第二話:伝票に浮かぶ私の名前
ミスをしたのは、私じゃなかった。
それだけは確かだった。いや、確かだと思っていた——はずだった。
朝、机の上に一枚の伝票が置かれていた。赤いペンで囲まれた項目。記入ミス。金額の誤り。取引先との確認不足。誰が見ても、これは「やらかした」証拠だった。差出人の欄には、私の名前が書かれていた。
記憶をたどる。そんな処理はしていない。処理したとしても、必ず上司に確認を取る。いつものルーティンだ。なのに、なぜ私の名がそこにあるのか、わからなかった。
「すみません、これ……」
上司に問いかけようとした言葉が、喉の途中で折れた。
彼はもう私を見ていなかった。何かを確かめるようにパソコンを見つめ、隣の席の後輩に何やら指示を出していた。声をかける空気じゃない。それが、全身に伝わってきた。私に許されているのは、ただ黙って謝ることだけ——そんな気配だった。
昼休み。自販機の缶コーヒーを片手に、非常階段でしゃがみ込む。誰にも見られない場所。タバコを吸わない私でも、なぜここに喫煙者が集まるのか理解できた。誰かにならないための逃げ場。それでも、携帯にはメールが来ていた。
「午後の会議、前の件について一言だけお願いします」
“前の件”——つまり、あのミスのことだ。
誰も真相を調べないまま、「私のミス」として扱われていく。それを覆す証拠はない。記憶はある。でも記録がない。周囲が望むのは“原因の特定”ではなく、“犯人の処理”だった。
会議の場で、私は立ち上がり、小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。今後、再発防止に努めます」
簡潔に、感情を挟まずに。まるで誰かに教わったようにスラスラと。
拍子抜けするほど誰も何も言わなかった。責めるわけでもなく、許すわけでもなく。沈黙が、私の言葉を石碑のように刻み込んでいく。
その夜、日報のファイルを開いていたら、後輩の入力したはずの記録に日付がなかった。あの伝票の番号に関する業務履歴——私の名前以外、どこにも記されていない。
目の奥がじんと痛んだ。何かが噛み合っていない。でも、証明できない。疑いは、静かに沈んでいく。水底に沈む真実のように。
誰も騒がない。誰も探らない。
ただ“空気を読んで”黙る。それが、この会社という場所だった。
帰りの電車で窓に映る自分の顔が、いつもより老けて見えた。口元が、ほんの少し歪んでいる。
それに気づいた時、ふと笑いそうになった。
“この程度のことで”だなんて、誰が言えるのか。
沈むのは、音もなく、ゆっくりだ。
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