第10章 崩れた部屋①
気がつけば、夕方。
茜色の空の下、湊は無意識のうちに自分のアパートへとたどり着いていた。
重い足を引きずり、階段を上がる。そして、自室の前に立ったそのとき──
「湊!」
呼び止める声がした。
顔を上げると、そこには愛子がいた。
「……ちょっと、どうしちゃったの……!?」
駆け寄ってきた愛子の顔は、涙ぐみそうに歪んでいた。
「佐伯さんって方から……湊の会社の人……病院に連絡があったの。様子がおかしいって……
それで……心配で、すぐ来たの」
愛子は、息を切らしながら言った。
湊は、ぼんやりと愛子の顔を見つめたあと、かすかに笑った。
「ああ……佐伯、心配してくれたんだ……はは……俺、首になっちゃったよ……」
乾いた、力のない笑い。その笑いに、愛子の胸は締めつけられた。
「……とにかく、家に入ろう。ね?」
愛子に腕を取られ、湊は力なくうなずく。
ドアを開けて、部屋に入る。
──そして、愛子は絶句した。
部屋中に散らかった洗濯物。ゴミ箱から溢れたカップ麺の容器とペットボトル。
鼻をつく、生臭いような異臭。
まるで、誰の手も入らず、時間だけが腐敗していったかのような空間だった。
「……湊……」
愛子は、呆然と呟いた。
湊は愛子の反応を気にするでもなく、そのままソファに崩れるように座り込んだ。
ぼうっと、どこを見るともなく天井を見上げながら。
生気のない顔。力の抜けた手足。
そこにいるのは、かつて自分を笑わせてくれた湊ではなかった。
愛子は、目の前の惨状に一瞬心を奪われた。
けれど──すぐに、頭を振った。
しっかりしなきゃ。
ここで私まで狼狽(うろた)えてしまったら、湊はもっと壊れてしまう。
彼は、ちょっと疲れてるだけ。ちゃんと休めば、きっと元に戻る。
──私がいる。
──私が元気にしてあげるんだ。
胸の奥に、かすかな決意が灯る。
愛子は、ソファに崩れたままの湊に、精一杯の明るい声で言った。
「ね、湊……なにか、栄養のあるもの食べよう?私、何か作るから!」
湊は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に、以前のような輝きはなかったけれど──
愛子は、無理にでも笑ってみせた。
「ちょっと待っててね。すぐ、できるから!」
そう言って、愛子はキッチンへと向かった。
転がるゴミや、薄汚れた流し台を見ても、立ち止まらない。
今、湊を支えられるのは私しかいない。
そんな想いだけを頼りに、愛子は冷蔵庫を開いた。
もちろん、大したものはなかった。冷蔵庫の中は、ほとんど空っぽ。
かろうじて残っていた食材も、しなびたり、変色したりして使い物にならない。
キッチンの棚を開けても、インスタント麺やレトルト食品ばかり。
(こんなの……食べさせたくない……)
愛子は唇を噛んだ。
「私、ちょっと材料買ってくる!待っ……!」
振り返りながら、湊にそう呼びかけた──その瞬間。
愛子は言葉を失った。
湊は、もうベッドに横たわっていた。
ゴーグルを目に当て、まるで命を抜かれたように、静かに仰向けになっている。
そこにいるのは、愛子を待つ気配すらない、ただ『あちらの世界』に逃げ込もうとする、
壊れかけた青年の姿だった。
「……湊……」
震える声で呼びかけても、湊は反応しない。
ゴーグルの奥で彼が見ているものは、愛子のいる現実ではなかった。
愛子は、ぽつりとその場に立ち尽くした。
手のひらに、まだ『待ってて』と言おうとした時の、熱だけが残っていた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
気づけば、部屋はすっかり暗くなっていた。
カーテンの隙間からわずかに漏れる街灯の明かりだけが、ぼんやりと空間を照らしている。
電気もつけず、愛子は湊のベッドのそばに、ただもたれかかっていた。
ベッドに横たわる湊は、ゴーグルをつけたまま、微動だにしない。
愛子は、じっとその横顔を見つめていた。ただ、そこにいることしかできなかった。
暗闇の中、時間の感覚はどこかへ消えた。静寂だけが、重たく空気を支配していた。
──そのとき。
突然、スマホの着信音が鳴った。
音が、この異様な静けさを無惨に引き裂く。愛子はびくりと体を震わせ、慌ててスマホを手に取った。
画面に表示されたのは、LINEの通知。
小さく光るその文字が、やけにまぶしく感じた。
誰だろう──。
一瞬だけ期待する。でも、それが誰であれ、現実に引き戻されるのが怖かった。
愛子は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
──湊からだった。
「えっ……」
驚きに、思わず小さく声が漏れる。
愛子は慌てて、ベッドに横たわる湊を見た。
「湊……?」
呼びかける。けれど、湊は反応しない。
相変わらず、ゴーグルをつけたまま微動だにしない。
──そのとき、またLINEの通知音が鳴った。
震える指でスマホを開く。画面に表示されたメッセージに、愛子は目を見開いた。
《愛子ごめん!今日は残業になりそうなんだ(泣)》
さらに続けてメッセージが届く。
《そう言えば愛子、今日ウチにいたよね?冷蔵庫の中のもの適当に食べちゃっていいよ!今日は徹夜になりそうだ!頑張んなきゃ!!》
(まって、意味が、わからない!)
つい数時間前まで、この部屋で、壊れたように横たわっていた湊。
今も、目の前にいる。スマホも手に持っていない。なのに、メッセージは確かに湊から届いている。
しかも、その文面はあまりに明るく、元気すぎた。
愛子の中で、寒気が走る。
(……湊……どういう事?……残業って何の事……?)
震える手で、もう一度、目の前の湊を見た。ゴーグルの奥で、彼がどこを彷徨っているのか、
もう愛子にはわからなかった。
けれど──
不思議と、愛子の胸に湧いてきたのは、怖れだけではなかった。
あのLINEの、明るい絵文字。冗談交じりの軽い言葉。
そこに、ほんの少しだけ──かつての湊の、面影を感じた。
(……湊……)
ぎゅっと胸が痛くなる。
本当は、こんな形じゃダメだって、わかってる。現実じゃない。こんな現実の逃げ方、正しくない。
だけど。
(どこかは分からないけど、元気な湊がいる……)
それだけが、ただ嬉しかった。生きる気力を失って、朽ちるようだった湊が、
少しでも笑っているのなら──それでいいと、思ってしまった。
その瞬間、愛子の中で、何かが音を立てて壊れた。
現実に引き戻すことも、正しい未来を歩かせることも、愛子にはできない。
それならせめて、この仮初めの幸せを、壊したくないと、心のどこかで願ってしまった。
(いつ、起きるのかな……)
ベッドの上の湊を見つめながら、愛子はぼんやりと考えた。
(きっと、いつかは戻ってくる。その時、私がいなかったら……)
そんなの、あまりに寂しすぎる。湊がまたひとりになったら──きっとまた壊れてしまう。
(今日は、泊まろう)
そっと心に決めると、
愛子は立ち上がり、湊に向かって明るく声をかけた。
「ねえ、湊、今日は泊まっちゃうね!」
もちろん、湊からの返事はない。それでも、愛子は笑った。
「シャワー、借りるよ〜」
振り向けば、ベッドには、ゴーグルを装着したままの湊。もちろん、何の反応もない。
だけど。
愛子は、それでも笑った。
愛子はバスルームでシャワーを浴びた。熱い湯を肩に受けながら、疲れた心と体を少しでも洗い流そうとする。
ざっと体を拭いて、バスタオルを体に巻きつける。湊の部屋に戻ると、クローゼットをそっと開けた。
(なにか、借りるね)
無言で服を探す。
部屋の中にはまだ、電気もついていない。ぼんやりとした夕闇のなか、愛子の白い肌とバスタオルが静かに浮かんでいる。
ふわりと柔らかい感触の、大きめのティシャツを見つけた。愛子は湊のほうを振り返り、からかうように明るく言った。
「借りるよー、湊。」
もちろん、返事はない。
苦笑しながら、愛子はバスタオルをほどき、その場でティシャツを頭からかぶった。
湊のティシャツは、彼女の細い体にはだぶだぶで、肩が少しずり落ちそうになる。
それでも愛子は、裾をくしゃっと握って、ふわりと笑った。
「へへ……セクシーでしょ?」
ベッドの上、ゴーグルをつけたまま眠る湊に、冗談めかして言う。
応答はない。けれど、愛子は構わず、静かに湊のそばに腰を下ろした。
まるで、
なにか大切なものを守るように──。
湊の寝顔を、愛子は静かに見つめていた。
部屋は暗いまま。窓の外では風の音が、かすかに耳をくすぐる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます