叶うるところ

叶うるところ


「寿命が永遠であればよかった」


買い物の帰り道、日和が呟いて、叶は顔をあげた。

夕日が見えた。


「えいえん?」

「ずっとってこと。終わらないもの」


ふーん、と頷いて、なんとなく理解してみる。

日和の言うことは、いつもわからないけど、今日はなんだかわかりそうな気がした。


生きている時間が、ずっと。


「どうして?」


首を傾げて訪ねた叶に、日和は少し考えたあとに話した。


「終わらなければ、誰も不幸にならない」


やっぱりよくわからない。


「どうして?」


もう一度だけ聞いてみる。

これでわからなかったら、最後にしようと思って。


「父の人生が終わることがなければ、私は生まれることはなかった。」


なんてことだと慌てる。

だって日和は、自分なんて産まれなきゃよかったと、そう言っているのだ。


どうしてと泣きそうになって、このうつくしいひとにそう思わせたのは誰だと怒る。

その感情を表にだすことはないけれど、下を向いて自分の手もとを眺めてみる。


そうやって落ち込んだようにすれば日和がかまってくれることを知っている。


「ごめんね。変な話をしたかもしれない」


ふわりと、日和の明るい色の髪が揺れた。日和は全体的に色素が薄い。

目も茶色くて、いつか日和が買ってくれた、「キャラメル」という甘いお菓子によく似ている。

さらさらと光る砂のようだとも思う。


どんな言葉をもってしても、日和のうつくしさを表すに足りない気がして考え込んでいると、どうやら本気で落ち込んでいると勘違いした日和が困ったように叶の頭を撫でる。


「大丈夫だよ、叶が生きている限りは、勝手に死んだりしないから」






叶にとって、日和は聖域だった。


春の木漏れ日が降り注ぐような桜の木の下で、初めて日和に会った。

すべてが日和のためにあるような華やかさで、日和はただ静かにそこに存在していた。


「こんにちは、叶さん」


世界で一番美しく微笑む人だった。

この人が声をあげて笑う姿はさぞかし美しいだろうな、見てみたいな。

心底そう思った。


「ひより…さま」


そう呼ぶと、日和は神様みたいに微笑んだその顔のまま、言った。


「これから家族となるのですから、そう呼ぶ必要はないよ」


想像したよりほんの少し低めの声。

優しくてふんわりとした雰囲気によく合っていた。


「カノ!」


母を愛していた。

おそらく母は、叶を愛してはくれていなかっただろうけれど。


母は暴力を振るう人だった。

ただ気が狂ったように暴力を振るうだけならば、見切りもつけられたのに、ずるいのは暴力の次の日のことだった。


「カノ、カノ、ごめんね。情けないママでごめんなさい。お腹が減ったでしょう。パウンドケーキを焼いたの。一緒に食べましょう」


家の外では見栄を張るように叶を引きずって歩く。

いたいいたいといくら言ってもしょうがないことはわかっていたから、叶は母の機嫌を損ねないように必死に足を動かす。


日和は家をでていく時、その神様の声で母を傷つける言葉を吐いた。

叶の負った傷を思えば、あの人の負った傷なんてどうってことないと日和はいう。


今では叶もそう思う。

そう思うのと同時に、母のことを忘れることもできなかった。


きっと母の泣き声を知っているのも、母の柔らかいところを知っているのも、母の目も当てられないような醜い顔を知っているのも、叶だけだった。


果てしないほどに長い時間があったことを覚えている。


冷たい蔵で膝を抱えて、暴力を待つだけの時間。

たまに優しい人が水とご飯を届けてくれる。

それを必死に口に詰め込みながら、嗚咽を堪えた。


母はもうケーキを作らなくなった。

暴力があって、それだけが残ってしまった。


お腹がへった。

いたいな、どこもかしこも全部痛いけど、頭がぐわんぐわんいたいのが一番気持ち悪い。


「ママ…?」


その日は一日の始まりから変だった。


珍しく母が来て、殴られたり蹴られたりを繰り返した。


あれ?

違和感を覚えた。


母は記憶にあるより随分と小さくて、叶は随分と大きくなったのだと、そんな事実に気がついた。


大丈夫、誰にもバレない、ちょっとした仕返し、ここまで我慢してたんだから。

足を引っ掛けて、転ばせた。


母はなにが起きたのか理解していないような顔で叶を見て、そのあと今までにないほど強く叶を痛めつけた。


「ぁ…ぁ゙あ」


ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


心からそう思って、何度も謝ったけれど、母は許してはくれなかった。


抵抗できる。

そう気づいてしまっても、叶はあの一瞬の母に対する罪悪感から相変わらず大人しく殴られ続けていた。


母はとても可哀想な人なのだ。

それを知っているのは叶だけで、叶のすべてを知っているのも母だけ。


あなたは、叶がとても優しい子であることを知っていた。

日和はそうやって叶を救った言葉で、母を貶めた。


どんなに厳しい言葉を吐いても、日和のそれは甘く透明なお菓子のようにざらざらときれいだった。








日和は昔のはなしをしない。

どうしてだか叶にはわからないけれど、日和は意図的に避けるというより、本能的な反射で昔の話を避けている。


「日和」


日和が正しい姿勢で本を読んでいる。

叶だったら背中が疲れてすぐにやめてしまうけれど、日和はずっとそれを続けていられる。


ソファって、多分そういうふうに座るものではないと思う。


本を読んでいる日和は、そのまま背景に解けていってしまいそうに見えるから、叶はその時間が嫌いだ。


「叶? どうしたの? 寝られない?」


静かな夜に相応しいような、甘い声色。


「どうして、日和は俺を助けたの?」


困ったように笑う。

笑って誤魔化す。きっと日和も自覚している、日和のくせ。


叶を救ったその優しさで、日和はいつもそっと叶を拒否する。


昔の話はしないで。

それだけ言ってくれればきっと叶も素直にわかって頷く。

そうわかっていながら、やっぱり曖昧に笑って誤魔化す。


「んー…、どうかな」


視線を落として、考え込むふりをする。

日和は完璧だから、そんな日和に叶はすぐ騙される。


「どうして、日和は昔を話さないの?」

「昔のこと…」


珍しく日和が意図のない言葉を呟く。


「叶にとって、辛い思い出でしょう?」


叶はきょとんと首を傾げる。


「どうして?」


日和はとても驚いたようだった。


辛い思い出。そうかも知れない。

昔のことを進んで思い出そうとは思わない。

つらい、辛い。

幸福を知るからつらいのであって、叶にはその記憶がなかった。


今日和と過ごすこの時間が幸福であるというのならば、あの時間は幸福の延長線であった。


日和は頷いて、顔をあげた。


「正直ね、話すことがないんだ」


困ったように話す。


本を閉じて、隣においでとぽんぽんとソファを叩く。

とことこと歩いて、日和の足元に座り込む。


「叶?」

「…ここでいい」

「…そう」


日和の膝に顎を乗っけると、日和はくすくすと笑って頭を撫でてくれる。


「私はね、特になにもない人生を送ってきたの」

「なにもない…」

「ええ。何不自由なく暮らしていたし、恵まれていたと思う。穏やかな日々だったの」


柔らかそうに見えて、叩くとこつんと音がなる。

日和の外側のコーティングは触れれば触れるほどその厚さを思い知らされる。


今だって日和はどこか遠い。

目を伏せてすべてを受け入れる神様のような顔で、叶に笑いかける。


「なにも?」

「…そうだね。なにか、あったのかも知れないけれど、私にはわからなかった」

「どうして?」

「実験の結果なの。叶はその実験に巻き込まれただけ。…気にしないで」


小さく落とされた声に、叶はなんとなく首を傾げて、目を閉じる。


今日はここまで。

日和がつかれたって言ってる。これ以上考えるのはいやだって。


さらりと日和が叶の髪を撫でる。

叶は目の色が明るい灰色の代わりに、髪は真っ黒だ。


母は父によく似たこの灰色の瞳を嫌った。


まだ優しかった頃の母が言うには、父はがんで亡くなってしまったのだと聞いた。

母は父が大好きで、私は港くんに一生分の恋をしたのと頬を赤らめて話していた。


母は愛がなきゃ生きていけない人だった。

きっと叶は母に母が求めるだけの愛を与えることができず、母もまた、叶に必要なだけの愛を伝える手段を知らなかった。

つくづく、どこまでも堕ちるしかない二人だったのだ。


「叶?」


ああいけない、日和が心配そうな顔で見ている。


「俺は…」


自分の一人称が俺であったことを久しぶりに思い出した。

長らく、自分のことを語り得る手段を持ち得なかった叶は今、初めて声に出して自分を呼んだ。


「日和がだいすきだよ」


どこまでも濃い愛をその瞳にたたえて、かつて母に囁いたように彼は言う。


「ありがとう」


日和はざらざらと低い、神様の声で愛に応えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かみさまの泣くところ @noa_0410

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る