第11話

 地の底から響くような重低音が耳を打つ。

 苛立ちが膨らむ前に、それが耳鳴りだと気付く。

 和輝は吐くように息を零した。八つ当たりをする相手すら見当たらない。それが余計に腹立たしかった。


 書店で昏倒して、気が付けば古びた建物の中にいた。天井が高く、だだっ広く閑散としている。殴られた後頭部が鈍く痛み、出血しているのか首筋が冷たい。


 安っぽく座り心地の悪い椅子に、縄で幾重にも巻き付けられている。背中で手首は拘束され、何を警戒しているのか、両足も固定されていた。


 下腹部がぐるぐると唸る。込み上げて来る嘔吐感を、奥歯を噛み締めてやり過ごす。


 あれからどのくらいの時間が経ったのか解らない。

 根比べもそろそろ限界だ。足元に置かれた洗面器を恨めしく思った。




「吐くならバケツ、漏らすなら床でやれ」




 自分よりも30cm以上大きな男が、口角を釣り上げて言った。


 ふざけんな。

 胸の内に吐き捨て、睨むのが精一杯だった。

 喉の奥に熱い何かが込み上げる。


 胃腸薬じゃなかったのかよ。効かない訳だ。

 じゃあ、何の薬だったんだよ。


 麻薬の類なら、既に消化吸収されているはずだ。ならば、自分の腹の中にあるのは一体何なのだろう。自分は何を呑んだのだろう。


 腹が痛い。目眩がする。吐き出せば多少はすっきりするだろうが、それであのカプセルが出て来れば自分はもう用無しだ。こんなところで死ねない。


 疲労感に俯くと、美しく磨かれた革靴が映った。顔を上げれば、スーツを着た偉そうな男が笑って見下ろしていた。


 男が何かを言った。

 取り囲んでいる男達が、木々がさざめくように笑ったのが解った。

 きっと、馬鹿にされたのだろうと思うが、最早聞き取れなかった。


 お前、胃腸炎がどれだけ苦しいか知っているのか。高熱が出て、水分を取らないと死ぬこともあるんだぞ。ウイルスの感染がどれだけ怖いか知っているか。


 こいつ等にも伝染れば良い。胸の内で罵倒するだけで限界だ。口を開けば食道を逆流して、吐瀉物が出て来そうだ。




「君は有名人みたいだね。巷じゃ、ヒーローだなんて呼ばれているそうじゃないか」




 知るか。和輝は胸の内で吐き捨てた。

 和輝が黙ると、男は気を悪くしたように詰め寄る。前髪を引っ掴まれるが、目は逸らさない。逸らしてなるものか。怒声が頭蓋骨に響き、目眩がした。




「いい気になっているから、こういう目に遭うんだ」

「は、」




 息を吐き出すように、和輝の口からは笑いが漏れた。嘔吐感を飲み込めば、ぐらりと視界が揺れる。それでも、おかしくて堪らなかった。





「はははははっ!」




 冷や汗が、頬を伝って顎から落ちる。

 男が眉を寄せ、恫喝的に凄んだ。




「何を笑ってやがる。ヒーロー気取りの馬鹿が」




 前髪を掴まれたまま、和輝は笑った。

 ランナーズハイなのかも知れない。助けの望めない絶望的な状況で、神経が狂っているのだろう。




「ヒーローなら、尚更、悪には屈せないね」

「――この、クソガキ!」




 振り上げられた男の拳が、和輝の頬を打ち付けた。肉を打つ乾いた音が脳内に響く。口の端が切れ、血が一筋零れ落ちた。けれど、痛みは感じなかった。ドーパミンが過剰分泌されているのかも知れない。そんなことを、興奮した脳の隅で思う。


 口の中に血の味が口に広がる。

 血と唾を吐き捨て、和輝は挑むように笑ってみせた。




「俺は昔、正義の味方になりたかったんだ」




 母国の言葉で、和輝は言った。

 理解出来なかったらしい男達が一様に眉を寄せる。


 絵に描いたような三下共だ。人質の言語も理解出来ないで、情報を喋ったらどうするつもりだったんだ。


 こいつ等は組織の末端。失うものが無いから、無謀なことをする。だから、簡単に人を殺す。


 名も知らぬ男たちが突然撃たれ、命を奪われた。目の前で、音もなく命が終わった。どうしようも無い屑だったのか、極普通の善人だったか、もう知ることも出来ない。


 俺は昔、正義の味方になりたかった。窮地に駆け付ける五人組、悪に立ち向かう不死身の勇者。でも、正義の味方は、善人と弱者しか救えない。俺は限界を知っている、ただの無力な小僧だった。


 俺は何になりたいのだろう?


 銃口が眉間を捉えている。耳を劈くような高音が鳴り響いて、辺り一帯がモノクロに染まって見える。


 九回裏二死満塁。カウントはすべて埋まり、敵も味方も背水の陣。あの頃の極限の集中と興奮が、神経を冴えさせる。


 高校を卒業して、家族も仲間も置き去りにして、生き急ぐように渡米して、追い込むように働いて、――俺は何になりたいんだろう。


 涙を堪えて送り出してくれた友人が、脳裏を過ぎる。


 いってらっしゃい。


 ああ。俺はまだ、ただいまを言っていない。

 目的地は無くても、帰る場所はある。


 この胸を昂らせる熱が自己満足なのか、自己犠牲なのか。命の実感なのか、限界への挑戦なのか。もう解らない。


 でも、目指したものはあの頃と変わっていない。

 ここはまだ、夢の途中なんだ。




「将来の夢? さ」




 告げた瞬間、ぶつりと視界が闇に染まった。


 死んだのかと思った。けれど、暗闇の中で男達の動揺が聞こえる。罵声、怒声、混乱に満ちた暗闇の中で呻き声が漏れる。何かを打ち付ける鈍い音だ。誰かが、戦っている?


 電気を点けろ。怒鳴り付ける声がする。


 悲鳴が。怒号が。




「和輝」




 誰かが、耳元で呼んだ。判別出来ないけれど、それは故郷で帰りを待つ人の声に重なって聞こえた。


 視界は明転した。霞む視界に映ったのは、地に伏す男達の姿だった。


 何が起こったのだろう。理解が追い付かない。状況が読めない。屍累々といった物々しい世界で、物差しのようにひょろりと青年が立っていた。




「男前になったねえ」




 此方を見て微笑む青年が誰なのか、和輝には一瞬、解らなかった。




「葵?」

「うん。助けに来たよ」




 葵が微笑む。和輝の後ろでは、霖雨が拘束する縄を解いている。意味が解らなかった。




「なんで?」




 和輝が目を丸めると、葵と霖雨が苦く笑った。




「ヒーローには、仲間が必要だろ?」




 霖雨が言った。頭はまだ回らない。身体も鉛のように重い。けれど、胸の奥だけが、少しだけ熱かった。


 和輝は、数瞬遅れて笑った。


 漸く拘束が解かれ、ほっと息を吐く間も無く嘔吐感が込み上げる。蹲った和輝に、慌てたように霖雨が跪く。――その時だった。




「Fuck!!」




 昏倒していた筈の男が起き上がり、銃口を向けた。咄嗟に地面を蹴った葵が到達するより早く、男の指先は引き金に掛けられていた。


 間に合わない――。

 銃弾が放たれる刹那、男の顎に向かって空気を切り裂くように足が振り上げられた。強烈なハイキックだった。人体の急所を確実に捉えた一撃に、男の意識が弾け飛ぶ。


 男の体が崩れ落ちる。

 和輝は足を振り上げたまま、目を丸めた。咄嗟に体が動いていた。そこに冷静な判断なんてものは存在しなかった。




「びっくりした」




 足を下ろすと、視界が揺れた。

 その場に座り込み、溜息を吐く。




「そりゃそうだろう」




 霖雨が言う。

 最早、苦笑すら溢れない。


 倉庫の表からサイレンが聞こえた。今頃になって警察のお出ましらしい。葵が面倒そうに目を細めたので、和輝は言った。




「事情聴取なら俺が受けるから、先に帰っていても大丈夫だよ」




 頭は割れそうに痛いし、腹の底から何かが込み上げるけれど、彼等をこれ以上巻き込むことは出来ない。

 だが、葵は鼻を鳴らした。




「置いて帰ったら、意味無いんだよ」




 そう言って、葵が背中を向けてしゃがみ込む。




「帰るぞ、クソガキ」




 雪崩込んで来るFBI捜査官、NY市警を背景に葵が言った。和輝は目を伏せ、その背中に体を預けた。


 背中で吐くなよ。

 和輝を背負って、葵が立ち上がる。

 猫背で姿勢が悪いと口煩く注意して来たが、認識を改める必要があるようだ。奇襲とは言え、たった一人であの男達を倒したところを見るに、筋力が不足しているとも思えない。


 自分もまだまだだな。

 和輝は息を漏らすように笑った。




「寝るなよ。まだ家に着いてないんだから」

「もういいじゃん」

「駄目だ。おい、和輝、起きていろよ。――俺達は、お前におかえりって言う為に来たんだぞ」




 おい、聞いているか。

 葵は腹立たしげに言うけれど、和輝を背負って歩き続けていた。口も態度も悪いが、悪人ではないのだろう。不器用だが、優しい人間なのかも知れない。和輝は夢現に、そんなことを思った。


 不意に、懐かしさが込み上げた。

 遠い異国の地で会っただけの他人のはずなのに、何故なのか彼等から帰るべき場所の匂いがする。




「ただいま」




 つい呟くと、葵と霖雨は揃って足を止めた。

 帰って来たという安心感に包まれて、体が重くなる。瞼が下がり、微睡と共に意識が沈んでいく。




「寝言か?」

「いや、確かに言ったよ」




 葵と霖雨の声が遠くに聞こえる。

 生きて、帰ってきたんだ。




「おかえり」




 夢現に、葵と霖雨の声を聞いた気がした。

 夢かもしれない。霖雨はともかく、葵がそんなこと言うなんて明日は雪が降るかもしれない。でも、雪でも良いなと思った。葵の背中が温かくて、霖雨の声が子守唄みたいに心地良かった。

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