第2話響く非難
第二話 砕かれた水面、響く非難
プールの冷たさも、消毒液の匂いも、今はもう遠い。雫の意識は、薄暗い不安と、体のあちこちを鈍く苛む痛みの中に沈んでいた。隣のベッドからは、か細い呼吸音と、時折響く機械の電子音。和美は、まだ目を覚まさない。医師の淡々とした宣告、「極めて困難」という言葉が、繰り返し脳内で再生される。泳げない。その事実が、鉛のように雫の心にのしかかっていた。
事故から数日が経過した。雫の体は奇跡的に深刻な後遺症は免れたものの、肺へのダメージと精神的ショックは大きく、絶対安静の日々が続く。見舞いに来た鬼頭コーチの顔には、いつもの厳しさに加え、深い疲労と苦悩の色が滲んでいた。
「宮田(和美)は…まだ予断を許さない状況だ」
コーチの言葉は重く、雫はただシーツを握りしめることしかできなかった。
「…陽菜は?」
絞り出すように尋ねると、コーチはわずかに眉をひそめ、ため息をついた。
「…学校にもクラブにも、まともに顔を出せていない。当然だろうな」
その頃、陽菜は自室のベッドの上で、膝を抱えてうずくまっていた。窓の外から聞こえる日常の音さえ、今は針のように鋭く突き刺さる。クラブの仲間からの連絡は途絶え、学校へ行けば遠巻きにする視線と、ひそひそと交わされる噂話に晒される。
『陽菜ちゃんが、和美ちゃんと口論してたらしいよ』
『それで突き落としたって…まさか』
『でも、雫先輩が助けに入って、二人とも溺れたんでしょ?陽菜ちゃん、見てただけだって』
『ビート板くらい投げたらしいけど、そんなの…』
『最低だよね』
言葉のナイフが、容赦なく陽菜の心を切り刻む。あの日の光景が、何度もフラッシュバックする。沈んでいく和美と雫、助けを求める雫の絶望的な目、そして、恐怖で足がすくみ、意味のないビート板を投げ入れることしかできなかった自分。コーチの怒声。雫の心臓を抉ったであろう、自分の醜い言い訳。
「…違う…わざとじゃない…でも…」
呟きは誰にも届かず、部屋の静寂に吸い込まれていく。
陽菜の脳裏には、もう一つの光景が焼き付いていた。数週間前の、あの練習中のアクシデント。全日本の選考会を間近に控え、焦りを募らせていた和美。陽菜が先行する和美のすぐ後ろを泳いでいた時、前のコースから折り返してきた選手を避けようと、和美が不自然なタイミングでわずかにコースを変えた。陽菜は避けきれず、二人の足が絡み合うように接触した。バランスを崩した和美は、壁に左足首を強打したのだ。
『わざとやったんでしょ!私の足のこと、分かってて!』
事故直後、和美はそう叫んだ。陽菜は必死に否定したが、和美は聞き入れなかった。それ以来、二人の間には決定的な溝ができていた。
そして、あの運命の日。プールサイドで和美は、再び陽菜を詰った。
『陽菜のせいで、私の全日本は終わったんだから!』
『だから、あれは事故だって言ってるでしょ!和美こそ、無理なタイミングでコースに入ってきたから…!』
言い争いはエスカレートし、そして…。
陽菜は、和美の怪我に直接的な責任があるとは思っていなかった。あれは不運な事故だ。しかし、和美の執拗な非難と、その後の悲劇が、陽菜の中で罪悪感を雪だるま式に膨らませていた。「もし、あの時、私がもっとうまく避けていれば」「もし、私が和美の言葉にもっと耳を傾けていれば」…後悔は際限なく湧き上がり、陽菜を苛む。だが、その「真相」を誰に語ればいいというのか。和美は昏睡状態。雫は…合わせる顔がない。
数日後、雫の病室を、おそるおそる陽菜が訪れた。憔悴しきった顔で花束を抱え、ドアの前で何度も深呼吸を繰り返す。雫の母親が、複雑な表情で彼女を中に招き入れた。
「…雫…ごめん…なさい」
か細い声で謝罪する陽菜に、雫は無言で視線を向けた。その瞳には、以前のような親しみの色はなく、ただ静かで、底の知れない感情が揺らめいているように見えた。
「…和美は、まだ…」
雫が掠れた声で尋ねる。
「…うん。お見舞いに行ったけど…おばさん(和美の母)が…」
陽菜は言葉を詰まらせた。和美の母親に、「あなたのせいで!」と泣きながら詰め寄られたのだ。何も言い返せなかった。
重苦しい沈黙が病室を支配する。陽菜は、あの日の口論のこと、和美の足の怪我の真相を話すべきか迷った。しかし、今、それを話したところで何になる? 言い訳にしか聞こえないのではないか。雫をさらに傷つけるだけではないか。
「…なんで、あの時、助けを呼ばなかったの?」
雫が静かに、だが鋭く問いかけた。
陽菜の心臓が凍りつく。
「…怖くて…本当に…どうしていいか分からなくて…ごめんなさい…それしか…」
言葉は途切れ途切れで、言い訳がましい響きを帯びてしまう。
雫は、ふっと視線を窓の外に向けた。
「…そう」
短い返事には、何の感情も込められていないように聞こえた。だが、その静けさが、陽菜には何よりも恐ろしかった。雫の心のシャッターが、固く閉ざされていくのを感じた。
陽菜が病室を出た後、雫は母親に「もう、陽菜ちゃんとは会いたくない」と告げた。
スイミングクラブでは、事件の余波が続いていた。保護者説明会が開かれ、コーチ陣は安全管理の不備を謝罪した。クラブ内には重苦しい空気が漂い、かつての活気は消え失せていた。和美のロッカーには、仲間たちが持ち寄った千羽鶴が飾られていたが、その光景は痛々しさを増すばかりだった。
陽菜は、クラブにも学校にも行けず、自室に引きこもる日々を送っていた。時折、スマートフォンの画面に映る、匿名の中傷コメントが、彼女の心をさらに蝕んでいく。
『人殺し』
その二文字が、陽菜の罪悪感を決定的なものにした。
そして、事故から二週間が経った頃、病院から連絡が入った。
和美の容態が、急変したのだと。
雫は、まだ完全に回復していない体を引きずるようにして、病院へ向かった。陽菜もまた、誰に知らされることもなく、いてもたってもいられず、病院の廊下の隅で息を潜めていた。
集中治療室の前には、和美の両親と鬼頭コーチが、祈るような面持ちで立ち尽くしている。
やがて、医師が出てきて、静かに首を横に振った。
その瞬間、和美の母親の絶叫が、長い廊下に響き渡った。
雫は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
失われたのは、ヒレだけではなかった。
取り返しのつかない、命という光もまた。
陽菜は、壁に背中を預けたまま、声にならない嗚咽を漏らした。
砕かれた水面は、もう二度と元には戻らない。そして、その波紋は、関わった全ての者の心に、深く、そして永遠に、消えない傷跡を残そうとしていた。
続く。
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