第10章 崩れた部屋③


いつも通り、愛子は淡々と看護師としての業務をこなしていた。


けれど、看護師長の永原の目には、ふとした違和感が映る。


疲れなのか、悩みごとなのか——そんな気配を、感じ取っていた。


「愛子さん、大丈夫? 無理してない?」


気づかれないように、優しく声をかける先輩。

「大丈夫です」


愛子はいつもの笑顔で、少しだけ早口にそう答えた。

それでも永原は、どこか引っかかるものを覚えながら、黙って頷いた。


愛子は再び業務に戻ろうとしたが、ふと立ち止まり、振り返る。迷うように唇を噛み、それから思い切ったように言葉をこぼした。


「でも……今日は、早めに上がらせてもらってもいいですか?あ、定時で大丈夫なんですけど、残業は、無しで……」


両手の人差し指をバツに交差させて、そっと伝える。申し訳なさそうに、すまなさそうに、困ったような笑みを浮かべながら。


永原は、少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに優しく頷いた。

「うん、わかった。無理しないでね。何かあったら、いつでも言っていいから」


愛子は、ホッとしたように小さく頭を下げると、そっとその場を離れていった。


その日は、特に大きな仕事もなかった。

急患が来ることもなく、時間は静かに流れ、病棟は落ち着いていた。


時計の針が16時を指したころ、愛子は自分の業務をきっちり終え、ナースステーションに戻ってきた。


「あれ、愛子さん、もう上がりですか?」後輩の看護師が、少し驚いた顔で声をかける。


「うん、今日は定時であがるね」

愛子はにこりと笑って、さらりと答える。

そのやり取りを、永原も同僚も静かに見ていた。


みんな心のどこかで違和感を覚えていた。


(いつもなら、自分の勤務が終わっても後輩のフォローや雑務を手伝ってくれるのに……)

(愛子さんが、こんなにあっさり帰るなんて……)


「……何かあったのかな」

小声でつぶやく後輩。


「まぁ、無理してほしくないけどな」

永原は腕を組んで、少しだけ眉をひそめた。


愛子はそんな周囲の空気にも気づいたかのように、けれど気づかないふりをして、淡々と退勤の手続きを済ませる。


「お疲れさまでした」

笑顔と共に、そう一言だけ残して。肩にかかる白衣の重みを振り払うように、すっとナースステーションを後にした。

誰も、愛子の背中を引き止めることができなかった。


迷いなど、一片もなかった。愛子は真剣な表情で家路を急いだ。

すべき事はすでに決まっている。そのために、すべての動きが一直線だった。


家に着くなり、クローゼットの奥から大きな旅行カバンを引っ張り出す。

下着類、何着かの洋服、化粧道具、必要そうなものを、手当たり次第に詰め込んでいく。

畳むことさえ惜しむような勢いで、雑多に。


荷物を詰め終えると、自室を一回り見まわした。何の未練も感じる間もなく、愛子はあっという間に家を後にする。


次に向かったのはスーパーだった。いくつかの食材、日用品、足りないものを次々とカゴに放り込んでいく。

リストもない。それでも、迷うことは一切なかった。


レジを通り抜けると、買い物袋を両手に抱え、愛子はまっすぐに、湊の家へと向かった。


——会いたい。

——早く、会いたい。


その一心だけで、胸がぎゅうっと締めつけられる。


湊のアパートは、古びた3階建て。当然、エレベーターなどない。

キャリーバッグと大量の買い物袋を抱えながら、愛子は気にも留めず、階段を一気に駆け上がる。


3階の一番奥の部屋。


湊。


着いたよ。


鍵を開け、部屋に入った瞬間、

今までの鬼気迫るような表情は、すうっと消えた。


「ただいま!」


ぱあっと花が咲くような明るい声。ハツラツと、弾むようにベッドへ向かい、そこにいる湊に、まっすぐ飛び込むように近づいていった。


湊は、朝に見たときと、何も変わっていなかった。同じ姿で、同じ場所で、静かに、そこにいた。

念のためにと、枕元に置いておいたペットボトルの水。

それも、まったく減っていなかった。1ミリも、動いていない。


でもいい。

それでもいい。


また、湊に会えた。それだけで、胸がいっぱいになる。


愛子はそっとベッドに近づき、

まるで何も問題などないかのように、柔らかな声で、もう一度呟いた。


「ただいま」


今度は、もっとやさしく。もっと、深く。

愛子の声だけが、静かな部屋に、やさしく溶けていった。

愛子は、湊のベッド脇に静かに腰を下ろした。そっと、湊の手を握る。


その手からは、かすかに温もりが伝わってきた。

そして、静かな寝息も、確かに聞こえる。


愛子は、しばらくの間、ただじっと湊を見つめていた。心が、じんわりとあたたかくなる。


生きている。

ここにいる。


それだけで、十分だった。

小さく息を吐くと、愛子はふっと微笑んだ。

そして、ぱっと立ち上がる。


「ご飯つくるね!」


明るく、元気に。

まるでいつもの二人の日常が、何ひとつ変わらず続いているかのように。


「まぁ、ワンパターンだけど……今日は、みんな大好きカレーだよ!」


そう言って、愛子はテキパキと動き始めた。

キッチンに向かい、買ってきた食材を手際よく並べる。


玉ねぎを刻み、にんじんを切り、じゃがいもを剥き、肉を炒める。

手慣れた動きに、ためらいはない。


すべては湊のために。


あたり前のように、自然に、愛情をこめて。


小さなアパートのキッチンに、たちまち香ばしい匂いが立ちこめはじめた。


カレーを煮込んでいる間、愛子はソファに腰掛けた。

湯気の立つ鍋の音だけが、静かな部屋に小さく響いている。


愛子は無表情のまま、ベッドで眠る湊をじっと見つめていた。


さっきまであんなに明るく元気に振る舞っていたのに、今はすっかり力が抜けたような顔をしている。


ふと、愛子はスマホを手に取った。

何をするでもなく、自然に指が動いてLINEを開く。


【ただいまぁ】

【帰ってきたよー】

【今日は帰ってくるかな??】

【カレー作ったよー】


そんなメッセージを、ぽつぽつと送った。

すぐそこにいる湊に向かって。


「帰ってくるかな」


その言葉に、ふいに自分でおかしくなって、愛子は小さく笑った。

そして、スマホの画面を見ながら、ぽつりと呟く。


「そこにいるのにね」


カレーのいい匂いが、ゆっくりと部屋に広がっていく。


カレーがちょうどいいころ合いになった頃、愛子は静かに立ち上がった。コンロの火を止め、ベッドの方を振り返る。


「できたよー」


そっと、湊に声をかける。

もちろん、返事はない。


「よし、食べちゃお」

小さくつぶやき、愛子はひとり分のカレーライスをよそった。


テーブルとソファの間にちょこんと座り、湯気の立つカレーを見つめる。

「いただきまぁす」

明るく言って、スプーンを手に取った。


カレーを一口、また一口。

一日目のまだ若いカレーを噛みしめるたびに、じんわり胸の奥に何かが広がる。


そのとき――。


スマホの着信音が鳴った。

ビクリと体を揺らし、慌ててスマホを手に取る。


画面に表示された名前を見て、愛子の顔がぱっと明るくなった。


湊からだ。

すぐにLINEを開く。

《おかえり!今日も来てくれたんだ!カレー!?

愛子のカレー食べたいなぁ!

でもごめん(謝)今日も帰れそうにないかも!

なんと今日は村のみんなが熊討伐のお礼に盛大なパーティーを開いてくれるんだって!

みんな俺のこと勇者様って呼ぶんだよー

参ったね〜!じゃ、ゆっくりしてってね!》


――およそ現実離れした、ふざけたような湊のLINE。


でも。

それでも。

湊が元気でいてくれるなら。

みんなに必要とされているなら。


それだけで、うれしい。


愛子は、ふっと微笑んだ。

でもその瞬間、こぼれてしまった。


ぽたり。

ぽたり。


涙が止まらない。


スプーンを持ったまま、膝の上に顔を落とす。

つらい。

会いたい。


私は――私は、なんなの?


湯気の消えかけたカレーの前で、愛子は静かに泣き続けた。


涙が、少しだけおさまってきた。

愛子はぐしぐしと袖で目元を拭いて、無理やり笑顔を作った。


「……よし」


小さく気合を入れて、テーブルのカレーに向き直る。スプーンを手に取り、もう一度、カレーをすくった。


ひとくち。


口に運ぼうとする。


でも――。


食べられない。

食欲なんて、どこにもなかった。

スプーンをそっと置いて、深く息を吐く。カレーの湯気は、もうほとんど消えていた。


スッ、と立ち上がる愛子。

静かに、でもどこか諦めるような仕草で、ほとんど手をつけていないカレーを持ち上げる。

そのままキッチンへ運び、ポツンとシンクの中に置いた。


愛子は、カレーの入った鍋をのぞきこんでいた。湯気の向こうで、どろりとしたカレーが、静かに揺れている。それは、もう癖のようなものだった。カレーを作ると、いつも、多すぎた。


「……まただ」


愛子は、鍋のふちに手を添えたまま、目を伏せた。


前も、こうだった。


まだ湊が、あの頃の湊だったころ――

湊が初めてうちに来たあの部屋で、慣れない手つきでカレーを煮込んだ。


「え……ご飯、作ってくれたんだ……食べたい。」


嬉しそうな表情を必死にかくして照れてる湊が、子どもみたいで愛おしくて……今でも覚えている。


作りすぎたって、湊は一度も文句を言わなかった。

「カレーは三日食っても飽きないから」

そう言って、笑いながら、毎日何杯もおかわりしてくれた。


カレーの匂いに、胸がじくじくと痛む。


あのころは、それが幸せの匂いだった。


愛子は、何も言わずに木べらを握りしめた。湯気は、黙って上へ上へと消えていった。湊に届くわけでもないのに。


不意に、部屋にLINEの着信音が鳴り響いた。

愛子は、びくりと肩を揺らし、あわててスマホへと駆け寄った。


画面をのぞきこむ。

心臓が、ひゅっと締めつけられる。


――看護師長の永原だった。


ためらいがちにメッセージを開くと、そこには、今日の愛子を気づかう短い言葉が並んでいた。


【今日、無理してなかった?】

【もし、あれなら明日は休んでいいからね】


小さなスマホの画面が、じっとりと滲んで見えた。

愛子は、胸の奥で何かがこぼれそうになるのを、そっと押し殺した。


【大丈夫です。少し疲れていただけです。ご心配をおかけして、申し訳ありません】


愛子は、慎重に言葉を選びながらスマホに打ち込み、送信した。

ほのかに光る画面を、しばらくじっと見つめる。


指先は止まったまま、何もできずにいた。

本当は、全然大丈夫じゃない。

けれど、それを口にしたくなかった。

弱音をこぼすのは、愛子らしくないと思った。

静かに息を吐き、もう一度画面に指を滑らせる。


【ただ、もし可能であれば、しばらく夜勤を外していただきたいです】


ゆっくりと、その一文を打ち込んだところで、愛子は手を止めた。


夜勤は、ただつらいだけじゃない。長時間続く緊張と集中。夜が明けるまで、ずっと働き続ける重さ。

別に、それに耐えられないわけじゃない。


ただ――

湊を、夜にひとりで置いておくことが、今は怖かった。


収入が減ることもわかっている。生活が厳しくなるかもしれない未来も、当然、想像できる。

それでも。


今は、そんなことよりも、湊のそばにいてあげたかった。


迷いながら、長い時間、画面を見つめ続けて、それでも愛子は、そっと「送信」を押した。


送ったメッセージが表示される。

胸の奥が、かすかに軋んだ。


スマホが小さく震えた。

永原からの返信だった。

【わかった。調整してみるよ。】

【とにかく、何かあったら遠慮せずすぐに言いなさい。体が資本だよ。今のうちの病院には、愛子が必要なんだから】


優しく、温かい言葉が画面に並んでいた。


愛子は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。嬉しさと、同時に、どうしようもない申し訳なさが込み上げてくる。


でも、落ち込んでばかりはいられない。すぐに顔を上げ、努めて明るくスマホに指を走らせる。

【ありがとうございます。本当に、大丈夫です!】

できる限り元気な言葉を選んで、愛子は返信ボタンを押した。


画面が暗くなるまで、しばらく、その場所から動けなかった。


愛子は静かに立ち上がり、湊のほうへ歩いた。

ゴーグルのディスプレイが、暗い室内でかすかに点滅している。


【ログイン中】の文字が、淡く浮かんでいた。


愛子は無言のまま、湊の肩に手をかける。ゆっくりと上半身を起こした。


そばにあったペットボトルを手に取り、キャップを外す。注ぎ口を湊の口元へ、ためらうように近づけた。


湊は最初、まったく反応しなかった。


愛子はほんの少しだけ、ペットボトルを傾けた。

その瞬間、湊が急に吸い込むように口を動かし、次いで、顔をそむけるようにして激しく咳き込んだ。水が飛び散り、乾いた咳の音が室内に響いた。


愛子は、固まったまま動かなかった。


手に持ったペットボトルが、かすかに揺れていた。どうすればいいのかわからず、湊を見下ろしていた。


ゆっくりと、ただ戸惑いだけが胸に広がっていった。

ディスプレイに映る「ログイン中」の文字が、ふいに消えた。

代わりに、「ログアウト」という表示が、淡く浮かび上がる。


「……湊?」


愛子は、かすれた声でつぶやいた。


湊は、ごそりと音を立て、ゴーグルを外した。

その間も、時折、苦しそうに小さく咳き込んでいた。

外したゴーグルが、ベッド脇に落ちる。


湊はゆっくりと、焦点の合わない目で周囲を見渡した。


空っぽの目。


どこを見ているのかわからない、深い濁り。


やがて、ほんの少しずつ、湊の視線が愛子へと向かっていく。

かすかな光を取り戻しながら、愛子に焦点を合わせる。


「……あ、いこ……?」

湊の口から、か細い声が漏れた。


その声に、愛子の胸がきゅっと締めつけられる。

少しだけ、怖かった。けれど、それ以上に、嬉しかった。


愛子は、震えるように小さく呼びかけた。

「……湊」


互いに確かめ合うように、静かで、ゆっくりとした時間が流れていた。


「……あいこ……きてたんだ」


湊は、何の感情も乗っていない声でそう言った。まるで、ただ事実を口にしただけのように。


愛子は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。


今すぐ湊に触れたかった。抱きしめたかった。


けれど――この壊れそうな存在に触れていいのか、わからなかった。


そっと手を伸ばしかけた瞬間、湊はぎこちない動きでベッドから立ち上がった。


ふらふらと足元をふらつかせながら、ゆっくりとキッチンへ向かう。

シンクの前にたどり着くと、湊はコップを取り出し、蛇口から乱暴に水を注いだ。


そして、ガブガブとむさぼるように飲み始めた。


水が口の端からこぼれ、ぽたぽたと床に落ちる。それでも湊は止まらず、次々とコップに水を注ぎ、飲み干していく。


まるで、生きるためにそれだけを必死に繰り返しているようだった。


愛子はただ黙って、その光景を見つめていた。

凍りついたように、身体ひとつ動かせないまま――。


湊は、コップを置くと、ふぅ、と深い息をついた。


またゆっくりと、ぼんやりした目で部屋を見回し、コンロの上の鍋に目を止める。


愛子は、湊の動きを追いながら、そっとキッチンの近くまで歩み寄る。


戸惑いの色を浮かべながら、鍋と湊の顔を交互に見つめた。


湊は、じっと鍋を見つめ続けている。その無言の時間が、愛子の胸を妙にざわつかせた。


「……カレー、作ったんだ。湊、お腹空いてるでしょ?食べるよね?」


愛子は努めて明るく声をかけ、ぎこちなく笑いながら、鍋に手を伸ばす。


だが――


「……いや……いい」


冷たく、かすれた声で湊が言った。


鍋を見つめたまま、愛子の手が止まる。笑顔も、言葉も、宙に浮いたまま固まってしまう。

湊は、愛子を見ることもなく、ふらつく足取りでベッドへと向かった。


腰を下ろすと、そのまま重力に引きずられるように、布団に身体をあずける。

目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうな、極限の疲労が滲んでいた。


それでも、湊は、かすれる声で言葉を続けた。


「……愛子……飯とか……大丈夫……。『あっち』で、ちゃんと食ってるし……」


少し間をあけて、続ける。


「……水も……大丈夫……。ちゃんと、自分でやってるから……」


かすれながらも、言葉には確かな意思が宿っていた。


――俺はちゃんとやれる、頼れる漢なんだ。


そんな湊なりのプライドが、滲んでいた。


愛子は、鍋に伸ばしかけた手を、そっと引っ込めた。胸の奥に、静かに、重たく沈んでいくものを感じながら。


「でも……湊!」


愛子は思わず声をあげ、振り向いた。続けて何か言おうとしたが、その言葉は宙に溶けた。

ベッドを見ると、湊はもう、深い深い眠りに落ちていた。


肩でゆっくりと呼吸を繰り返し、力なく横たわる湊の姿。


あのゴーグルは付けていない。まるで、何かから解放されたような、静かな寝息だった。


愛子は、ためらいがちに一歩、また一歩と湊のそばへ近づいた。

そっとベッドの傍らにしゃがみこみ、湊の寝顔を見つめる。


「……そうだよね……湊は……大丈夫だよね……」


気づけば、言葉が、唇から漏れていた。

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