最終話 もう一度、プロポーズを
──結婚記念日。彼が選んだのは、豪華なレストランでも旅行でもなかった。ただの公園、でもそこは“あの日”と同じ場所だった。今度こそ、終わらせないために。彼はもう一度、指輪を差し出した。
二月の終わり、街は少しずつ春の気配を帯び始めていた。それでも、空気の中にはまだ冬の冷たさが残っている。
その日、俺たちは何気ない格好で家を出た。彼女はベージュのロングコートに、お気に入りのグレーのストールを巻いていた。
「どこに行くの?」
聞きながらも、彼女は笑っていた。
「着いてきてくれればわかる」
それだけを言って、俺は彼女の手を取った。手のひらは少し冷たかったが、確かにそこにある温もりが嬉しかった。
車で走ること十五分。着いた先は、小さな公園だった。俺たちが付き合い始めた頃、よく来た場所。ベンチがひとつ、木の下に佇んでいるだけの、何の変哲もない公園だった。
「……覚えてる?」
彼女は驚いた顔で周囲を見回し、ふっと息を漏らした。
「まさか、ここに来るとは思わなかった」
「二十年前、あの月を一緒に見上げた夜を、忘れたことがないんだ」
あの夜。付き合いたての俺たちは、寒空の下で黙って月を見上げていた。ただそれだけなのに、不思議と心が通じ合った気がした。
そして今、その記憶を辿るように、同じ場所に立っている。
二十年という歳月の中で、俺たちはいくつもの岐路に立った。
流産した日のことは、今でも胸が痛む。赤ちゃん用品をそっとしまいながら、彼女が声も出せずに泣いていたあの姿。俺は、何もできなかった。ただそばにいることしかできなかった。
そこから、少しずつ二人の距離は広がっていった。
会話も減り、目を合わせることも少なくなり、ついには誕生日に“離婚届”が届いた。
だが、あの封筒には、もう一つの手紙と、二十年前に初めて観た映画の続編チケットが入っていた。
“もう一度、最初のあなたに会いたい”
彼女のその言葉が、俺の心を救った。
それから少しずつ、俺たちは距離を縮めていった。たわいのない会話、失敗して焦げたコロッケ、偶然商店街で会った彼女の両親──
「やっかいな娘ですが、これからもよろしくお願いします」
あの言葉が、何よりも心に残った。彼女を育ててきた家族が、今も変わらず俺を家族として迎えてくれた。その温かさが、嬉しかった。
そして──
「あなたの奥さんの弁当、美味いですね!」
会社の同僚・佐々が笑いながら言ったとき、彼女はちょっとすねた顔をした。
「誰にあげたのよ、そのお弁当」
「……ごめん、佐々に半分やった」
俺が謝ると、彼女はぷいと横を向いた。けれどその夜、いつもの倍の量の弁当を作ってくれた。
そんな日々が、少しずつ俺たちを結び直してくれた。
「今日は、君に伝えたいことがあって来たんだ」
俺はコートの内ポケットから、小さな箱を取り出した。
「え……?」
彼女の目が丸くなる。
「結婚記念日だし、形に残るものをと思って。だけど、これはただのプレゼントじゃない」
箱を開けると、中にはシンプルなプラチナの指輪が輝いていた。
「もう一度、プロポーズさせてください」
言葉にする瞬間、声が震えた。
「今度こそ、終わらせない。これからも、君と笑って、泣いて、老いていきたい。だから──俺と、もう一度、結婚してくれませんか?」
彼女は何も言わずに、ゆっくりと涙を流した。
「……そんなの、ずるい」
そう言いながら、俺の手を取って、彼女はうなずいた。
「はい、よろしくお願いします」
二十年前と同じ月が、頭上で優しく輝いていた。
帰り道、俺たちは手をつないで歩いた。言葉よりも、手の温もりが何よりも雄弁だった。
家に着く頃には、夜空には星がまたたいていた。
「また、来年もここで月を見よう」
「うん。二人でね」
それが、俺たちの新しい約束だった。
これからも、何度でも手を取り合いながら、生きていく。
──『再び、あなたと。』その物語は、これで終わりではない。
これは、何度でも始められる、ふたりの物語の続きなのだから。
再び、あなたと… ポチョムキン卿 @shizukichi
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