第3話(熱帯魚から深海へ)

第三話 深淵の計画、共犯者の影 (熱帯魚から深海へ)


和美の葬儀は、鉛色の空の下、静かに執り行われた。雫は、まだ完治しない体を引きずるように参列し、遺影の中で微笑む和美の顔をぼんやりと見つめていた。かつて、共に熱帯魚のように鮮やかな夢を追い、水面を駆けた仲間。その笑顔の裏に、どれほどの絶望と、そしておぞましい計画が隠されていたというのだろうか。


「…雫先輩、大丈夫ですか?」

声をかけてきたのは、クラブの後輩だった。その瞳には純粋な心配の色が浮かんでいる。雫は曖昧に頷き、言葉を返せずに俯いた。周囲のすすり泣きや、コーチの沈痛な弔辞も、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。陽菜の姿は、そこにはなかった。


数日後、雫の元に、鬼頭コーチが深刻な面持ちで訪ねてきた。手には、一冊のノートがあった。

「…宮田(和美)の部屋を整理していたご両親が見つけたそうだ。これは…お前にも見ておいてもらう必要があると思う」

コーチから渡されたのは、和美の日記だった。可愛らしい熱帯魚のシールが貼られた表紙とは裏腹に、ページをめくるごとに、そこには黒く渦巻く感情と、信じがたい計画の断片が記されていた。


『足が…もう二度と、あいつらみたいに泳げないなんて』

『陽菜のせいだ。あいつが、私の夢を壊した』

『雫…いつも私より前を泳いで。私の場所を奪って』

『一人で逝くのは寂しい。陽菜にはもっと苦しんでもらわないと。雫、あなたも一緒なら…きっと…』


そして、事故の数日前のページには、おぞましい記述があった。

『プールなら、溺れても不自然じゃない。ギプスは重りになる。雫が助けに来るはず。二人で一緒に、深いところへ…陽菜はそれを見て、一生苦しめばいい』


雫の手は震え、日記を持つことすら困難になった。熱帯魚は、いつしか深海の暗闇に棲む、おぞましい生き物に変貌していた。あの事故は、単なる悲劇ではなかった。和美による、周到に計画された心中未遂、あるいは殺人未遂だったのだ。そして、自分はその標的だった。


コーチは、苦渋に満ちた表情で続けた。

「…警察にも提出した。事故ではなく、事件として再捜査が始まるだろう。そして…宮田(陽菜)からも、話を聞く必要がある」


陽菜は、和美の葬儀以来、完全に姿を消していた。学校にもクラブにも連絡はなく、自宅を訪ねても家族は「今はそっとしておいてほしい」と繰り返すばかり。しかし、和美の日記の存在が警察に渡ったことで、事態は急変する。


数日後、やつれ果てた陽菜が、警察署から出てくるところを、雫は鬼頭コーチと共に目撃した。任意での事情聴取だったのだろう。陽菜の顔には血の気はなく、まるで深海魚のように生気のない瞳をしていた。


その夜、雫のスマートフォンの着信音が鳴った。非通知の番号。恐る恐る電話に出ると、聞き覚えのある、しかし弱々しい声が聞こえてきた。

「…雫…先輩…?」

陽菜だった。


「…全部…話し…ます…でも、信じてもらえないかもしれない…」

陽菜の声は、途切れ途切れで、まるで水底から響いてくるかのようだった。


翌日、雫は指定された公園のベンチで、陽菜と向き合っていた。陽菜は、俯いたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、和美の計画を「後押し」したという直接的な言葉ではなかった。しかし、その内容は、雫を更なる絶望の深淵へと突き落とすには十分だった。


「…和美ちゃん、事故の前から…ずっとおかしくて…。『もう全部終わりにしたい』って…『雫先輩も一緒なら、怖くないかもしれない』って…何度も…」

陽菜の言葉によると、和美は怪我の後、急速に精神のバランスを崩し、雫を道連れにすることをほのめかすような言動を繰り返していたという。


「…止めたんです…何度も…でも、和美ちゃん、聞かなくて…。『陽菜も手伝ってよ。そうすれば、あの時のこと、少しは許してあげる』って…」

あの時のこと――練習中のアクシデント。陽菜は、和美の怪我に対する負い目と、彼女の常軌を逸した言動への恐怖から、次第に抵抗できなくなっていった。


「…プールサイドで言い争ったあの日も…和美ちゃん、『今日しかない』って…。私が突き飛ばしたみたいに見えたかもしれないけど…違うんです…和美ちゃんが、自分から…」

陽菜は、和美が自らバランスを崩してプールに落ちたのだと主張した。そして、その直前、和美は陽菜にこう囁いたという。

『見てて。最高のショーを見せてあげる。あんたへの罰よ』


陽菜は、和美の計画を止められなかった。それどころか、恐怖と罪悪感から、和美の狂気に巻き込まれる形で、その計画が実行されるのを「見ていた」ことになる。ビート板を投げ入れたのは、最後の抵抗であり、そして無力な自己弁護だった。


「…ごめんなさい…ごめんなさい…雫先輩を、危険な目に…」

陽菜は泣き崩れた。


雫は、言葉を失っていた。陽菜の言葉が全て真実なのか、あるいは自己保身のための嘘が混じっているのか、判断がつかない。しかし、和美の日記の内容と照らし合わせると、陽菜の言葉には無視できないリアリティがあった。


友情だと思っていたものは、一方的な殺意と、恐怖に支配された共犯関係だったのかもしれない。

熱帯魚たちが戯れるサンゴ礁だと思っていた世界は、光の届かない深海であり、そこには互いを喰らい合う、歪んだ生物たちが蠢いていた。


「…警察には、全部話したの?」

雫の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

陽菜は、小さく頷いた。

「…でも、私が和美ちゃんを殺したみたいに…疑われて…」


雫は立ち上がり、陽菜に背を向けた。

「もう、私に近づかないで」

それだけを告げると、雫は震える足でその場を去った。


数週間後、警察の捜査は新たな局面を迎えていた。和美の日記、陽菜の証言、そして雫自身の事故当時の記憶。それらを総合的に判断した結果、和美の計画的な行動と、陽菜の複雑な関与が徐々に明らかになっていく。しかし、決定的な「共犯」の証拠は見つからず、陽菜の処遇は未だ定まっていなかった。


雫は、退院後も、水を見ることも、塩素の匂いを嗅ぐこともできなくなっていた。かつて自分の一部だったはずの「ヒレ」は、今は忌まわしい記憶の象徴でしかなかった。


夜、ベッドの中で、雫は夢を見る。

暗い、暗い水の底。そこには、微笑む和美と、怯えた表情の陽菜がいる。そして、自分もまた、その深淵へと引きずり込まれていく。熱帯魚の鮮やかな色彩はどこにもなく、ただ、重く冷たい水圧だけが、全身を締め付ける。


失われたのは、泳ぐ力だけではなかった。信じる心も、穏やかな日常も、そして、かつて抱いていたはずの、水への純粋な愛情も。

雫の心は、光の届かない深海へと、ゆっくりと沈んでいくようだった。


続く。

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