第9章 もうひとりの自分②
村は着実に拡張され、『ミナト』という存在は、確かに『この世界』の中核になっていく。
そして、その中で――ミラとの関係にも、変化があった。
夜の焚き火のそば、ふいに肩を預けてきたミラ。湯気の立つ泉で、ふと重なった手。
触れた指先に、笑顔に、言葉に、少しずつ自分の中の『現実』が溶けていくのを感じた。
やがて彼女は、村の片隅にある薄暗い小屋の中で、ミナトの名前を――まるで肌をなぞるように――甘く囁いた。
その直後、視界の端にシステムメッセージが浮かび上がる。
《成人コンテンツに関する確認:同意の上で進行しますか? YES / NO》
ミナトは手を止め、目の前のミラに問いかける。
「……いいのか?」
ミラは一瞬だけ視線を宙に向けた。
彼女の側にも、同じメッセージが表示されていたのだろう。
やがて、ゆっくりとミナトに微笑むと、静かに頷きながら言った。
「もちろん。……わたしも自分の意思で、そうしたい」
ミナトは『YES』を、ミラも『YES』を、それぞれ選択する。
メッセージはふっと消え、空気の温度がほんの少しだけ上がったような気がした。
ミラはそっとミナトの手を取り、自らの胸元に導くその仕草には、確かな熱があった。
ゆるやかに重なる身体と吐息。現実で愛子と過ごした夜の記憶が、少しずつ、柔らかく、仮想の熱に塗り替えられていくのを、ミナトは止める事が出来なかった。いや、止めようともしなかった。
その行為は、いつの間にか『毎晩のこと』になっていた。仮想の夜、静かな小屋の灯りのもとで、ミラは何も言わずにミナトを受け入れた。
触れ合いは日ごとに熱を帯び、彼女の柔らかな吐息と肌の感触が、現実の記憶を次々と塗りつぶしていく。
そして朝。
現実に戻るたび、湊はしばしぼんやりと天井を見つめていた。下着に残る濡れた感触に気づいても、もはや驚きはなかった。
(……またか)
夢精の痕跡が、ただの生理現象として処理されるほどに、すでに日常だった。
そのまま無言でシャワーを浴び、ベッド脇に脱ぎ捨てたままのパンツを手に、機械的に洗濯機を回す。気だるさが体にまとわりつき、現実のすべてが仮のように思えた。
身支度もどこか雑だった。髪は寝癖が残り、ネクタイは緩い。それでも、会社へ向かう足は止まらない。
『こなす』だけの日々――湊の意識は、すでに半分以上、『あちら側』にあった。
『あの戦い』の日の週末、愛子は夜勤だった。
「1週間お疲れ様!私は夜勤だよ~(泣)」
そう届いたLINEに、湊は返事を打ちながら、どこかで『時間をもらえた』ような気がしていた。
会えないことに罪悪感はなかった。いや、それ以前に、愛子の『存在』という感覚自体が、少し遠くなっていた。
だが、完全に現実を離れるわけにもいかない。『あの戦い』の週明け、平日の夜。久しぶりに愛子の部屋で食卓を囲んだとき――
湊はその違和感に、うまく言葉が追いつかなかった。
「……体調、良くない?」
差し出されたシチューを三口ほど食べたところで、愛子が訊いた。声はいつも通り優しい。けれど、耳に届くまでにどこか距離があった。
「いや、大丈夫。ちょっと寝不足かも」
口ではそう答えた。でも、目の前の湯気や皿の色、愛子の声のトーン――
それらすべてが、どこか『解像度の低い現実』のように感じられた。
シャワーを浴びているあいだも、無意識に思い浮かべていたのは、村の宿屋の天井。
ベッドに入り、隣に愛子のぬくもりを感じていながらも、湊の意識は、『別の場所』を彷徨っていた。
(……はやく拠点のレベル上げなきゃな)
(俺が頑張らないと……)
そんな思考のまま、目を閉じる。
それが『思考の異常』だと気づくには、もう手遅れだった。
愛子との予定が無い日は、会社から帰ると、反射のようにゴーグルを手に取る。夕食も風呂も後回しにして、『あちらの世界』に没入する。
そこで戦い、狩った獣を焼いて食べ、水を飲み、ミラのぬくもりに包まれて眠る。
すべてが『本当に満たされた気』になれた。
現実での空腹も、孤独も、疲れさえも、そこにはなかった。
(……俺、ちゃんとやれてる。食ってるし、寝てるし)
だが、もちろん現実は違っていた。
朝7時。
スマホのアラームで『目を覚まし』、ゴーグルを外す。
視界はぼやけ、身体は重く、喉は焼けるように渇いている。
冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を一気に飲み干す。
それでも足りず、2本目に手を伸ばす。それが毎朝の習慣になった。
水で膨れた腹に、空腹を感じる余地はない。以前なら出勤途中に寄っていたコンビニにも行かず、朝食を抜くようになった。
(腹は減ってない……)
昼も、ペットボトルのお茶と栄養ゼリーだけ。
それだけで妙に満足していた――気がしていたたげなのだが……
実際には食べていないのに、満たされた錯覚だけが残る。水分で誤魔化された身体。
あちらの『満足感』が、現実の自分を蝕んでいく。
それでも、会社には行けてしまう。与えられたタスクを淡々とこなし、誰とも話さず、誰にも気づかれず、ただ静かに『湊』として消耗していく日々。
そして夜が来れば、また『ミナト』になる。称賛され、感謝され、『必要とされる世界』。
そこにいる『ミラ』の笑顔が、日を追うごとに愛子を薄めていく。
現実と虚構、その境界線が曖昧になっていくことに、湊は、もう気づかなくなっていた。
朝7時。
スマホのアラームがけたたましく鳴り響く。半ば無意識のうちにゴーグルを外し、ベッドレストを取り払う。
目覚めた場所は、『現実世界』の自室。でも、魂の半分はまだ、『あちら側』に取り残されていた。
眠りは、最近ほとんど仮想世界で済ませている。『あちらの世界』で横たわり、ベッドに身を沈める──
それだけで現実世界の体も休まる、そう思っていた。
食事も同じだった。仮想世界のレストランで食事をし、満足感を得る。だが、もちろん現実には何ひとつ栄養は摂取されていない。
当然のように、湊の体はやつれていった。頬はこけ、肌は青白く、指は骨ばった。
それでも、湊は気に留めなかった。
シャワーを浴びるでもなく、ぼんやりと着替え、気怠そうにアパートを出る。
駅までの道のりも、電車の揺れも、まるで夢の中を漂っているようだった。
職場に着き、自分のデスクに向かう。PCを立ち上げ、ルーティンの作業を始める。
──淡々と、指を動かす。
けれど、画面に並んだ文字列は、意味を成していなかった。
奇妙な羅列。
無意味な数字。
支離滅裂な単語。
誰にも気づかれない。いや、誰も、湊に関心を向けていない。
世界の輪郭が、徐々に溶けていく。
湊は、ただ空っぽな目で、キーボードを叩き続けた。
──カタカタカタカタ。
無意味な文字列を打ち続ける湊。
ふいに、鋭い怒号が飛んだ。
「おいッ!!」
背後から叩きつけるような声に、湊の指が止まる。
顔を上げると、怒りに顔を紅潮させた上司が仁王立ちしていた。
デスクの上に、ミスを指摘する赤ペンだらけの書類が叩きつけられる。
「いい加減にしろ!お前!最近何やってるんだ!適当な事ばっかりしやがって!」
周囲の視線が一斉に集まる。
でも、湊の心には何も響かなかった。
ぼんやりとした目で、ただ上司を見上げる。まるで、どこか別の場所にいるかのように。
上司の堪忍袋の緒が切れるのに、時間はかからなかった。
「……もういい。帰れ!明日から、来なくていい!!」
フロアに、乾いた沈黙が落ちた。
湊は、ただぽかんとそれを聞いていた。驚きも、怒りも、悲しみも、何も湧いてこなかった。
目の前の現実が、ただの仮想空間のイベントのひとつのように思えた。
誰かが、遠くでため息をついた。
湊は、そっと立ち上がる。
机の上には、まだ立ち上がったままのPC。開きっぱなしのファイル。ぐちゃぐちゃにされた書類。
何ひとつ、整理する気力もなかった。
そのまま、荷物も持たず、湊はふらふらと、オフィスを後にした。
まだ昼にもなっていないというのに、湊は、フラフラと街をさまよっていた。
どれだけ歩いたのか、自分でもわからない。景色が変わるたび、ただ流されるように歩き続けた。
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