3-5



*****



 夜になると、飛燕が言った通り久しぶりに龍宗が璃鈴のもとへとやってきた。休息も仕事のうちです、と飛燕になかば追い出される形でしつ室を出てきたのだ。


「お疲れ様でございました」


 今日も龍宗の顔には、ろうの色がくのっている。

 忙しくなれば、龍宗は自分の部屋にすら戻ってこないことがしょっちゅうあるらしい。秋華が女官から聞いたと話してくれた。

 どさりと長椅子にこしけた龍宗に、璃鈴は熱い茶を差し出す。


「疲労に効くお茶だそうですわ。どうぞ」


 ふくいくとした香りの立ちのぼる茶を、龍宗はじっ、と見つめる。


「陛下?」

「……ああ。どうだ、後宮の生活は」


 龍宗は、茶に手をつけないまま璃鈴に向き直った。

 里の生活は、常に質素だった。それに比べて後宮は、璃鈴が初めて見るものばかりであふれていた。細かいちょうこくほどこされた柱、った刺繍の天幕。朝に夕に、見たこともないごうな食事が供され、どこに行っても上品な香がかれている。

 何を見ても珍しく、あれは何これは何、とお付きの女官たちに訊いては、秋華にはしたない、といさめられていた。


「あちこち見させていただきましたが、初めて見るものばかりでとても楽しいです。その中でも、大きな池の上にあった神楽のことが一番」

「見たのか。あれは、お前のためのものだ」

「近日中に、そちらで舞を奉納いたします」

「ああ。たのむ」


 そう言って、龍宗は璃鈴を見つめた。


「舞を……」

「はい?」

「舞を、舞ってくれぬか」

「え? 今ですか?」

「ああ。お前の舞姿が見たい」


 思いがけず龍宗にねだられて、璃鈴のどうがとくりと小さく鳴った。

 神族の娘として、また今は皇后として、舞は大切な仕事であり璃鈴の全てでもあった。

 舞にはそれぞれ意味があり、璃鈴が里で覚えた舞は五十通り以上にもなる。その全てをちがえないように、何度も何度もり返し覚えるのだ。

 他に何もないとしても、舞ができることは璃鈴のほこりだった。それを望まれたとなれば、嬉しくないはずがない。


「ええと、では……」


 せんを取り出して姿勢を正すと、気持ちを落ち着けて璃鈴は舞い始めた。

 龍宗が里を訪れた時にみんなで見せた舞だ。

 もともと皇帝即位の折だけに舞われるものなので、里の巫女であってもこの舞を人前で舞う機会がある者は少ない。


「それではない」


 ちゅう、龍宗が言った。


「え?」

「それではなく……始まりの舞を」


 始まりの舞とは、里に来た娘が一番初めに覚える舞だ。簡単な振りつけだが、指の一本一本まで神経をぎ澄まさなければその意味をなさないと、厳しく教え込まれる。


「龍宗様、なぜその舞のことを?」


 璃鈴は小首をかしげる。


「……母が、よく練習していたのでな」


 奉納の舞を人目にさらすのはためらわれたが、龍宗は皇帝だ。りゅうまつえいである皇帝陛下に言われて断ることなどできはしない。


(前皇后様も陛下の前で舞われたらしいし……いいわよね)


 璃鈴はもう一度姿勢を正すと、舞を始めた。

 まるで息をするように自然な様子でふわりふわりと舞い続ける璃鈴を、龍宗は身じろぎもせずに、じっ、と見つめている。

 終わって龍宗の前に伏せると、龍宗が感じ入ったようにため息をつく。


「美しいな」

「あ、ありがとうございます」


 められた喜びに顔をあげると、璃鈴の視線と龍宗の視線が真っ向からからまる。

 熱のこもったそのひとみから、璃鈴は目が離せなくなった。

 いつもそうだ。龍宗の瞳は、強い意思を持って璃鈴を絡め捕ってくる。


へびにらまれたかえるだな」


 くく、と龍宗が笑った。璃鈴は、ぷ、と頰を膨らませる。


「わたくしは蛙ではありません」

「そうだな。……来い」


 龍宗は、軽く手を璃鈴に伸ばした。璃鈴は立ち上がって近づく。

 すると龍宗は、璃鈴の手をやさしく引いてその指先に口づけた。上からそれを見ていた璃鈴の頰が、か、と熱くなる。


「陛下……」


 その姿勢のまま、龍宗は視線だけで璃鈴を見上げた。


にんぎょうだな。俺は夫だぞ。名で呼べ」

「でも……」

「よい。許す」


 そう言われて、璃鈴はふるえる声でその名を口にした。


「龍宗……様……」


 名前で呼びかけることができるのは、よほど近しい者だけだ。ましてや、それが皇帝ともなれば、御名を呼べる者は限られてくる。

 彼の近しい位置に自分がいることを許されて、璃鈴は嬉しいようなむずがゆいようなここがした。

 龍宗は満足げに笑むと、璃鈴の指にふいにみついた。


「っ! ……お戯れは……」

「ああ、痛かったか」


 どうとでもないように言って、龍宗はさらにきゃしゃな指をんだ。あまみだったので痛くはなかったが、璃鈴はなんだか体の奥がるような恥ずかしさを感じて体をこわばらせる。


「陛下……っ!」

「違う」

「りゅ、龍宗様っ!」

「なんだ」

「あ、あの……!」


 あたふたとする璃鈴を見て、龍宗は声をあげて笑った。からかわれていることをさとった璃鈴は、真っ赤になって怒り出す。


「わ、わたくしは食べ物ではありません! おやめください!」


 その様子を楽しげに見ながら、龍宗は片手を伸ばすと璃鈴の頰にれた。


「十分うまそうだぞ。だが、少し悪ふざけが過ぎたようだ。すまなかった。さあ、もう休もう。明日も早い」


 口をとがらせたままの璃鈴を、龍宗はその腕に抱き上げた。


「あの……!」

「俺に触れられることに慣れろ。ふうなのだから」


 力強く璃鈴を支える腕は、多少璃鈴が暴れてもびくともしない。龍宗の体温を感じながら、璃鈴はどうしたらいいのかわからずにただ、はい、とだけ小さく答えた。


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