君のいた雨

ET

君のいた雨


「いいえ違いますわ!この地面は大きな亀に支えられていて、その上に4頭の象がいて、その上にわたくしたちはいるんですのよ!」


ひとりの婦人が叫ぶように答えた。聴衆は皆彼女に同調して、「デタラメだ」などと私を非難した。

きっと喜ばれると意気込んで用意した土星のデッサンを、私はそそくさとしまった。

望遠鏡で実際に見えた姿をもってすら、迷信を覆すことはできないのか。


 この聴衆に、最後に何を伝えよう。せめて一つくらい、何か伝わらないのか。

私は、改良中の顕微鏡を使い観察したあるもののスケッチを紹介した。聴衆がざわつく。


「これは、セイヨウイエダニの成虫のスケッチです。

皆さまも不思議に思ったことはありませんか、服を叩くと飛び散るこのホコリは一体何なのだろうと。今、皆さんも知ることになりました。私が普段着ている服を調べたところ、1万を超える数のこれが、服に潜んでいることが分かりました。

ガラスは私たちの見ている世界を変えるのです。私たちは新しい目を通して、私たちが自分の世界を何も知らないということを知るのです」


幾人かの女性が失神した。








 科学技術の到来により、新しく生まれ変わろうとしている世界。今までの常識は、無知と怠惰の伝統でしかない。

 それでも大衆の反応は鈍い。まるで無視を決め込むかのように、電気の発見、蒸気機関の発明、力織機や測量法の改良にも心を閉ざす。


「無理もないか…」


望遠鏡を使って初めて見た土星のデッサンを眺めながら、ユアン・エスコシアはため息をついた。

土星に輪があったなんて。

なぜ土星だけが輪を持っているのか、あの円盤は何でできているのか、一体誰が、どこから浮かせているのか。疑問は尽きない。

 私たちは、変化を受け入れなければならない。例えそれが別れを意味するとしても。私は、変化を受け入れる準備ができている。そう、自分に言い聞かせる。

間もなく、魔法は止んでしまうから。




 ユアンの家は代々、小さな町工場を経営している。そこで、ランタンやランプ、シャンデリアなどのガラス、金属加工をなりわいにしている。ユアンは仕事の合間を縫って、出資者探しに奔走した。

 今日の彼は、とある地方新聞社の前に立っていた。見上げた門には『力を持つもの、務めを果たせ。見守るものよ、ペンを取れ』とラテン語で書かれていた。




「君はその、手作りの筒で花や空や虫を眺める方が、魔法で国を防衛したり病気を治療するより優れていると言いたいのか」

「いえ、そうではありません。魔法は最も価値ある才能です。しかし、魔力を持つものの数は年々減ってきており、しかも、彼らの力は少しずつ弱体化しています。そう遠くない未来、社会システムを機能させるために、魔法への依存を止めなければならない日が来るでしょう」

「下らない。力を持つものが国のために尽くせば良いのだ。その筒や虫眼鏡は、一体なんの役に立つというのかね」

「これは開発中の顕微鏡です。まだ試作品ですが、厚いガラスの表面を湾曲させることで、非常に小さい世界を拡大して見ることができます。これを使って、いくつかの病気と関連のある極小生物を発見することができました。これにより、病気の予防が可能になり」

「それで何人の命が救えたのかね」

「……それは、」

「3万6877人。去年、魔法省医療部門が救命した人数だ。そうだったね、ガリレオ君?

魔法でできることを、今さらそんなオモチャでやろうとする奴があるか。さては君、魔法が使えないんだろう。そんな子供騙しで対抗したところで、持たざる者に用はない。帰りたまえ」










「わたしは…何をやっているのか…」


ユアンは作業場に座り、暗闇に向かってつぶやいた。

やがて重い腰を上げ、蝋燭に火を灯した時、土の匂いが濃くなったのを感じた。雨が近づいている。


 思いつくのは、コルセットをした女性を数人失神させた事だけ。完璧な凸レンズを求めて、完璧さを損なう数千通りの原因を編み出し、レンズとは呼べない代物を無数に生み出してきた。一体私は何のために、こんなことをしているんだったか。



ふらりと立ち上がり、窓枠に指を滑らせ、指先を雨に濡らす。

水滴は美しい。誰も手を加えていないのに、完璧なレンズを作り出してしまう。

雫を炎に透かすと、ユアンは少しだけ集中した。


雫の中に、都市が見えてくる。祖国、あるいはどの国の都市とも違う、何かが整然と配列された、奇妙な都市。ヤコウチュウやホタルに似た、柔らかく暗く鮮やかな光を放つ、夜の都市。それを、鳥のように上から眺める。

ユアンは、自分が見ているものが分からない。

いつものように、ある人物を思い浮かべる。場面はさらに拡大され、暗さを増し、書庫のような広い空間を映し出す。そこには、ある人物がいた。ここで唯一の住人、彼の実の兄である。

彼はこちらの視線に気づくこともなく、何かを読んでいる。いつもそうだ。

ユアンは、指先に兄を飼っている。


 多くの魔法使いと同様、ユアンは幼い時から自分の力を自覚した。彼は、指先の雨粒を介した極小の空間に、人を自由に移動することができた。

結果的に最後となる魔力の行使として、彼は兄をここに閉じ込めてしまった。もう10年以上前のことだ。

 ある時期を境に魔法の力が急速に弱まる現象は、近年国中で広まっていて、魔法の力を完全に失った知人も幾人かいた。ユアンは、今でも都市を覗くことはできるものの、人を移動したり連れ出すことができなくなった。最後に力が暴発し、兄は、ユアンすら見たことのない、書庫のようなこの空間に閉じ込められてしまったのだ。ユアンは兄が生きているのかも分からない。兄はこの雫の中で何年も、何も食べていないはずだ。大人になった今なら分かる。兄は仮に外に出られたとして、生きていられるのか。雫を通して見る兄は、依然として人間なのか。私は魔法で幻覚を見ているだけで、本当は兄はもうどこにもいないんじゃないか。


 ユアンは、兄をここから出す方法が分からなくなって、自分がいかに理解できないものを扱っていたかを思い知らされた。魔法は今や、不安定で信用ならないものだ。ユアンは魔法に答えを求めるのをやめ、魔法で自分たちがしてきたことの仕組みを科学で解き明かすと決めた。



「兄さん…僕は…あなたに謝りたいんだ。私を許してくれ。私はあなたを救い出すためなら何でもする」




 それから数日後、例の新聞社からユアン宛てに一通の手紙が届いた。送り主は、ガリレオ・Gと書いてあった。編集長の名前とも違うし、ユアンは心当たりがなかった。


 手紙は、社長秘書であるガリレオ氏からの私信だった。期待していた資金援助の話ではないと分かり、私はがっかりした。

ガリレオ氏は、私の望遠鏡と土星のデッサンに非常に興味を示し、共同研究をしないかと持ち掛けてきた。あの編集長の元で、彼も相当肩身が狭いと思われる。

 星は私の専門ではないし、本音を言うなら、望遠鏡より顕微鏡に注力したい。それでも、ガリレオ氏の提案はやっと巡ってきたチャンスなのかも知れない。

ガリレオ氏の人脈、立場から想像する資金繰り、2人の知識を合わせて研究を分担することによるメリットなどを考えるにつれて、ユアンはどうしようもなく浮かれた。ユアンはガリレオ氏の話を快諾した。



 兄に報告しようと、ユアンは雨を待った。雨は、すぐ翌日も降った。これは幸先がいいと、ユアンは大喜びで手のひらを雨にかざした。最初のひとつぶを捕まえてやると、事故の日と同じせりふを無意識に口ずさんだ。


弾む息を抑え、集中する。


「…え、」


何も見えなかった。

何度やっても、雫は雫のまま。自分の幼い皮膚が、艶めいて見えるだけ。ユアンは兄の消息を、自分の魔力と共に、完全に失った。







 ジェームズ・ワトソンとフランシス・クックがDNAの二重螺旋構造を発見するのは、それからおよそ150年後のことである。染色体は、優しく光を放つことが知られる。その神秘的な光は、いのちの色と言われている。





おわり

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