房の嫡男・
その存在――
今の宮中は、
そして今日の招待客は葵皇太后の兄である前・内大臣の俊遠と、その子新内大臣兼雅である。
宮廷の者は皆、彼らが一言発すれば、その重みを察した。
その二人に、実房は正面から挑みかかりこの二人をも取り込もうとしている。
そして今宵。
御簾の奥で交わされる宴の最中、空気がふっと変わった。
蒼の衣を纏い、筆を持つひとりの少年が姿を現したのである。
その歩みはゆるやかでありながら、歩を進めるごとに周囲の囁きが遠のいていく。
やがて、ざわめきすら吸い込むような静けさが訪れた。
「……蒼倉の宮」
誰かが低く呟く。
左大臣家が“遠縁の宮”とだけ紹介する少年。
しかし、その筆が帝に許された唯一無二のものであることは、都中の知るところであった。
俊遠は、その横顔に視線を留める。
筆を取る前、少年がわずかに目を伏せた――その目元に、覚えのある形があった。
(……あの少年、さるお方に似ている)
名を呼びかけそうになった唇を、俊遠はそっと閉ざした。
今は確かめる場ではない。
その既視感は、香のように胸の奥にひそやかに沈んでいった。
「蒼倉の宮様、お詠みくださいませ」
女房の促しに、少年は無言で頷く。
筆に墨を含ませた瞬間、わずかに香が漂った。
それは薫物でも、紙に焚き込まれた香でもない――まるで筆そのものが香っているかのような錯覚だった。
そして、手も美しく、さらりと玄人の詩人のような五行の詩を書き記す。
霞立ち 帝のまなざし 空を照らし
筆のかげさえ 春の風かな
筆先が紙を滑るたび、香が空気の層を裂く。
その筆跡は、目に見えぬ刃のように場の空気を研ぎ澄ませた。
御簾の奥で、明澄帝がわずかに微笑む。
その笑みを見逃さなかったのは、
紫鳳――左大臣家の二の姫。
亡き第一皇子・
静なる姉と奔放な妹の間に生まれ、幼き日より“調和”を宿命づけられた者のまなざしだった。
蒼倉を「ただの書の才ある子」と語る紫鳳の眼差しには、かすかな翳りが宿っていた。
それは血筋ゆえの避けられぬ宿命を、誰よりも知る者のまなざしだった。
その横で、実房は無言のまま。表情には出さないようにしている。
勝利を確信しながらも、それを決して顔に出さぬ老将の姿である。
俊遠は扇を握りしめた。
「……あの少年まで、駒として送り出すとはな」
誰にともなく呟くと、兼雅が深く頷いた。
この場では、声高に語る者よりも、沈黙を守る者の方が強い。
香も、筆も、政も――語らぬほどに相手の内奥を抉る。
その静寂の中で、ひとりの少年が小さな筆を握りしめていた。
そして実房の孫、左大臣家の皇子である。
次代は左大臣家の実房の権威になる。そう宮中では囁かれる。
東宮は憧れの眼差しで、唇をそっと噛み締め、蒼倉の筆遣いを凝視していた。
「兄様の筆……風のようだ。でも、まだ僕には……飛ばせない」
誰にも届かぬその呟きは、香の中に溶けて消えた。
遥和にとって蒼倉は、憧れであり、目標であり、越えるべき影でもあった。
そしてもう一人――。
女御の位で東宮の実母の彼女は殿の名前ではなく、宵羽の女御様と呼ばれている。
妹たちを見守るまなざしと、後宮の底に沈む記憶が御簾の奥で交差していた。
彼女の視線は深く、静かで、あたたかい。
それは“母”の眼差しであり、同時に左大臣家のこれからの栄華にむけたものでもあった。
誰に向けられた想いかは、彼女だけが知っている。
後宮を、蒼の香りが包んでいく。
誰も語らぬが、確かに政の流れは動き出していた。
その中心に、蒼倉の筆があった。
この筆が、この国の未来を変える――
まだ、そのことを知る者はいなかった。
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