3-6


「夕べも、何も?」

「舞を舞ったわ。美しいと、褒めてくださったの」


 次の朝も、真っ白なしとねを見て秋華はため息をついた。璃鈴はといえば、舞を褒められた嬉しさに、いまだ夢見心地といった表情だ。


「ご夫婦とはなられなかったのですか」

「ちゃんと一緒にているわよ」


 これはいよいよ自分が教えなければ、と秋華は頭をなやませる。皇后である璃鈴にとっては、皇太子を産むことも大事な使命だ。だが秋華自身もまだ知らぬことゆえに、うまく話せるかどうか心もとない。


(陛下が、教えてくれたらいいのに……)


 秋華は心の中で龍宗に八つ当たりしながらあさたくを続けた。龍宗は朝早くに宮城に戻ってしまったため、璃鈴はまた一人で朝餉を食べることになった。


「皇后様、よろしいですか」


 朝餉を終えた頃、年配の女官がやってきた。とうばいというその女官は、あまり笑わないせいか、少しこわい印象をあたえる女性だった。


「はい。なんでしょう」

「雨ごいのしきの日取りが決まりました。三日後になりますので、本日より禊をお願いいたします」

「わかりました。では、今日からお食事はしょうじんものをお願いいたします」


 秋華が応えると、冬梅は続けた。


「これから、禊の場へご案内します」

「はい。準備をいたしますので、少しお待ちください」


 璃鈴は、白い禊用のころもえる。これは里から持ってきたものだった。


「いよいよですわね、璃鈴様」


 秋華が璃鈴に声をかけると、きんちょう気味に璃鈴も応えた。


「ええ。私、がんばるわね」


 支度を終え冬梅についていった先は、池の向こうにあるたけやぶの中だった。その中に、結界の張られた小さな泉がある。とうめいな冷水が、水底の砂を巻き上げてこんこんといていた。


「ここは、れないのですか?」


 長い日照りで、黎安の多くの井戸は枯れてしまったと聞いている。


「はい。宮城の中には、どれほど日照りが続いても枯れることのない泉がいくつかあるのです。ここはその一つ。巫女の禊専用の泉でございます」

「そうなのですか」


 冬梅は、水に入る準備を始めた璃鈴をじっと見守っていた。


「この泉に雨の巫女が入られるのは何年ぶりでしょう……」


 思わず、といった風に、冬梅が呟いた。


「前の巫女を、ご存じなのですか?」

「以前の巫女はれい様……陛下のお母様でした。私は、麗香様について参った、里の巫女です」


 その言葉に、璃鈴と秋華の二人が揃って冬梅を見た。


「あなたも、里の出だったのですか?」

「もう、二十五年以上も前になります」


 戸惑う二人に構わず、冬梅は璃鈴のいだ衣を秋華に持たせてその場に残すと、璃鈴の手を引いて泉のふちまで先導した。


「あの女には、お気をつけなさいませ」

「え?」


 泉に足を浸した璃鈴にだけ聞こえるように、冬梅はこっそりと耳元にささやいた。


「秋華のことですか?」

「あの娘は、『次の巫女』ですね? あなたの命をうばう権利を持つ娘に、心を許してはなりませぬ。今の宮中はだいわりしたばかりで、様々な力のきんこうが不安定になっております。なればこそ……」


 予想もしなかった言葉に、璃鈴はあわてて冬梅の言葉をさえぎった。


「秋華が? 私の命を奪うなんて……彼女はそんなこと、絶対にしません!」


 冬梅は、少しおどろいた顔になった。


「あなたは、『次の巫女』についてご存じないのですか?」

「聞いたことはありません。私は、急のお召しでこちらに来たために、おそらく知らないことがたくさんあるのです」

「……そうですか」


 しばらく考えた後、冬梅は再び無表情になって囁いた。


「あなた様に何かあれば、次はあの娘が皇后となる決まりなのです。それで、侍女として皇后についてきた里の娘を、『次の巫女』と。それを知って『次の巫女』に取り入り、意のままにあやつって後宮内で勢力のけんにぎったり、おそおおくも皇后や皇帝の命をねらう者も出てこないとは限りません」


 冬梅は、ちらり、と後ろにひかえている秋華に目をやった。


「今は時間がありません。くわしくは申し上げられませんが……ここは里とは違う。彼女をしんらいしすぎるのは危険かもしれないということを、覚えておいてくださいませ」


 璃鈴は、目を瞠って冬梅を見上げた。


「秋華は、私を裏切るようなことは絶対にしません。……それは、あなたの経験からの言葉ですか?」


 璃鈴の答えに、ふ、と目元を和ませて、冬梅は答える。


「さあ。どうでしょう」


 そして、璃鈴を泉の真ん中へと押す。


ろうに過ぎれば、それに越したことはありません。年寄りのたわごと言とお笑いください。私はあちらで彼女と共に控えておりますので、心行くまでお禊なさいませ」


 そうだ。身を清めに来たのだ。今は雑念を捨てなければ。


(秋華が……そんなこと、あるわけないわよね)


 璃鈴は、気持ちをえて冷たい清水に体を浸した。



 冬梅と二人で泉のほとりにあるあずまに腰を落ち着けると、秋華は口を開いた。


「あなたは、麗香様についてこちらにいらした『次の巫女』なのですね」

「いかにも」


 誇らしくすら見える顔で、冬梅は答えた。

 秋華とて、璃鈴と同じくなんの準備もせずにここへとやってきたのだ。わからないこと、きたいことは山ほどある。何からたずねたらいいのかわからずに秋華が戸惑っていると、冬梅はむなもとから小さくて細長い包みを取り出す。

 いぶかしげに見ている秋華の前で、冬梅はくるくるとその包みを開けていった。

 中から出てきたのは、一振りの短刀だった。つうのものよりもさらに小さく、女性でも片手で扱えそうなしろものだ。かざりもない木製のそれは、古ぼけていたが、刀身だけは綺麗に研がれていた。

 冬梅は、包みの上にせたそれを秋華にわたす。


「これを、あなたに」

「私に?」

「ええ。この短刀は、代々『次の巫女』に伝えられてきた、皇后の命を奪う刀」


 はっ、と、秋華は思い当たった。


「あなたは、『次の巫女』の役割をご存じですか?」


 秋華は、青ざめた顔でうなずく。


「はい。もし皇后に何かあった時は、私が皇后になって皇帝陛下の子を産むこと。そして、万が一、皇后が道を誤った時は……」


 秋華は、手元の刀を見下ろす。


「巫女の力を誰にも悪用されないために、皇后の命を終わらせること。長老に聞いた時はどうやって、と恐ろしく思ったのですが、こういうことだったのですね」


 思いつめたような顔になった秋華に、冬梅は続けた。


「『次の巫女』が皇后をしいしても、おとがめをうけることはありません。これは、個人の問題ではないのです。輝加国にとって、皇帝と神族の交わりは決して絶たれてはならない不変のきずな。私たちは、それをお守りするのが務めです。もしその時が来てしまったら、迷いますな」

「私が璃鈴様を……? そんなこと、できるのでしょうか……?」


 不安げに顔をゆがめた秋華に、冬梅はほんの少しだけ、笑みをこぼした。


「その様を見れば、あなたを璃鈴様のお供に選ばれた長老の判断は、おそらく間違ってはいないのでしょう」

「……私の、何を選ばれたのでしょう」

「そのようにかっとうするところではないですか? 皇后は良いご友人を持たれた」


 それだけ言うと冬梅はまた無表情に戻って、口を閉ざしてしまった。秋華も自分の思いに沈んで、それ以上は何も言わなかった。

 まだ日も差さないうすやみの中、璃鈴は神楽に座っていた。あさなぎに静まる大気の中で、じっと時を待っている。

 その神楽は、広い池の真ん中に張り出す形で作られていた。四方を白い布で囲われた広めのゆかに、一筋の光が差す。閉じた瞼に刺すようなまぶしい光を感じて、璃鈴は目を開けた。

 巫女しょうぞくが、みるみるうちに日の光に包まれていく。

 璃鈴は立ち上がると、ゆらりと舞を始めた。手にした羽扇をあおぎ、その動きにつれて巫女のしょうがたゆたう。かんきゅうをつけてひらひらと舞う姿は、人の目に触れることはない。

 それは、天のりゅうじんにのみささげられる舞なのだ。

 雨ごいの舞は、日のある間は休むことなく続けられるこくな舞だ。里ではみんなで舞っていたが、ここで舞うのは璃鈴一人だけだ。皇后の地位についた雨の巫女は、格段にその力が強くなるという。


「ようやく、雨が降るのですね」


 庭に出て様子を窺っていた秋華が呟くが、冬梅は厳しい目で舞台を見つめるだけだった。

 白い幕に、時折細い影が動くのが映る。

 龍宗も璃鈴の部屋の中からその影を見ていたが、女官が朝議の時間だと告げに来ると、静かに部屋を後にした。




 その夜、龍宗が璃鈴の部屋を訪ねると、秋華が困ったような顔をして待っていた。


「申し訳ありません。皇后様におかれましては、本日の雨ごいの舞でお疲れになったらしく……」


 見れば、璃鈴は長椅子で横になったままぴくりとも動かない。


「先ほどからお起こししているのですが……」

「よい。眠らせておけ」


 深く眠っている璃鈴は、いきすら細い。その頰を、龍宗はそっとなでる。それでも璃鈴が起きないとわかると、ぷにぷにと頰をつつき始めた。


「起きないな」

「はい。よほどお疲れなのでしょう。今夜はお部屋にお戻りになりますか?」


 訊かれた龍宗は、璃鈴の細い体を長椅子から抱き上げる。


「いや。このまま共に眠る」

「かしこまりました。おやすみなさいませ」


 秋華は礼をとると、明かりを消して部屋から出ていった。

 しんだいに横たわって眠り続ける璃鈴を、薄闇の中で龍宗はしみじみと見つめる。


「……つまらぬ。俺こそが龍のしんだというのに、その俺が、お前の舞のそばにいることができないのか」


 誰にも聞かれることのない呟きは、やみに溶けて消えた。


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