第10話
「何なんだ、あいつは!」
この世の不幸を嘆くみたいに、葵が叫んだ。
先程までの殊勝な態度が嘘みたいだった。
しかし、霖雨は口を結んだ。返す言葉もない。
警察署の喫煙所で、葵は堂々と煙草に火を点けた。強面の刑事達のど真ん中でもお構いなしだ。
葵は大きく煙を吐き出し、その場に座り込んだ。立ち昇る煙より存在感がない。霖雨が呆然としていると、彼は心底疲れたように顔を上げた。
「お前も相当なトラブルメーカーだな」
霖雨は俯いた。葵の言う通りだ。自分が、無関係の和輝を巻き込んで危険に晒したのだ。
霖雨が黙ると、葵は溜息を吐いた。
「まあ、あの場所にいたのがお前じゃなくても、あいつは同じことをしただろうけどな」
紫煙を燻らせ、葵は言った。
「蜂谷和輝。日本じゃ、結構な有名人だったみたいだな」
「どういうことだ」
「高校球児の頃、傷害事件に巻き込まれたらしいな。先輩は昏睡状態、自分は大怪我、マネージャーは自殺、加害者は少年院送り。所謂、厄ネタだな」
「なんだよ、それ」
「検索すりゃ、一発で出るぜ。SNSは、あいつがマネージャーを追い詰めたって、親の仇みたいに叩いていたらしいな」
どれも霖雨の知らない情報だった。
その頃、霖雨も葵も日本にはいなかったのだ。
「結局、マネージャーの件は全くのデマだった。父親から性的虐待を受けてたってさ。自殺の原因も、それ」
「……」
「でも和輝は、それを黙って飲み込んで、二年間、ボロ雑巾みたいに叩かれ続けた。マネージャーの名誉の為に、ね」
葵は一度だけ、唇の端を吊り上げた。
「高校生一人が背負うには、少々重たすぎる正しさだったろうけどな」
葵が冷ややかに笑った。
「その時の大怪我をリハビリで克服して、二年後には甲子園優勝だ。めちゃくちゃだよ」
「すごい」
有り触れた言葉だが、それしか言えなかった。
「で、卒業式も顔出さずに単身渡米。正式な医大に通った訳でもないのに、いきなり現場に放り込まれて、叩き上げで技術を覚えて──今じゃ、肩書きだけ立派な医者よりよっぽど頼られてる。まあ、こっちでも相変わらず目立ってるよ。ヒーローって単語、街で耳にしたら十中八九、あいつのことだ」
ヒーロー。その言葉を口の中で噛み締める。
その通りだ。彼はヒーローだった。弱きを助け、悪を挫く。――けれど、そんな人間が本当にいるのだろうか。霖雨は疑問に思った。
「……今朝、和輝が言っていたことの意味が解った。認められたかったんだな、きっと」
極端に自己評価が低く、自己肯定感が希薄。あのヒーローのような振る舞いは、自己犠牲だったのだろう。だが、真実は和輝にしか解らない。
葵は言った。
「そんなタマじゃないだろ」
口調こそ強いが、何か思うところがあるらしかった。葵は目を細め、黙って喫煙所を出て行った。
霖雨はその後を追いかけた。滞在した時間は僅かなのに、衣服にはべったりと煙草の臭いが染み付いている。
警察署の入口は西日で赤く染め上げられていた。葵の影が長く落ちる。霖雨は追い縋り、葵の腕を掴んだ。葵が振り返り、口を開く。彼が文句を言うよりも早く、霖雨は叫んだ。
「和輝を助けたい!」
怪訝に葵が眉を寄せる。
「それは、警察の仕事だ。死ぬぞ」
「でも、放って置けない。俺が、無関係のあいつを巻き込んだ……」
「お前が責任を感じる必要はない。あいつも、そんなつもりで庇ったんじゃないだろう」
「それでも!」
これまで、幾つもの言葉を呑み込んで来た。幾つもの状況を諦めて来たし、逃げて来た。
けれど、それではいけない時が必ずある。
「あいつ、行くところが無いって言っていた。今の和輝にとって、あの家は帰る場所じゃないんだ。だから、いってきますなんて言わないし、おかえりも求めない。……俺はただ、おかえりって言ってやりたいだけなんだ」
「自己満足だな」
「そうだ。マイノリティーは生き難い。和輝はそう言ってた。でも、そういう人間に救われる人は必ずいるんだ」
「まあ、生き難いだろうな」
葵は肯定し、逡巡するように腕を組んだ。
そして、僅かに目を細めて確認するように問い掛けた。
「あいつ、怪しい薬だって言いながら、俺が渡したから薬呑んだんだよな」
「うん」
馬鹿だなあ。
葵が、ぽつりと笑った。
自嘲と、それでも残っていた少年の名残が滲んでいた。
こんな風に笑うんだな。笑えるんだな。
霖雨は密かに驚く。
葵は大きく背伸びをした。
「仕方無いな。家賃未納だしな」
「葵……」
「それに」
葵が、白い歯を見せ子供っぽく笑った。
「俺も、和輝みたいな馬鹿な人間、嫌いじゃないんだ」
霖雨の中で、何かが音を立ててほどけた気がした。
それだけの理由で、世界がほんの少し、動き出すこともあるのだ。
「ついて来いよ」
夜の匂いを連れて、葵が歩き出す。
導かれるまま、霖雨は後を追った。
星の見えない空の下を二人で歩いた。何も言わずに、それでも足並みは揃っていた。
湿った海風が頬を撫でる。どこかで犬が吠え、港の奥から鉄の軋むような音が響いた。
寄せては返す波が、やけに騒がしく耳に刺さる。
沈黙すら攫っていくようで、落ち着かない。港の片隅に、錆に覆われ、崩れ落ちる寸前のような倉庫の群れが、潮と鉄と死んだ埃の臭いを漂わせていた。
廃退的な空気を纏う群れは最期の神判を待つ哀れな仔羊のようだ。仔羊が息絶え死肉へ変わる瞬間を見計らう禿鷹のように、屈強な男たちが無言で包囲していた。
組織の根城の一つだと、葵は言った。男達の目を盗んで倉庫の側にぴたりと寄り添い、霖雨は息を殺す。
「FBIに通報したのか?」
「いいや。通報したって、無駄だ」
言葉の意味が解らず、霖雨は眉を寄せた。
葵は監視する男達を観察しながら、答える。
「証拠が無いから、踏み込めないんだよ」
「そんな。じゃあ、和輝が此処にいる証拠も無いじゃないか」
「証拠は無い。でも、確信はある」
「どういうことだ」
「説明は後だ。今は俺を信じろ。……それじゃ、駄目か?」
霖雨は首を振った。
彼がそれだけいうのなら、信頼出来る。怪しいと解っていて薬を呑んだ和輝を思い返し、霖雨は言った。
「信じるよ。だから、何をすればいい」
告げると、今度は葵が不思議そうに目を丸めた。
「……お前も、変わった奴だな」
煙のように笑って、葵は再び倉庫の方へ視線を戻した。
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