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風がやわらかく頬をなでる。
ルーシアはそっとカップを口に運び、紅茶の香りを楽しんだ。
ほんのり甘い香りと、微かな渋みが舌の上に広がる。その穏やかな風味の奥に、何かがほどけていく感覚があった。
「……なるほど、確かに評判通りの紅茶だ」
つぶやく声は静かだが、確信に近い響きを帯びていた。
ルーシアの言葉に、カトレアは微笑みながらカップを置き、フィオナはスコーンを手にしたままルーシアを見つめていた。
「カトレア」
ルーシアは優雅に背を伸ばし、ゆっくりと視線を向ける。
「私はさっき、犯人という言い方をしたが……これはあくまで仮説に過ぎない。特別な捜査権限があるわけじゃないし、今から話す内容を裏付ける確実な証拠はない。そこは理解してもらいたい。いいな?」
「はい……」
カトレアの声には、無意識の緊張が滲んでいるようだった。
「もし私がこの事件の担当者だったら、最初に的を絞るのはエリザだろうな」
フィオナの手が止まり、カトレアのまなざしがわずかに揺れた。
テラスの空気が、一瞬だけ張り詰める。
「重要参考人としてラークを取り調べしつつ、実際に監視すべきは彼女。エリザに対して人員を割き、身辺を徹底的に洗って証拠固めを進めていると思う」
ルーシアはカップを静かに置き、細長い指先でそっと取っ手をなぞる。
「ど、どうして……?」
「おそらく、魔法監察官もそう動いているんじゃないか? これだけ違和感が漂っていればな」
フィオナは思わず手を挙げる。
「先生! フィオナは全然わかりません!」
「カトレアもわかりません」
カトレアまで同じように手を挙げるものだから、ルーシアは呆れ顔で呟いた。
「……二人は本当に最近知り合ったばかりなんだよな?」
あまりに息が合いすぎていて、もはや疑うレベルだ。
二人の熱視線を受けながら、ルーシアはため息をつきつつ、カップを持ち直した。
紅茶を一口飲み、瞳を細める。その仕草はまるで、貴族のお嬢様が舞踏会で観客の目を楽しませるような、優雅なものだった。
「そもそも、なぜ"悲鳴が聞こえなかった"という暗示をかける必要があったのか?」
その言葉に、フィオナとカトレアの表情が引き締まる。
ルーシアはゆっくりと指を一本立てた。
「それは、"悲鳴が本当に聞こえなかった"からだよ」
「え?」
ふたりの眉が揃って歪む。
カトレアが身を乗り出すようにして問い返した。
「三人は"悲鳴が聞こえなかった"という暗示をかけられていたんですよね? なのに、本当に悲鳴が聞こえなかったんですか……?」
「そう」
ルーシアは頷き、すっとカップを置く。
そして、まっすぐにカトレアを見据えた。
「そこが鍵さ。"悲鳴が聞こえなかった"という暗示をかけることで、容疑者たちの記憶に、ある"錯覚"を植えつけるのが目的だった」
カトレアが静かに眉を寄せた。
フィオナはスコーンをつまんだ手を止め、考え込むように腕を組む。
「ちょっと待って……暗示って、普通は"あったことを忘れさせる"んじゃない? じゃあ"悲鳴が聞こえなかった"って暗示をかけたところで、もともと聞こえてなかった場合、意味ないよね?」
「普通に考えれば、そうなる」
ルーシアは言葉を継いだ。
「だけど、そこにこそ、仕掛けがある。"悲鳴が聞こえなかった"という暗示をわざわざかけることで、逆に"本当は聞こえていたんじゃないか"という疑念を、レオナルドとラークに抱かせるんだ」
フィオナの目が大きく見開かれる。
「……え、それって、心理的な逆転を狙ったってこと? "聞こえなかった"って信じ込まされたってことは、逆に"聞こえた気がする"って思っちゃう……?」
「そう」
ルーシアは静かに頷く。
「レオナルドもラークも、"聞いた気がするけど記憶が曖昧だ"と証言していた。だが実際には、悲鳴なんてあがっていなかったんだ。だから、あの"曖昧な記憶"は……」
「暗示のせいで、あとから刷り込まれた錯覚だった……?」
カトレアが低く呟き、言葉を継いだ。
よ
「つまり、最初から"悲鳴がなかった"という事実を隠すために、"なかった"ことを暗示で上書きして、"あったかもしれない"と錯覚させる……」
「その通り」
ルーシアの声は静かだったが、テーブルの上の空気がわずかに緊張を孕んだ。
「エリザは、みんなが悲鳴を聞いたと思い込んでくれるよう、仕向けたんだ。そしてその"聞いた気がする"記憶をベースに、ラークを陥れようとした」
フィオナが息を呑み、小さく言った。
「……じゃあ、事件そのものが、記憶操作の上に成り立ってた……?」
「そういうことになる」
ルーシアはわずかに唇の端を持ち上げた。だがその微笑は、どこか苦味を帯びていた。
「犯行時、一人だったラークに罪を着せる。そのために、彼の持ち物に血の付いたタオルを忍ばせるような工作まで行った……用意周到な罠だよ」
カトレアは沈黙したまま、カップを持ち上げた。
白磁の縁に触れる指先が、かすかに震えていた。
「……でも、ルーシアさん」
声を落としたまま、カトレアが問う。
「なぜ、それをあなたが見抜けたのですか?」
ルーシアは微笑を崩さず、紅茶の香りを一つ吸い込んだ。
「……"証言"に、違和感があったんだ」
カトレアとフィオナが同時に身を乗り出す。
「どういうこと?」
「聞き取り記録の中でな、ラークは"悲鳴が聞こえた"とは一言も語っていない」
「それって、単に言わなかっただけかもしれないよね?」
フィオナが尋ねる。
「そうだ。自分が疑われるかもしれないから、あえて言わなかった可能性もある」
ルーシアは優雅にカップを置き、視線を二人へ向ける。
「問題は、もう一人――レオナルドも、"悲鳴"について明確には語っていないことなんだ」
カトレアがわずかに目を見開く。
「でも……レオナルドは“悲鳴が聞こえたような気がする”って言っていたはず……」
「そう。"聞こえたような気がする"だけなんだよ」
ルーシアは静かに言った。
「つまり、二人は"悲鳴を聞いた"という明確な記憶を持っていない。けれど、"聞いた気がする"と思い込んでしまっているだけなんだ」
フィオナが息をのむ。
「……じゃあ……エリザは?」
「エリザだけは、『女性の悲鳴が響いた』と、証言している」
カトレアの目が鋭く細められる。
「それが……違和感ということですか?」
「そうだ」
紅茶のカップを指先で回しながら、ルーシアは淡々と続ける。
「悲鳴について最初からはっきり言っていたのは、エリザ一人だった」
フィオナが首をかしげる。
「でも、エリザが実際に聞いた可能性もあるよね? 悲鳴が本当に上がっていて、エリザだけが聴こえる位置に立っていた、とか……」
「その可能性は薄いな」
ルーシアは即座に否定した。
「エリザがいたのは五階の廊下だ。議会場は一階。距離も、遮る建物も多い。悲鳴の内容どころか、方向すら明確に特定できるはずがない」
ルーシアは視線をテーブルに落とし、記憶をなぞるように言葉を紡いだ。
「なのに、なぜか彼女は"議会場からだ"と即座に宣言した。それが気になったんだ」
ルーシアはどこかため息交じりに告げる。
「エリザはあくまでレオナルドが先頭を走り、自分は後を追った、と話していたが……レオナルドは、"エリザに、"議会場からだ"と言われて走り出した"と証言している。つまり彼は、自分の判断で議会場に向かったわけじゃない。導かれたんだ。すべて、エリザの言葉に」
カトレアが小さく目を見開く。
「では……彼は、本当に悲鳴を聞いていなかった……ということですか?」
「おそらくな。曖昧な記憶の中で、そう言われたから、そうだった気がしてきた……そうやって刷り込まれた」
「じゃあ……やっぱり悲鳴自体が……」
フィオナが思わず口にしかけ、目を丸くする。
「……あぁ。"悲鳴"なんて、最初から上がってなかった可能性がある」
ルーシアは静かに頷く。
「もしエリザが事前にセシリアを殺害していたのなら、悲鳴は必要ない。ただ、"悲鳴があったことにしたい"だけ。だから、他の二人に"聞こえなかった"という暗示をかけて、後から"記憶に矛盾"を作り出す。『あれ? 本当は聞こえたのかも』ってな」
「……ぞっとする……」
フィオナがスコーンを握る手を止めた。
「悲鳴を起こさず、記憶の中だけで悲鳴を存在させる……」
カトレアが低く呟く。
「それが"聞こえなかった"という暗示をかけた理由だよ」
ルーシアは冷静に言い切った。
風が静かに吹き抜ける。
学院のカフェテリアのオープンテラスは、午後の日差しを受けて穏やかな空気に包まれていた。
テーブルの上には、まだ湯気の立つ紅茶と、焼きたてのスコーン。
だが、今、誰も手を伸ばそうとはしなかった。
しかしルーシアだけは、ティーカップを持ち上げ、琥珀色の液体をそっと揺らした。
「……じゃあ、やっぱりエリザが犯人?」
フィオナの声が、穏やかな空気をわずかに震わせる。
「それを証明するには、まだ証拠が足りない」
ルーシアはカップをゆっくりと置く。テーブルに差し込む陽光が、揺らぐ影をつくった。
「でも、それを見つけるのは魔法監察官たちの仕事だよ。権限もない私たちにできることは限られているからな」
現状を踏まえた冷静な言葉だったが、その響きの奥には確かな確信があった。
これ以上深入りすべきではない。少なくとも、表向きは。
カトレアはゆっくりと頷く。
「そうですね……動機や証拠までは、私たちにはわからないですもんね」
「そういうことだ。それを調べる権利はないからな」
カトレアは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。今のルーシアさんのお話、魔法監察官の方にお伝えしても?」
「構わないが……あくまで想像の話だってことは理解しておいてくれ。あと、私達の名前は出さないでくれればな」
「わかりました」
ルーシアは軽く息を吐く。
ようやく、一息つける。そう思った矢先だった。
フィオナが、口にスコーンを入れながらも、ふと顔を上げる。
「うーん……でも、ちょっと引っかかることがあるんだよね」
「……何がだ?」
ルーシアが目線を向ける。
「仮にエリザが犯人だったとしてさ。エリザが完璧に、何も証拠を残してなかったら、説明できないってことだよね」
ルーシアはスコーンに手を伸ばしかけたが、ぴたりと止めた。
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