沈殿

誰かの何かだったもの

第一話:呼吸の音がうるさい

時計の針が、一分一秒と音もなく進んでいくのがわかる。

静まり返ったフロアに、ただ自分の呼吸だけが響いている。いや、響いているような気がするだけだ。自意識過剰だとわかっている。けれど、気になって仕方がない。


「お疲れ様です」

背後を通った同僚が、わずかに声をかけて去っていく。タイピングの手は止めなかったし、顔もこちらを見ていなかった。

形式的な挨拶。ただそれだけ。でも、胸がチクリと痛んだ。なんで自分ばかり残ってるんだろう。なんで、あいつは定時で帰れてるんだろう。

思わず手が止まり、指先に嫌な汗がにじむ。


「……っ、違う」

一人ごとのように呟いて、すぐまた手を動かす。

間違えてはいない。自分のミスではない。あの伝票を誰が処理したか、確認すればすぐにわかるはずだ。

でも、なぜか上司は俺を見た。

「これは……君が処理したんだよね?」と。


違うと答えるには勇気が要った。

疑いの目が向けられる瞬間、自分の体が小さく震えているのがわかった。

「はい……そうです」

その一言を言い終えた瞬間、心がひどく冷たくなった。まるで氷水に沈められたような感覚だった。


──どうして否定できなかったのか?

わかってる。

面倒なやつだと思われたくなかった。

その場で空気を壊したくなかった。

今ここで「違います」と言えば、きっと面倒になる。上司も、同僚も、俺を「ややこしいやつ」だと心の中で思うだろう。


そう思った時点で、もう負けていた。

誰の責任でもない。俺の選択だ。

自分が、自分を殺した。


「確認ミスだったか。まあ、気をつけて」

上司のその言葉に、なんとなく曖昧に笑って見せた自分が、たまらなく気持ち悪い。



家に帰る電車の中で、スマホを開いても何も目に入らなかった。

SNSを開けば、誰かが楽しそうに飲み会をしていた。誰かが恋人と出かけていた。誰かが昇進したと書いていた。

俺は、今日、冤罪を認めた。

このどれにも載せられない。載せる資格なんてない。



眠れない夜が続いた。

夢の中で、誰かが俺を指差して笑っていた。

「自分で嘘をついたくせに、苦しんでんの?」と、どこかで声が聞こえた。自分の声だった気がする。


翌朝、鏡に映った自分の顔がやけに老けて見えた。

髪は寝癖で跳ねて、目の下にクマができている。

ネクタイを締める手が、少し震えていた。


それでも会社へ向かう電車に乗った。

誰も俺を見ていなかったし、誰も俺を知らなかった。

それなのに、俺は勝手に、自分が見られているような気がして、ずっと下を向いていた。


誰も責めてなどいないのに。

それでも、心がじわじわと澱んでいく。

透明だった水が、濁っていくように。


まだ何も壊れていない。

だけど、それは“まだ”に過ぎない。

どこかで音を立てて崩れる予感がする。


自分の心が、もう限界に近づいていると、気づいていた。

でもそれを誰にも言えないまま、今日もまたデスクに座る。


「お疲れ様です」

今日もまた、誰かが通り過ぎる。

その言葉に、少しも心が動かなかった。

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