第10章 崩れた部屋④
強く、明るく、頼れる湊。
それを信じたかった。信じるしかなかった。
頬を、温かいものが伝った。こらえるつもりなどなかった。
ただ静かに、涙がこぼれ落ちた。
愛子は、泣きながら、それでも笑おうとするように、湊に小さく囁いた。
愛子は、湊の隣にそっと座り込んだ。深く眠る湊の顔に、そっと自分の頬を寄せる。
湊の手を、両手で包み込むように握った。
その手は、どこかまだ冷たく、頼りなく感じたけれど――
それでも、確かに生きて、ここにあった。
「……湊……」
かすれた声で名前を呼びながら、また一筋、涙が頬を伝う。湊に聞こえるかどうかもわからないほど小さな声で、愛子は心の中で何度も何度も湊の名を呼び続けた。
どれくらいそうしていたのか。
温もりにすがるように、愛子は湊の手に顔を寄せたまま、静かに、静かに、涙を流しながら――そのまま、眠りに落ちていった。
部屋の中には、ふたつの穏やかな寝息だけが、静かに満ちていた。
スマホのアラームが、けたたましく鳴り響いく。
普段なら、アラームが鳴る前に自然と目を覚ますはずの愛子だったが、
今日は違った。
まるで、目覚めることそのものを拒んでいるかのように、深い眠りに沈み込んでいた。
何度目かのアラームの振動で、ようやく愛子は目を覚ました。
ぼんやりと瞬きを繰り返しながら、まず最初に探したのは――湊だった。
湊は、ベッドの上に仰向けに寝ていた。昨夜、眠った時にはなかったゴーグルをまた装着し、静かに、深く『眠って』いる。
愛子の胸に、ずしりとした絶望が押し寄せた。また、『そっちの世界』に行ってしまった――。
せっかく、ほんの少しだけ湊が戻ってきたのに。ほんの少しだけ、手が届いた気がしたのに。
力が抜けたようにうつむいたそのときふと、肩に何かが掛けられていることに気づいた。
タオルケットだった。
昨夜、確かに自分はそんなものをかけた覚えはない。
きっと、湊が――
意識が朦朧とする中で、自分にそっとかけてくれたのだろう。
絶望と、そして、たまらないほどの優しさ。二つの感情が胸の奥でぐしゃぐしゃに混ざり合い、愛子はどうしていいのかわからなかった。
ただ、タオルケットの端をぎゅっと握り締め、目の奥にまた溢れそうになる涙を、必死にこらえるしかなかった。
このまま、ずっと湊のそばにいたい――
そう思った。
一歩も動かず、時間が止まってしまえばいいと、心のどこかで願っていた。
けれど、現実は待ってはくれない。愛子には、まだ背負うものがある。
必死に目指した、看護師という仕事。命と向き合うことの重さも、やりがいも、愛子は知っていた。誰かの役に立てること、それが自分に残された、もう一つの意味だった。
「行かなきゃ……」
静かに、ほとんど声にならない声で呟く。その言葉に、自分を無理やり動かす。
ゆっくりと立ち上がり、重い足取りで浴室へ向かう。
シャワーの水が肌を叩くと、身体がわずかに震えた。
現実が、皮膚を通して染み込んでくるようだった。
髪を乾かし、私服に着替える。どれも手慣れたはずの動作なのに、どこかぎこちない。
気持ちだけが、置いてきぼりになっているようだった。
化粧は、いつもよりさらに簡素に済ませた。
それでも、鏡の前に立ち、肌を整え、目元を整えるその手だけが――
かろうじて、社会の中の『自分』を保とうとしていた。
無駄なことだと、わかってはいる。それでも、何かせずにはいられなかった。
愛子は、キッチンの片隅に置かれたペットボトルを手に取ると、冷たい水を注ぎ入れ、そっと湊の枕元に置いた。
湊は、ゴーグルをつけたまま、静かに寝息を立てている。その顔に手を伸ばすことは、やはりできなかった。
「……いってきます」
愛子は、ほとんど聞き取れないほど小さな声でそう呟き、扉の前で一度だけ振り返り、そのまま、音を立てないように、静かに部屋をあとにした
ナースステーションの空気が、いつもとどこか違っていた。
書類をめくる手を止め、ふと顔を上げた後輩のナースが、そっと愛子のほうを見た。
別の同僚も、処置の合間に一瞬だけ視線を向けては、すぐにそらす。
けれどその視線の端には、明らかな『心配』がにじんでいた。
愛子はそれに気づかないふりをしていた。いつも通りの動作、いつも通りの笑顔。
──のつもりだった。
だが、その笑顔は少し引きつっていた。瞳には光がなく、声にも張りがない。
患者との会話も、必要最低限の言葉だけが、感情のこもらないまま口をついて出ていく。
ほんの数週間前までは違っていた。
彼女は、明るくはきはきとした声で患者の手を取り、何気ない会話で笑わせ、
ときにはベッドのそばにしゃがみ込んで、真剣に耳を傾けることもあった。
だが最近では、その『らしさ』が少しずつ、確実に薄れていった。
特に、昨日からの変化は明白だった。
愛子は、崩れ落ちそうな自分をかろうじて支えるように、笑顔を装い、手を動かしている。
けれど仕事への集中は明らかに散漫で、何かを置き忘れてきたような、どこか上の空のまま、時間だけが過ぎていた。
処置室から戻ったタイミングで、永原がそっと愛子の横に並んだ。周囲に気を遣うように声を潜めながら、しかしその目はまっすぐだった。
「愛子さん、大丈夫?無理してるんじゃないかと思ってたんだけど……やっぱり、今日は休んだほうがよかったんじゃない?」
愛子は、はっとして顔を上げる。そして、すぐにいつものように笑顔を作った。
──少しだけ、ぎこちない笑顔だった。
「全然、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで……。ご心配おかけして、すみません」
懸命に答えるその声は、どこか力が入っていた。
永原は数秒間だけ視線を愛子に留め、それ以上は深く追及しなかった。
頷きながら、小さく息を吐く。
「そう。ならいいんだけど。……で、昨日言ってた話なんだけどさ」
愛子の表情が、すこしだけ引き締まる。永原は周囲に聞かれないよう配慮しながら続けた。
「夜勤の件、一応調整つきそう。今日明日はちょっと動かせなかったんだけど、明日は日勤だけ入ってもらって、明後日はお休み入れられるから。そこから夜勤なしでしばらく組んでみるつもり」
一息で言い終えると、永原は気遣わしげに愛子の様子をうかがう。
愛子は、胸の奥にひとつ、小さく温かいものが灯ったように感じた。
迷惑をかけているという申し訳なさと、救われたような安堵が入り混じった感情が、喉元までせり上がる。
「ありがとうございます……助かります……」
深々と頭を下げる愛子に、永原は少しだけ間を置いてから、できるだけ軽い口調で言った。
「……何かあったら、気にしないで相談してね」
その声音には、あくまで気を使わせまいとする、さりげない優しさがにじんでいた。
16時を少し回った頃、愛子は無言で更衣室に向かい、着替えを終えると、ナースステーションに軽く頭を下げて出口へと歩き出した。
「おつかれさま」と声をかけようとした永原は、わずかに口を開いたが、結局何も言わず、その背中をただ目で追った。
病院を出た愛子の足取りは、まるで何かに導かれるように迷いがなかった。駅への道も、電車の乗り継ぎも、すべて無意識にこなすように、まっすぐ湊の元へと向かっていた。
愛子は電車の揺れに身を預けながら、明日の勤務のことをぼんやりと思い浮かべていた。
今日、永原が言ってくれた「明日は日勤、明後日は休み」という配慮には、素直に感謝していた。
そして内心、(明日も病院に行けてよかった)と思っている自分がいた。
明日、病院でやらなければならないことがある。
やりたいことがある。
それは、愛子にとって『湊のため』に他ならなかった。
湊のために必要なことを、自分の手で確かめて、進めなければならない――
ただそれだけだった。
けれど、もし誰かがその思考の奥を覗いたら、きっと驚くかもしれない。
それがどれほど危うく、どれほど取り返しのつかない選択へと繋がっているのか、愛子自身はまるで気づいていなかった。
破滅の引き金を引くという意識など、かけらもない。
あるのはただ、湊を守るために『正しいことをしている』という、静かで揺るぎない確信だけだった。
駅前のスーパーに立ち寄った愛子は、昨日とは打って変わって、ゆっくりと店内を歩いていた。
カゴを片手に、ひとつひとつの野菜や肉、調味料を丁寧に選びながら、その用途を心の中で思い浮かべていく。
湊のために、いつでも栄養のある手料理を作ってあげられるように。
彼が目を覚ましたとき、いつものように食卓に温かい食事が並んでいるように。
「……なんか、ちょっとお嫁さんみたいだな……」
自分でもふとそう思って、頬が少しだけ緩んだ。表情にわずかなやわらかさが戻る。
今だけは、現実の重たさも忘れて、誰かのために何かをすることの喜びが、ほんのわずかに心を軽くしていた。
レジを済ませたあとは、また何の迷いもなく湊の家へと足を向ける。
先ほどまでの張り詰めた表情は少しやわらぎ、手にした買い物袋が、どこかあたたかな未来を抱えているようにも見えた。
しかし、湊の家のドアを開けた瞬間、愛子の胸にずしりと現実の重みが戻ってきた。
部屋の中は、朝出ていったときと何ひとつ変わっていない。
湊はベッドの上で仰向けに寝そべり、ゴーグルをつけたまま、まるで時間が止まったように微動だにしない。
テーブルの端に置いていったペットボトルの水。
朝と同じ位置、同じ向きで、そこにある。中身は1ミリも減っていなかった。
「……ただいま」
愛子はそう、か細く呟いた。
返事がないのはわかっているのに、声に出さずにはいられなかった。
そのまま重い足取りでキッチンに向かい、買ってきた食材をひとつひとつ冷蔵庫へとしまっていく。
野菜を入れるたび、肉のパックを並べるたびに、愛子の表情は少しずつこわばっていった。
さっきまでの、ほんの一瞬の温かさが、静かに、冷たく、押し戻されていくようだった。
何かに引き寄せられるように、静かに湊のもとへ歩み寄る。
ベッドの脇に腰を下ろし、そっとその顔をのぞき込んだ。
顔の半分程を覆うゴーグルで、目を開けているのか閉じているのかも分からないが、唯一見えるその口元は、穏やかな笑みをたたえているようにも感じる。
けれど、微かに上下する胸の動きと、規則的とも不規則ともつかない呼吸音が、どこか現実味を欠いていた。
これは、眠っているのか?
それとも……起きている?
それすらも曖昧で、愛子は自分の理解が少しずつ崩れていくのを感じた。
数分、ただ見つめ続けたのち、愛子はふと何かを思い立ったように立ち上がった。
部屋の中を静かに探り始める。
棚の下、引き出しの奥、クローゼット、そしてベッドの下。
その奥に、見覚えのない箱がひとつ見つかった。
少し埃をかぶっているが、何かが入っていた形跡はある。大きさ、形……これだ。
湊が装着しているゴーグル。それが入っていたであろう、元の箱。
愛子は箱を引き出し、裏面や側面を目でなぞるように見回した。
探していたのは――メーカー名と商品名。
それさえわかれば、何かに繋がるかもしれない。湊に起きてほしい。それだけだった。
「Neuronis Systems」のロゴと、その下に小さく記された商品名「SynDive-VR03」。
それらを目で追ったあと、愛子はスマホを取り出し、指先で静かに画面を操作する。
検索バーに「Neuronis Systems SynDive-VR03」と打ち込む。
一瞬ためらったのち、スペースをひとつ空け、
「危険性」
と入力し、ゆっくりと検索ボタンを押した。
愛子は、ソファに腰を下ろしたままスマホを手に取り、しばらくスクロールしていると、公式サイトらしきFAQページを見つけ、そこをタップする。
『ログイン中にゴーグルを外すとどうなりますか?』
その質問に対する答えは、愛子が想像していた以上に重い内容だった。
──神経系に異常をきたす可能性があります。記憶障害や運動障害、最悪の場合、死亡する危険もあるため、ログイン中にゴーグルを外すことは絶対におやめください。
──一応、安全機能として、外部から強制的に外そうとした場合や不意に外れそうになった際には、自動でセーフログアウト処理が作動する設計にはなっていますが、これはあくまで補助的な機能であり、確実な安全を保障するものではありません。
──使用時は必ず正しく、しっかりと装着してください。
その文面を目で追いながら、愛子は無意識に手を口元に当てた。
背筋にじわじわと冷たいものが這いのぼってくる感覚。
「……そんな……」
かすかに呟きながら、愛子は震える指でスマホを持ち直した。
その下には、さらに注意文が続いていた。
『ログイン中の飲食は誤嚥のリスクがあるため、絶対に避けてください。深い接続状態にある場合、外部からの呼びかけはプレイ中のゲームによっては危険な場合があります』
『連続プレイは最大8時間まで。それ以降は8時間以上の間隔を空けてください』
淡々とした文面だったが、どれも現実とは思えないほど厳しく、冷たく感じた。
愛子の手のひらには、じんわりと汗が滲んでいた。
「……湊、大丈夫なの……? どうしちゃったの……?」
そう声をかけそうになった瞬間、愛子ははっと息を呑んだ。
——ログイン中に話しかけるのは避けるように。
あの警告文が、頭の中で鮮明に蘇る。
唇を噛みしめ、言葉を呑み込む。
声に出してはいけない。
でも、言いたいことは山ほどあった。
心の中で、そっと湊に語りかける。
(……ねえ、湊……聞こえてる?
今、どこにいるの?
そこは、そんなに居心地がいいの……?
お願い、無理しないで。帰ってきて……)
愛子は湊のそばにそっと腰を下ろし、その寝顔を見つめ続けた。
何も言えない、そのもどかしさが胸に沁みていく。
その時、不意にスマホからLINEの着信音が鳴った。
愛子は驚いたようにバッグに手を伸ばし、慌ててスマホを取り出して画面を確認する。
《今日は夜勤かな? 俺は今、あのクロノにさ、仲間たちに戦い方を教えてやってくれって言われたんだ。中には、あの!大手企業『東亜開発』の取締役専務だって言うRYU(リュウ)って人もいるんだよ。なんでそんな人が俺に敬語使ってくるんだよって、ちょっと不思議な気分。
てか、金ならあるはずなのに、課金もあんまりしてないっぽい。ま、本当かどうかわからないけどね(笑)
みんなそれぞれ事情あるんだな、って最近やっとわかってきた。でも、俺、みんなに頼られちゃって大変だよ(汗)》
画面に並ぶ文字は、現実の湊を知る愛子には、まるで別人が書いたように思うほど、あまりに生き生きとした文章だった。
けれど湊は確かにそこにいて、自信に満ちたその言葉が、画面越しに静かに突き刺さってきた。
愛子はスマホを持つ手をじっと見つめたまま、指を動かすことができなかった。
現実では見たことがないような、自信に満ち溢れた湊の言葉。
仲間に慕われ、胸を張って『頼られてい』と語る姿が目に浮かぶようで──
でも──
今の湊はただ眠っているだけだよ。何もしていないんだよ──
このまま返信すれば、現実の異常を伝えることになる。何日も眠り続け、食事も水分もとらず、静かに横たわっている今の姿を。
けれど、今の湊に、そんな残酷な現実を叩きつけていいのだろうか?
「でも……言わなきゃ……」
そう思ってスマホに指を伸ばすが、心が追いつかない。こんなに嬉しそうに語る湊を、どうして今すぐ壊す必要があるのかと、自分に問い返してしまう。
それに、少しだけ……少しだけでいい。今の彼の自身を、信じてみたくなる。
しばらくの沈黙のあと、愛子はそっと画面に指を滑らせた。
そして、ただこう返した。
──【すごいじゃん湊。ほんとに頑張ってるんだね。ちゃんと食べて、無理しすぎないでね。応援してるよ】
メッセージを送り終えたあとも、愛子の手はしばらくスマホを握ったままだった。
胸の奥に何かが引っかかっているはずなのに──
不思議と、心は少しだけ軽くなっていた。
「……そっか、湊、頑張ってるんだ……」
思わず口をついて出たその言葉。ほんの少し、微笑んでいた自分に気づいて、愛子は目を伏せた。
現実の湊は、今もベッドの上で微動だにしない。息をしているか確かめたくなるような、静かな眠り。その異常な姿を知っていながら──いや、だからこそなのか──
VRの中で活躍する『ミナト』の姿に、自分も縋りたくなっていた。
皆をまとめ、頼られ、尊敬される湊。その背中を、愛子が支えなければ。
(……応援しなきゃ。あの子、今、頑張ってるんだから……)
誰に言い聞かせるでもなく、心の中で繰り返す。
『支える』という言葉が、いつの間にか『戦う彼を支える者』にすり替わっていることにも気づかずに。
ほんのわずかに、愛子の中で現実と虚構の境界が揺らぎ始めていた。
湊ではなく、ミナトを心配し、ミナトの活躍を祈り、湊とミナトのために自分が何をすべきかを考える。
それが、正しいのか、間違っているのか。すでに愛子の中では、その判断が曖昧になり始めていた。
翌朝、愛子は6時のアラームの音で目を覚ました。
隣では、湊がゴーグルをつけたまま、微動だにせず『眠って』いる。唇は乾ききり、肌は青白く、もはや『眠っている』というより、『止まっている』ように見えた。
――このままじゃ、本当に死んでしまう。
愛子はそっと立ち上がり、クローゼットを開ける。奥にしまってあった黒いリュックを取り出し、スウエットや、タオルをできるだけ詰める。なんの為かは、自分が一番よくわかっていた。
(やるしかない……)
朝食を取る気にもなれず、ただ身支度を整えて家を出た。
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