第8章 揺らいだ決意②

スマホが7時を告げた直後、もうひとつの通知が画面に浮かんだ。


「おはよー おきたー?」

愛子からだった。


たったそれだけの短い言葉。でも、なぜかホッとした。現実に引き戻されたような安堵が、じわりと胸に広がっていく。


(……ありがとう)


そう思いながら、湊は枕元のスマホを手に取り、ゆっくりと返信を打った。


「今ちょうど起きたよ。おはよう。」


送信を終えると、スマホを伏せてベッドの縁に腰を下ろす。心臓の鼓動はまだ少し速かったが、さっきまでのざらついた不快感は、ほんの少し和らいでいた。


さっき見た夢――


あの異様な風景も、ぼやけた顔も、どこか霧の中に消えつつあった。


湊は、立ち上がってカーテンを開ける。朝の日差しが部屋に差し込み、時計の針がゆっくりと進んでいた。


「……行くか」


短く呟いて、湊は身支度を始めた。日常のルーティンに身を委ねながら、不思議なほど無言のまま、仕事へ向かう準備を整えていった。 


数日間――湊は、まだ現実に立っていられた。「あちらの世界」への渇望も薄れていた。


会社終わりに愛子へLINEを送り、彼女が夜勤でなければ、駅前で落ち合って夕食をともにしたり愛子の家に泊まりに行く。


会える日は限られていても、“湊”としての自分を保てる貴重なひとときだった。


愛子は相変わらず穏やかで、どこか疲れた笑みを浮かべながらも、湊の話に耳を傾けてくれた。


現実がつらくても、こうして言葉を交わせば、まだ大丈夫だと、自分に言い聞かせられた。


【だがその時すでに、湊の脳は、静かに蝕まれ始めていた。】


出勤中、すれ違った小型犬が甲高く吠えた。

その瞬間、湊の肩がぴくりと跳ねた。反射的に身構え、反撃してしまいそうになる。


リードを引いた飼い主が軽く会釈して通り過ぎていくが、湊の耳には、あの鳴き声がしばらく残響のように残っていた。


(……なんで、あんな小さい犬に……)


気のせいだと思い直し、職場へと足を進める。だが、席に着いて最初に開いたエクセルファイルを前に、違和感はさらに深まった。


マクロの実行方法が、思い出せない。


何度も使ってきた手順だ。指が勝手に動くほど、身体に染みついていたはずなのに――なぜか次のクリックがわからない。マウスを持つ手にじんわりと汗がにじむ。


(昨日、ちゃんと寝たはずなのに)


思考が濁る。視界の端が妙に眩しく、心臓の鼓動だけがやけに強調されているような気がした。


ただの疲れ?それとも――


湊は、誰にも気づかれないよう、深く息を吸った。


その日は、なんとか仕事を終えた。思うように手が動かない場面もあったが、誰にも気づかれずに済んだことが、今はただの救いだった。


帰り道、駅前の横断歩道。信号待ちの人混みの中で、誰かが肩をぶつけてきた。謝りもせずにスマホを見たまま歩き去る若い男。


(……なんなんだよ)


湊は吐き捨てるように思ったが、声には出さなかった。代わりに、しばらく男の背中をに睨みつけていた。


コンビニのレジでも、前に並んだ中年男性が小銭を探してモタモタしている。その背中がやけに苛立たしかった。


(なんでこんなに時間かかるんだよ……)


イライラする自分が嫌だった。でも、抑えようとすればするほど、鼓動が速くなっていく。


――ほんのささいなこと。


けれど、それがいくつも積み重なると、まるで『この世界』そのものが、自分にとって不具合の塊のように感じられてしまう。


自宅に戻ると、薄暗い部屋が出迎えた。湊はワイシャツを脱ぎながら、スマホを確認する。

愛子からは【今日は夜勤、また明日ね】という短いメッセージが届いていた。


画面を見つめたまま、ふっと息が抜ける。さっきまでの苛立ちが、少しだけ和らいだような気がした。

【おつかれ】【がんばって】

定型のようなLINEを返しながら、でも、どこか胸の奥にぽっかりと空洞があった。


コンビニで買った弁当をレンジで温め、缶ビールを1本開ける。テレビをつけるが、何の番組かも意識していない。映像は流れているのに、湊の目はその先を見ていた。


(……1人って、こういう感じだったけか)


心がどこにも引っかからず、ただ、時間だけが流れていく。

そのとき、ふと、ベッドの下にしまった黒い箱の存在が頭をよぎった。


『あちら側』――


あの世界の空気、重さ、光の感触。湊の中で、何かが微かにうずき始める。


そういえば――何日ログインしていないだろう。


ふと考えた瞬間、身体の奥がそわそわと疼いた。指先が落ち着かない。心のどこかが、あの世界の重みと喧騒を求めている。


(……いや、やめておこう)


平日はやらないって、決めたばかりだ。愛子にも、ちゃんと向き合いたいと思ったはずなのに。


そう自分に言い聞かせるように、視線をテレビに戻す。


CMばかりのバラエティ番組。大して面白くもない芸人が、大御所面して威張っている。


リビングの壁越しに、隣室の生活音――洗い物の音か、笑い声か――が断続的に耳に刺さる。


……すべてが、いちいち腹立たしい。


テレビの音量を少し下げた。でも、余計に隣の音がクリアになるだけだった。


その時、スマホが震え、メッセージを受信した。


愛子か――そう思って画面をのぞき込んだ湊の目に、表示された名前は別のものだった


【Mira(ミラ)】

《ミナトさん? 最近全然来てなくないですか? 忙しいのかな?》


指先が止まり、胸の奥がふっと跳ねた。あの世界の空気が、文字越しに立ちのぼってくるようだった。湊はすぐに返信を打ち込んだ。


《あーごめんごめん! ちょっと最近忙しくて。でも今週末には行けると思う!そっちはどお? みんな来てる?》


ミラの他にも、『あちらの世界』では何人かの仲間ができていた。


その中のひとり、KRON(クロノ)。

戦闘能力こそ湊には一歩及ばないが、知識と経験に裏打ちされた判断力は群を抜いていた。

モンスターのリスポーン間隔からレアアイテムの出現条件まで、彼の頭の中にはこの世界の構造が組み上がっているかのようだった。誰よりも無駄口が少なく、しかし必要なときには確かな言葉で状況を動かす。


彼はいつも湊のことを「ミナトさん」と呼んでいた。フランクさよりも、どこか敬意を含んだ響きで。


数分後、ミラからの返信が届いた。


《みんな来てますよー!クロノさんも「ミナトさん、最近来てませんね」って言ってましたよ》


その一文を目にしたとき、

『向こうの居場所』が、今この現実よりもしっくりと馴染むような錯覚を覚えた。

数分後、ミラからもう一通、メッセージが届いた。


《あ、そういえば――あの計画、進めるみたいですよ》


『あの計画』――


それは、ゲーム内に存在する小さな村を、仲間たちで乗っ取り、自分たちの拠点に作り替えるというものだった。


この世界では、NPCが暮らす村や町にプレイヤーが入り込み、時に住人たちを味方につけ、時に排除し、やがてその土地を『所有する』ことすらできるようになる。村を発展させ、資源を集め、勢力を拡大し――


そうやって周囲の敵対勢力と抗争を繰り広げるのが、このゲームのひとつのスタンダードだという。もちろん、誰にも何処にも属さず、静かな山奥で狩猟生活を送ることもできる。市場で交易を楽しんだり、ただ旅を続けるだけでも構わない。この世界の在り方は、すべてプレイヤーの選択に委ねられている。


けれど、仲間を持ち、力をつけるにつれて――

同じように勢力を拡大する『敵』も現れる。それがこの世界の理(ことわり)だった。


だからこそ、クロノは言ったのだ。

「安心して戻ってこられる場所を作るのが、最初の一歩だと思ってます」


無口な彼が珍しく言葉を重ねたそのとき、『ミナト』はふと、心がざわつくのを感じていた。


(……俺も、あそこに『帰れる場所』を作れるのか。)


進める、ということは――武力、か。


湊はスマホを置き、ソファにもたれながら思考をめぐらせた。


もちろん、村の住人たちと丁寧に交渉し、信頼を得てから内部から掌握する――


そんな『政治的な』手段も、システム上は可能らしい。だが、それには相応の時間と、リアルなお金、あちら側の通貨や資源が必要になる。

反対に、強いプレイヤーが数人揃っていれば、NPCたちの抵抗などものともせず、一気に制圧することもできる。


『やり方は自由』――それがこの世界のルールだった。


(……クロノは、後者を選んだってことか)


慎重で、無駄のない判断をするあいつが武力を選ぶということは、村の地形やNPCの配置、相手勢力との距離感まで、すべて計算づくということだ。


――そして何より、それは『今がタイミングだ』という意味でもある。


湊の中で、何かが少しだけ熱を帯びた。脳裏に浮かんだのは、薄暗い村の入り口と、そこに立つ自分たちの姿だった。


《そっか……今、クロノは来てる?ちょっとだけ行こうかな……》

湊は、そんなふうにメッセージを送った。

(ちょっとだけ。)自分に言い聞かせるような言葉だった。


すぐにミラから返信が届く。

《クロノさん来てますよ! 待ってます。って。私も来てくれたら嬉しいです!》


画面を見つめたまま、湊は小さく息を吐いた。たったそれだけの言葉なのに、妙に気分がいい。胸の奥に張りついていた重さが、少しだけ軽くなったような気がした。


(……ちょっとだけ。ほんの少しだけなら)


もう一度、自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。視線は、自然とベッドの下へ向いていた。


湊は立ち上がり、しゃがみ込むと、手を伸ばした。黒い箱に指が触れる。久しぶりに感じるその質感が、ひどく懐かしく感じられた。


ゆっくりと、箱を取り出す。


中には、整然と収まったゴーグルと接続コード、SynDive-VR03のロゴが控えめに浮かんでいる。


胸が、少しだけ高鳴った。


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