第8章 揺らいだ決意①
その日は、気持ちもどこか軽やかだった。
仕事を終えた湊は、帰り際に愛子と軽くLINEでやりとりをし、近所のコンビニで弁当を買って、まっすぐ家に帰った。
部屋のドアを開けると、暗がりの中で見慣れたものが目に入る。ベッドに無造作に放り投げられたゴーグル。その横で、充電中の赤いランプだけがぼんやりと光っていた。
その光が、なぜだか今は、少し不気味に見える。
湊はしばらくそれを見つめていたが、やがて静かにため息をつくと、コードを抜き、ゴーグルをもとの箱に戻した。
(……まだ未練がないわけじゃない)
(でも、いまは――しばらくやめておこう)
箱をベッドの下にそっとしまい込んだ。それだけで、肩のあたりが少しだけ軽くなった気がした。
立ち上がり、部屋を見回す。
どこか空気が重たいのは、部屋の散らかりも一因かもしれない。
キッチンに視線を移すと、シンクに放置されたカップラーメンのゴミ。レンジの中には、途中で忘れ去られたパスタの容器。
「……こんなんじゃ、ダメだな」
ぽつりと呟いて、湊は袖をまくった。キッチンから始め、お風呂、トイレ、リビングと、順番に手をつけていく。手を動かすほどに、頭の中のもやもやが少しずつ晴れていくのを感た。
そういえば――
愛子も言っていた。「悩んだときや、凹んだときは掃除が一番だよ」って。
(……本当に、そうだった)
ゴミ袋をまとめ終える頃には、部屋の空気が少し変わっていた。『あちらの世界』への気持ちも、驚くほど穏やかに引いていた。
湊はスマホを手に取り、愛子にLINEを送る。
【今日は部屋片付けた。気持ちだいぶ晴れたよ。あの言葉、ほんとだった。やっぱり愛子はすごいや……】
送信ボタンを押したあと、ふっと笑みがこぼれた。
熱めの湯にじっくりと浸かり、湊はじんわりと身体の芯まで温まっていくのを感じていた。風呂あがりにタオルで髪を拭きながら、こんなふうに湯船につかるのはいつぶりだろうと思う。
レンジで温めたコンビニ弁当をテーブルに置き、缶ビールを一本開ける。ささやかな晩酌。ビールの泡が喉を通り、ふっと肩の力が抜けた。テレビをつけたまま、湊は弁当を食べる。
戦争映画のCMが流れ、有名な俳優がサバイバルナイフを構えて走っていた。
ふっと笑みがこぼれる。
でも、そこにあったのは、もう突き動かされるような衝動ではなかった。
食事を終え、もう一本のビールを開けながら、画面をぼんやり眺める。湯上がりの火照りと心地よい満腹感。時計を見ると、まだ22時前だった。
(……今日は、もう寝よう)
自然とそう思えた。不思議なほど、心も身体も静かだった。
スマホを手に取り、愛子にLINEを送る。
【昨日はありがと。今日はもう寝るね。】
画面を伏せて、ベッドに身を預ける。ほどなくして、通知が鳴った。
【こちらこそ。おやすみ、湊】
短い返事。でも、その言葉だけで、胸の奥があたたかくなる。
【おやすみ】
柔らかなシーツに身体が沈み、思わず深く息を吐いた。穏やかに満たされたまま、湊は音もなく眠りに落ちた。
* * * *
どれほどの時間、薄暗くところどころに煙が立ち込める瓦礫の街を彷徨っていたのか。
ミナトは、いくつかの死体を覗き込んでは、その顔が、いや、名前すらも思い出せない『誰か』を探していた。
脅威はすでに去っているようだった。銃声も、爆発も、今はどこにも聞こえない。
生き残っている者が何人かいたが皆、怪我をし、憔悴しきっている表情だった。ミナトも腹部を撃たれていた。シャツの裾から赤黒い血が流れているのが見えた。
けれど、不思議と痛みはなかった。ただ、少しずつ体温が下がっていくような感覚だけが残っていた。
探し人の事を尋ねようにも顔も名前もわからなくては尋ねようがない。
ふと、視界の先に三階建ての建物が見えた。その形、その色――どこかで見たような気がする。
正確には、『見た気がする』気がした。
記憶の底にこびりついたような、はっきりしない既視感だけが残る。
ミナトは、まるで導かれるように、建物へ足を向けた。
言葉もなく、感情もなく、気づけば三階へと上がっていた。そしてまた、何の迷いもなく、ある一室の前で足を止める。
――ここだ。
理由はない。ただ、そう思った。無意識のうちにズボンのポケットに手を入れる。金属の感触。取り出したのは小さな鍵。
なぜポケットに鍵があるのか。そもそも、この扉に合うものなのか――
考える間もなく、手は自然と鍵穴に差し込んでいた。
ガチャリ。
鈍い音。鍵が回る。不思議と、驚きはなかった。むしろ当然のように。だが扉を開ける手はわずかに震えていた。
そして『彼』は、そのまま部屋の中へと足を踏み入れた。
それが誰かに導かれたのか、自分が何かに操作されていたのか――『彼』にはわからない。
テーブルの上。丸い白い皿がふたつ並べられている。どちらも片側が汚れていて、茶褐色のソースが乾きかけて残っている。
ひとつは、食べかけのように。もうひとつは、綺麗に食べ終えたように。誰かと食事をした記憶のような『気配』だけが、濃密に残っていた。
そして、『彼』の目が、部屋の奥――ベッドへと引き寄せられで行く。
仰向けに横たわる人影。顔には、大きなゴーグルのような装置がかけられていた。
装置の表面は漆黒のパネルに覆われていて、外から一切の表情を読み取ることはできなかったが、
(この人だ。)
顔が見えないのに、なぜか『彼』にはわかった。自分が探していたのは、ここにいる『この人』だった。
そして同時に、何故だかわからないが、確信していた。
『この人』は、もう――2度と動かない、『戻ってこれない』と。
『彼』は、ゆっくりと『その人』に近づいた。
女性だった。
大きめのティシャツ。
その裾から、スラリと伸びた素足が、無防備にシーツへ沈み込んでいる。肌の白さが、薄暗い部屋のなかで妙に際立って見えた。そこにあるはずのぬくもりも、息づかいも、もうどこにもなかった。
顔の、そのゴーグルのような物の表面は漆黒のパネルに覆われ、完全に外界を遮断している。
まるで、その存在ごと現実から隔離されているかのように。
『彼』は手を伸ばしかけ、ふと躊躇した。ゴーグルに指が触れた瞬間、胸の奥にひどく冷たい感覚が走る。
――これは、外してはいけない。
なぜだかわからない。だが、そのままにしておけば、もしかして、まだ『終わらせずに済む』ような気がした。
このまま、目を逸らしてしまえたなら――
けれど。確かめなければならなかった。誰なのか。なぜ、こんなにも『ここにいる』と確信しているのか。
『彼』は、恐る恐るゴーグルの縁に指をかけた。ゆっくりと、それを外す。
次の瞬間、突風のように、記憶が吹き荒れた。
崩れていった日常。笑った顔。泣いた声。震えた手。救えなかった夜……?。交わした言葉。
記憶にない記憶、すべてが、一枚のパズルのように脳内に噛み合っていく。
肺を貫き、喉を焼き、声になって――
「……『Mira』っ!!」
「……ミラッ!」
声を張り上げて、湊は跳ね起きた。呼吸が荒く、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
心臓が胸を打つ音が、やけに大きく響いていた。目の前には、見慣れた天井。薄い朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。
(……ミラ?)
自分の声の響きに、湊は眉をしかめた。なんで“ミラ”なんだ?――
夢の中で、あの装置を外した顔も、今となってはぼやけている。それでも、確かにその名前を叫んでいた。
変な夢だ。と、片づけようとして、ふと息が止まる。
(……愛子の名前が、思い出せなかった)
それどころか、顔すらも思い浮かばなかった。いつもあんなにも鮮明に浮かぶはずの笑顔が、
一昨日の夜、手を伸ばせばそこにいたぬくもりが、まるで夢の外に追いやられていた。
不快だった。夢の内容か、自分自身か……理由も理解できず、胸の奥にざらついた何かが残っている。
その時、スマホが震え、アラームが7時を告げた。いつもの電子音が、やけに遠く感じられた。
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