Solitary Fins 「孤独なヒレ」淋しい熱帯魚。
志乃原七海
第1話。「わざとやったんでしょ、今の!」
第一話 失われたヒレ
夕陽がプールの水面を茜色に染め上げる頃、佐藤雫は重い息を吐きながら水から上がった。塩素の匂いが鼻腔をくすぐり、全身を心地よい疲労感が包む。高飛び込み台がそびえ、その下には水深5メートルの青い水が静かに広がるこの名門スイミングクラブでのトレーニングは、常に限界との戦いだ。だが、その先に待つ一瞬の栄光を夢見て、雫は歯を食いしばってきた。
ロッカーで手早く制服に着替え、濡れた髪をタオルで無造作に拭う。鞄を肩にかけた、まさにその時だった。静まり返りつつあったプールサイドから、鋭い口論の声が響いてきたのは。
「わざとやったんでしょ、あの時!私の足のこと、分かってて!」
「言いがかりつけないでよ!そっちこそ、無理だって言ってるのに急にコースに入ってきたから!」
聞き慣れた声の響きに、雫の眉間に深い皺が刻まれた。友人の陽菜と、チームメイトの宮田和美。和美は数週間前、練習中のアクシデントで左足首を複雑骨折し、今はまだ松葉杖を手放せず、ギプスで固められた痛々しい姿のはずだった。なぜ、そんな状態でプールサイドに…?
嫌な予感が胸をざわつかせ、雫は音のする方へと足を速めた。
プールの入り口を抜けると、案の定、陽菜と和美が険悪な雰囲気で睨み合っていた。和美の左足首には、真新しいギプスが巻かれ、傍らには松葉杖が立てかけてある。その姿で、どうしてここにいるのかという疑問が雫の頭をよぎった。
「ちょっと、二人とも何やって…」
雫が声をかけ終わるよりも早く、陽菜が感情的に身を引いた。その反動だったのか、あるいはギプスでバランスの悪かった和美が体勢を崩したのか――次の瞬間、和美の華奢な体が不自然に傾ぎ、短い悲鳴と共に水面へと叩きつけられた。
「きゃあっ!」
水飛沫が弾け、波紋が広がる。水深5メートルの底へと、和美の姿はあっという間に引きずり込まれていく。
「和美ちゃん!」陽菜の顔から血の気が引き、声が上擦った。
「和美、足…!ギプスが!泳げない!」
雫の脳裏に、数日前の松葉杖をつく和美の姿がフラッシュバックした。絶望的な状況だ。
全身の血が逆流するような感覚。思考が追いつく前に、体が突き動かされていた。
「助けなきゃ!」
髪が乾いていようと、真新しい制服が汚れようと、そんなことは些かも頭になかった。靴を脱ぎ捨てる時間すら惜しい。雫はプールサイドを強く蹴り、躊躇なく深い水面へと身を躍らせた。
ザブン! 冷たい水が、一瞬にして制服に染み込み、鉛のように体を重くする。全日本クラスのアスリートである雫でさえ、着衣水泳の困難さ、ましてや水深のあるプールでのそれは骨身に染みて理解している。だが、今はそんな理屈を考えている余裕など微塵もなかった。必死に水を掻き、沈みゆく和美の影を追う。なんとか腕を掴んだが、パニックに陥った和美が本能的にしがみついてくる。その力は凄まじく、ギプスの重さも加わり、雫の動きを封じ、呼吸すら奪いかねない。
「落ち着いて、和美!しっかり!」
声は届かない。水圧と、水を吸って重くなった制服、そして和美を抱える負担が、容赦なく体力を奪っていく。力不足だ…! このままでは、二人とも。
「陽菜!手伝って!早く何か…!」
水面から顔を出し、必死の形相でプールサイドに立ち尽くす陽菜に叫んだ。陽菜は恐怖に凍り付いたように目を見開いていたが、やがて近くにあったビート板や練習用の小さなフロートを掴み、震える手でいくつかプールに投げ入れた。しかし、それらは虚しく水面に浮かぶだけで、沈みかける雫たちには到底届かない。その瞳には、雫の絶望的な状況を映しながらも、自ら飛び込む勇気も、効果的な助けを求める冷静さも見受けられなかった。
なぜ、どうして。私たちは、苦しい練習を共に乗り越えてきた仲間じゃなかったの…? ビート板を投げ入れることしかできない陽菜の姿に、雫の胸に、裏切られたような冷たい絶望が広がった。
意識が朦朧とし始めた、まさにその時。背後から激しい水音と、雷鳴のような怒声が響き渡った。
「何をやっているんだ、お前ら!佐藤、無茶だ! 宮田(陽菜)、なぜすぐに助けを呼ばん!ビート板を投げ入れるだけでどうにかなる状況じゃないだろうが!見ていただけか!」
鬼頭コーチだった。彼の鍛え上げられた巨体が水中に飛び込み、まず意識を失いかけていた和美を、次いで力尽きかけていた雫を、強靭な腕でプールサイドへと引きずり上げた。
床に叩きつけられるように横たえられた雫の耳に、遠のいていく意識の中で、コーチの厳しい叱責と、陽菜のすすり泣き、そして、か細く震える言い訳が、悪夢のようにまとわりついた。
「だって…飛び込んだら…私も同じ目に遭うかもしれないって…怖くて…それに、何か投げなきゃって…思ったけど…」
その言葉は、氷よりも冷たく、鋭く、雫の心臓を抉った。
次に雫が目を覚したのは、消毒液の匂いが立ち込める病院の白い一室だった。隣のベッドでは和美が静かに寝息を立て、腕には点滴の管が痛々しく繋がっている。状況を把握しようと鈍い頭を巡らせていると、部屋に入ってきた医師の淡々とした声が、雫の未来を無慈悲に告げた。
「…残念ながら、佐藤さん、そして宮田和美さんも、今回の事故による肺への浸水と、低酸素状態が脳機能に与えた影響は無視できません。競技レベルでの水泳復帰は、極めて困難と言わざるを得ないでしょう。加えて、精神的なショックも深刻です」
泳げない。
その三文字が、まるで呪いのように雫の頭の中で反響した。
助けようとした。でも、助けられなかった。それどころか、自分自身も、仲間だったはずの彼女の言葉と、その無力な行動によって、深く傷つけられた。
雫の視界が、熱いもので滲んで歪んだ。失われたのは、ただ泳ぐ力だけではなかった。信じていた友情の脆さ、手の届くはずだった輝かしい未来、そして、水と一体となり、自由自在に水を掻き分けてきた、あの誇り高き「ヒレ」も、今はもう、どこにも見当たらなかった。
プールに飛び込んだ瞬間の、息苦しい水の重さと、陽菜の言葉の冷酷な響きだけが、消えない傷跡のように、心と体に深く刻み込まれていた。
続く。
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